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【2464026】2012年 東京大学 京都大学 首都圏難関大学合格者速報

投稿者: インターエデュ  (ID:inter-edu) 投稿日時:2012年 03月 10日 17:57

こちらは2012年東京大学・京都大学・首都圏難関大学合格者数高校別ランキング速報専用スレッドです。

3/10(土)、東京大学・京都大学・首都圏難関大学の合格発表が行われました。
気になる学校の合格者数は?昨年の合格者数と比較すると?現役合格別に見るとどこが1位?等々、今年の大学入試について語り合ってみませんか?

※こちらに書き込まれた内容は、2012年東京大学・京都大学・首都圏難関大学合格者数高校別ランキング速報のページに新着順で表示されます。

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  1. 【2472533】 投稿者: 格下の戦い  (ID:tu2662.U9M2) 投稿日時:2012年 03月 17日 02:09

    駒場東邦   | *67 (*49) || *8 | 16 | 11 | 24 | *5 | *3 |
    聖光学院   | *63 (*50) || 12 | 14 | *6 | 20 | 10 | *1 |

    格下の駒東に負けるようでは困るんだけど

  2. 【2472612】 投稿者: 私立エリート高校  (ID:R5CjLuh1ojY) 投稿日時:2012年 03月 17日 07:22

    灘や麻布、駒場(つっこま)など、校名からしてローカル地名そのもので、もともとエリート志向の学校でなかったはず。

    例えば灘の場合:
    「戦前は、灘あたりは新興都市神戸の場末であり、阪神国道は行き交う荷馬車の馬糞だらけで、人が歩こうにも歩く場所もないほどであった。
    灘中は、神戸一~三中のオコボレが集まるボンボン学校であり、当時の女学生からは、ハナもひっかけてもらえぬ存在であった。」
    -遠藤周作(灘OB)の回想による-

    戦前の歴史がない(つっこま)は置いといて、麻布、開成はどうだったんですかね。
    開成は、校名からして由緒がありそうで、高橋是清などが校長を勤めたようですが。

  3. 【2472640】 投稿者: 開成 ウィキペディアより  (ID:VquejGCocJg) 投稿日時:2012年 03月 17日 08:02

    沿革

    1871年、佐野鼎らによって神田相生橋(現 神田淡路町)に共立学校(きょうりゅう がっこう)として創立された。佐野の死後には廃校同様となったが、1878年に大学予備門教授の傍ら高橋是清が校長、鈴木智雄らが講師に就任した。共立学校を大学予備門への進学者のための受験予備校として改革し、是清が校長に就任した翌年の1879年には、共立学校からの大学予備門入学者が定員466名のところ、実に112名に達した。以降も、東京英語学校(現・日本学園中・高)や成立学舎などと共に、一高への合格者数上位校として知られていた[1][2]。
    1886年及び1891年の中学校令公布により、1府県1中学以上と定められたことで、東京に受験生が集まらなくなった私立各校は軒並み経営が傾いた。そのためもあって1891年の尋常中学校令により尋常中学共立学校と改組・改称。さらに、当時官公立校に対してだけ認められていた在学生に対する徴兵猶予や校地に対する免税、卒業生の判任官任用などの特権を得る便法としての有利な条件も働き、数多ある私学のうち、まず共立中学(現・都立戸山高校)が、次いで共立学校(開成)が東京府の管轄下に入り、1895年にはそれぞれ東京府城北尋常中学校、東京府開成尋常中学校と改称した。このとき、校名が「共立学校」から「開成」となったのは、東京府当局が「共立」と「府立」は相容れないとして難色を示したためだとされている[3][1]。さらに中学校令改正により1899年に東京府開成中学校と改称。「開成」という名称は、易・繋辞伝(けいじでん)にある「夫易開物成務」という言葉が由来である。
    まもなく各種特権が私学にも与えられるようになったこともあって、1901年に府の管轄から私立へ復して私立東京開成中学校となり、1919年に東京開成中学校と改称。1903年には開成夜学校を併設。1945年には戦局悪化のため、無試験入学となる。翌1946年には入学試験が再開されるが、筆記試験が復活するのは1953年のことであった。戦後、学制改革により、1947年に新制中学校(開成中学校)が発足し、1948年には新制高等学校(開成高等学校)が併設され、旧制5年制中学から新制6年制中高一貫の開成中学校・高等学校へ移行し現在に至る。
    また、現在の道灌山の校地に移転したのは、関東大震災により淡路町校舎が消失した1924年のこと[4]。1920年に初めて行われた東京高師附属中学校(現・筑波大附属中・高)とのボートレースは現在も行われている。
    校風・特徴

    学校の方針に基づき、行事や部活動の運営・管理は生徒に任せられる。特に運動会や文化祭においては教員が行うことはほとんどない。
    高3の運動会を終えて本格的な受験勉強を始めるという生徒が大半で、学校側もそれに合ったカリキュラムを組んでいる。
    運動会では中1から高2までをすべて高3が指導するので、入学当初から常に上下関係を重んじる体質となっている。[要出典]
    不祥事

    2011年9月14日、保健体育科の男性教諭が会員制サイト「mixi」で知り合った女子高校生と2011年1月1日1時30分頃と9時頃にみだらな行為を行った容疑(都青少年健全育成条例違反容疑)で神奈川県警に逮捕された[5][6][7]。男性教諭は容疑を認め、退職した[8]。

