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【1857535】シベリヤ抑留者(後の日教組)は社会主義拡散を条件に解放って本当?

投稿者: 小樽教祖→北教祖→全国日教組   (ID:IsdCv1nQKCo) 投稿日時:2010年 09月 21日 10:00

終戦後8月15日以降に 北方領土で捕虜にされた日本人は当時のロシア政府と念書を交わした。つまり「帰国後 社会主義拡散活動に貢献すること」を条件として記憶を許された。

そして小樽教祖を作り 北海道教祖を作り それを全国に波及させたものが全国日教組である。。。と

http://www.youtube.com/watch?v=1zh7bd_XiQ0&feature=related
(動画です)

本当なんでしょうか。愛国心を持って戦闘に参加し、ロシアで酷い目に合った日本人が社会主義に対して帰国後も忠誠心を持ち続けたのでしょうか。

今に至る日教組の力を考えると その原動力は並大抵のものではないと思われます。この小樽教祖に関わった人達の当時の心境やモーチベーションが良く理解できません。

もともと北海道の人たちには愛国心を持たないどころか反日思想の方が多いのでしょうか。本土から左遷された元士族、本土で差別され新天地を求めて移動した方達が移り住んだ、と認識していたのですが。。

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  1. 【1989884】 投稿者: 氷雪の門  (ID:lZUf0y6F3Is) 投稿日時:2011年 01月 24日 11:18

    映画「氷雪の門」をご存じでしょうか。石原都知事が推薦していたので調べてみました。
    36年前に政治的考慮から突如上映中止になった作品です。


    http://www.hyosetsu.com/


    語り継がなければならないこの史実

    現在ロシア領サハリンと呼ばれるかつての樺太。1945年8月15日の終戦の混乱の中、この地で多くの日本人が死んでいった。8月6日、米軍による世界初の原爆が広島に、続いて8月9日には長崎にも投下された。同日、ソ連は「日ソ不可侵条約」を破り、満州、樺太に侵攻した。
    本作『樺太1945年夏 氷雪の門』は、ソ連の侵攻作戦のただなかで、最後まで通信連絡をとり、若い生命をなげうった真岡郵便局電話交換手9人の乙女の悲劇を描いた真実の物語である。戦争は終わったはずなのに、何故、彼女たちは死を選ばねばならなかったのか。この映画はその深層に挑んだ。

    ◆ 空前のスケールで描かれた平和への願い

    1974年当時、日本の映画界にしては珍しくスケールが大きく、製作実行予算が5億数千万を超えた超大作として話題を呼んだ。
    戦闘シーンを陸上自衛隊が全面協力し、撮影場所も終戦時の樺太に似た地形を求めて、北海道全域をはじめ、御殿場、丹沢、大山、そして常盤炭鉱地にオープンセットを組み立ててロケを行った。原作は金子俊男の「樺太一九四五年夏・樺太終戦記録」。脚本は「幕末残酷物語」の国弘威雄、監督は「あゝ海軍」の村山三男、撮影は「早池峰の賦」の西山東男、美術は木村威夫。特に少ない資料の中から樺太の街を作り上げた木村威夫の美術は圧巻である。

    ◆ 36年ぶりの劇場公開!!

    日本映画に、なぜか樺太を扱った映画はない。『樺太1945年夏 氷雪の門』こそ、樺太の史実と事実を残した唯一の映画である。企画・製作に9年もの歳月をかけ、試写会やアンケート調査を重ね、内容を吟味した末、完成に至り、文部省選定や日本PTA全国協など各種団体の推薦も受けていた。また、本作の期待度の高さは、前売り券の売れ行きが70万枚に達していたことからも伺える。しかしながら、本作の公開が予定されていた1974年3月29日を目前に、急遽、公開中止となってしまう。当時の新聞資料等は、ソ連大使館から外務、文部両省に「反ソ映画の上映は困る」との抗議により、配給会社が自粛に至ったと報道している。その後、東映洋画配給により、東映系、東映パラス系にて、劇場公開(北海道・九州)がされるものの、小規模で、実質的には日の目を見ることはなかった。
    6年前の2004年、貴重なフィルムが発掘された。本作に助監督として参加していた新城卓氏が中心となり、“映画「氷雪の門」上映委員会”を結成。フィルムをデジタル化し、上映活動を展開。作品に出会った多くの方の熱い支持を受け、今夏、36年ぶりの劇場公開となる。