  4. 【2472651】 投稿者: 筑駒 ウィキペディアより  (ID:VquejGCocJg) 投稿日時:2012年 03月 17日 08:20

    沿革
    1947年 - 東京農業教育専門学校附属中学校(普通課程2学級(96名))として開校。
    1949年 - 東京教育大学東京農業教育専門学校附属中学校となる。
    1950年 - 同附属高等学校が開校。(農業科1学級、普通科1学級、定員80名)[2]
    1952年 - 東京教育大学附属駒場中学校・高等学校と改称。
    1953年 - 高等学校に普通科1学級増設。
    1956年 - 同年中学入学者から中高一貫教育となる。
    1962年 - 中学校2学級、高等学校普通科4学級体制へ移行。
    1970年 - 中学校3学級体制へ移行。
    1978年 - 筑波大学附属駒場中学校・高等学校と改称。
    2004年 - 国立大学法人筑波大学に移管。

  5. 【2472663】 投稿者: 灘 ウィキペディアより  (ID:FGCafbaU9Rs) 投稿日時:2012年 03月 17日 08:28

    沿革

    灘地方で酒造業を営む、嘉納治郎右衛門(菊正宗)、嘉納治兵衛(白鶴)、山邑太左衛門(櫻正宗)によって設立された。同様に酒造業者が設立した学校として甲陽学院がある。

    設立にあたっては白鶴嘉納家の縁戚で、講道館柔道の創始者であり、東京高等師範学校(現・筑波大学)やその附属校(現・筑波大附属中・高)などの学校長職を25年間ほど務めた嘉納治五郎が顧問として参画。治五郎が柔道の精神として唱えた「精力善用」「自他共栄」が校是となった。(この嘉納治五郎の影響で柔道の時間が体育とは別に週1時間ある。)

    初代校長は東京高師の数物化学科を卒業後各地で教職を歴任していた眞田範衞が治五郎からの要請で就任。眞田は灘校の「教育の方針」を定め、自ら校歌・生徒歌も作詞した。1927年(昭和2年)10月24日に設置認可を受け、この日を創立記念日とする。その翌年に開校。

    当時は神戸一中や二中に入学できなかった者が入学してきたが、当初から公立中学を抜かすことを考えていた様で、学力向上に力を入れ、学力別にA・B・C・Dに学級分けにした。第二次世界大戦前は柔道部の活躍の方が有名であった[1]。

    第二次世界大戦後、公立高校の学区制度が実施された為、戦後から昭和40年代にかけて徐々に東京大学への進学校として台頭してきた。1968年(昭和43年)度東大入試において、それまでトップの座に君臨してきた東京の日比谷高校を抜き去り、私学では初めて単独での東大合格者数首位の座を掴む。以来、東大合格者数トップ校の一角を占める学校として知られる。

  6. 【2472672】 投稿者: 名門  (ID:FGCafbaU9Rs) 投稿日時:2012年 03月 17日 08:35

    筑駒は、農家が作ったんだ!
    灘は、酒屋が作ったんだ! しかも、筑付の孫のようである(笑)

    これじゃ、筑駒と灘は永遠に名門にならないよ。

    開成は、早慶大のレベルだね。総理大臣レベルの方が関わって設立したもの。

    やっぱり、開成は名門だね!!!

  7. 【2472706】 投稿者: 結果偏差値のいろは  (ID:NYFwsBmNWmE) 投稿日時:2012年 03月 17日 09:04

    「番狂わせ」は結果偏差値を下げる要素の一つ。

                        by 畿内人

  8. 【2472819】 投稿者: 筑附 ウィキペディアより  (ID:aiOnRcWh5sQ) 投稿日時:2012年 03月 17日 10:33

    1888年(明治21年)に高等師範学校(官立)の尋常中学科として江戸幕府直轄の昌平黌跡に設立されて以来、120年以上の歴史を有する国立の進学校。
    中学校、高校ともに外部からの入学を受け入れているが、完全な中高一貫ではなく、中学から高校へは、内部連絡入試(一般入試とは異なる)を経て、男女それぞれ上位80%が進学できる。1学年の生徒数は中学205名、高校240名である。また、筑波大学の附属校であるが、同大学への特別な内部進学枠は存在しない。
    中学校には制服があり、男子は、明治期創設の学習院中・高等科と似た、海軍兵学校(現・海上自衛隊幹部候補生学校)学生服型(ネイビーブルー。セーラー服同様に着丈が短く、詰襟で前合わせもホック留め、前合わせ・襟・袖に黒の蛇腹リボン装飾の上着。昔の海軍士官型でもある。日本海海戦の写真参照。同型は巣鴨中学校・高等学校が採用)、女子はセーラー服である。男子制服には帽子も付帯し、古い時代には登下校時、校門守衛所を通る際に脱帽し、帽子を脇に抱えて礼をするなどの着用義務があったが、現在は随意である。
    高校もかつては中学と同じ制服を使用したが、1970年(昭和45年)2月に生徒自治会および教員委員会の決定によって服装既定が廃止され、現在は私服である。
    中学は「強く、正しく、朗らかに」を、高校は「自主、自律、自由」をそれぞれモットーとする。 そのモットー通りか、昭和の一時期まではオートバイや自動車での通学も許可されていた。
    現役生は、自校のことを「筑附」や「筑波」と称することが多いが、各界で活躍している卒業生は、まだ東京教育大学附属時代の人が多いことや、脚注2 の理由があり、卒業すると、単に「附属」と呼ぶことが多い。高校では現役生・卒業生ともに、何回生かで自己紹介をする。また、在学する三年間クラス替えは行われないので「○○回の○組」で通じる。
    2011年度の高校1年生は「122回生」、高校3年生は「120回生」である。 2008年10月10日には、創立120周年記念式典が催された。

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