    ◆ 氷雪の門

    北海道稚内の突端に、二本の塔が失われた樺太を遥かに望んで、厳しい風土に耐えて生き抜いた樺太島を象徴するかのように建つ女人像。戦争への怒りと、平和への願いを込めたこの塔は「氷雪の門」と呼ばれる。本作もこの塔と全く同じ願いを込めて作られた。

    氷雪の門について詳しく読む(Wikipedia)
    氷雪の門の場所(Google Map)



    ◆ 真岡町

    日本の領有下において樺太(南樺太)に存在した町。現在はロシア連邦がサハリン州ホルムスクとして実効支配している。日本領有下当時、大規模な港湾施設が存在し、日本最北の不凍港とも呼ばれていた。1941年の真岡町の人口は19,193人。終戦後、樺太からの引揚船は真岡港から出港。北方領土を含むソ連占領地域の住民28万人余りがここから日本(内地)へ向かった。

    ◆ 日ソ不可侵条約

    1941年(昭和16年)に日本とソビエト連邦(ソ連)の間で締結された中立条約。相互不可侵および、一方が第三国の軍事行動の対象になった場合の他方の中立などを定めた全4条の条約本文、及び、満州国とモンゴル人民共和国それぞれの領土の保全と相互不可侵を謳った声明書から成る。有効期間は5年であり、その満了1年前までに両国のいずれかが廃棄を通告しない場合は、さらに次の5年間、自動的に延長されるものとされた(第3条)。

    ◆ 玉音放送「終戦の詔勅」

    1945年8月15日正午にラジオで放送された。出だしは、「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非情ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ滋ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク…」
    しかし、樺太の例を見るように、一部ではすぐには終結せず、戦争状態が継続され、多くの犠牲者が出た。

    ◆ 電話交換手の仕事

    電話局に常駐する交換手(オペレータ)が通話を媒介する。
     1.発信者が交換手を呼び出し、交換手に相手先電話番号を告げる。
     2.交換手が連絡を取り合いながら配線を繋ぎ変える。
     3.受け側の交換手が受信者を呼び出す。
     4.受信者が応答し会話が開始される。
     5.どちらかが終話の操作を行うと回線は切断される。
    真岡郵便局の電話交換業務は、普段から24時間体制で運営され、
    1組12人ほどをひとつの班として、3交代勤務をとっていた。



    ◆ 緊急疎開命令

    1945年8月8日、ソ連は対日宣戦を布告。9日、北緯50度の国境線を突破したソ連軍の動きに対して、樺太庁は13日、急遽本土への「緊急疎開」を決めた。大泊、本斗、真岡の三港を邦人輸送港に指定し、婦女子と14歳以下の男子、老齢者の引揚げが始まった。しかしながらソ連は、樺太西海岸の塔路、恵須取に艦砲射撃を開始し、日本が「終戦の詔勅」を持って無条件降伏を宣言し、軍の攻撃停止を命じた翌日の16日、遂に樺太に上陸する。このことにより、邦人の避難は加速。鉄道駅のある町まで長蛇の列をなして移動し、さらに鉄道や船舶を使って南下、西海岸の最初の輸送港であり、鉄道の中継地でもあった真岡に集結した。
    真岡町民の引揚げも16日から町区単位で始まった。郵便局電話交換室に努める女子職員も半分ほどが引揚げた。自らの意志で残った20名の交換嬢が、2組の班をつくり、交代で24時間体制の業務に就いた。

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