在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
立志社棟広塾について
当方新中一の保護者です。昨日の新聞広告に、西宮の立志社棟広塾というところがでていました。数ヶ月前、子供の友人のお母様が「お友達から聞いたのだけれど夙川の「りっししゃ」というところが難関私学高校の受験にいいそうよ」と教えてくださったのですが、こちらのことではないか?と思っております。ご存じの方や行っておられるもしくは行っておられた方、どんなことでも結構ですので教えていただけませんか?よろしくお願いいたします。
岡田先生の頭張り手、頭ぐりぐりを思い出して
胸が熱くなりました。
岡田先生はアメリカ軍に入って英語を習得したといううわさもあり
みんなで一心不乱に英語の予習をしたことが昨日のようです。
さて、本題ですが中学入試は単なる通過点。
中学受験で灘甲陽に合格して道を誤った人を数多く見てきました。
「人生は公平。すべての経験は必然かつ最善。」
お子さんと、良く相談されてください。
元立志社生徒さま
年をとればさま
OBさま アドバイスありがとうございました。
コブが出来るほどのげんこつ・・・なんて今では考えられませんね。それでは生徒がついてこないY(>_<、)Y
昔は学校の先生でも悪いことをしたら一発げんこつってありましたよね。(今じゃ教育委員会送りものですが・・)それで学んだことも多かった気がしています。
今まで憧れ校に向かって突っ走ってきていたので、だから余計に今通っている公立中学校が何かにつけて頼りない(語弊があるかもしれませんが)そんなんで大丈夫なの?的感覚でいっぱいでいます。息子はどこ吹く風で、学校生活を楽しんでいますが。
でも本当に息子に目的が出来それに向かうなら、どこにいてもどこの学校でも同じなのかもしれません。これからまだ3年弱ありますし、皆さまの言葉「中学受験は単なる通過点、クールダウン・クールダウン」心してまいりたいと思います。ありがとうございました。
私は36になりますので丁度21年前に岡本の立志社に行っていました。岡田先生には本当によく張り手をうけました。当時からそれは怖いけど嫌なものではなく、軍隊で精神を鍛えることの重要性を学んだと考えておられた先生の人柄がでていました。もう80を超えておられるはずでお元気でしょうか。大丈夫かとあとで声をかけてくれた友達の心配そうなかわいい顔を昨日のように思い出します。棟広先生はお元気なのですね、まじめで冷たくも見えますが、熱い先生でしたね。一番やさしい先生でした。
昔行っていた塾を検索すると名前が立志社棟広塾に変わっていました。
数件の書き込みがありましたので読みでいると非常に懐かしいです。
私の頃、21年前、中一の1年間だけ通いました。
よく名前の出てくる岡田先生と棟広先生はAクラス(成績の上のクラス担当)で、私はAとBを行ったり来たりしていました。
やはり上のクラスの緊張感はぜんぜん違います。
皆さんが言うように岡田先生は非常に怖く数回たたかれた記憶があります。
数学が好きなので数学担当の棟広先生は好きでした。(単純ですね。)
因数分解の小テストで100点を取ったとき「100点ノート」を貰いました。こういうとこ好きです。
はち高原の合宿、夏休みの朝早くに岡本の塾の前に集合して連れて行かれたました。確か荷物をダンボール箱1個にまとめて持参したんじゃないかな。
運動クラブに入った事のない私が唯一合宿に行ったのがここでした。
曖昧ですが、山で集合写真を撮ったのと、体育館のような広い場所に大量に並べられた3人掛けの長机でひたすら勉強したのと、上級生か卒業生?が竹刀を持って監視をしていたのと、夜は消灯後騒いでいるのを見つかり廊下に正座させられた記憶があります。
賛否両論あるでしょうが経験する事はいい事ですね。鉄拳や競争。
今の棟広塾に関する書き込みがありませんので、解決してると分かってるのですが書き込ませていただきます。私は1年前に棟広塾を辞めました、理由は親の海外赴任なのですが、それがなければずっと通い続けたかったと思うぐらい棟広塾は素晴らしい塾です。
今は棟広先生と吹原先生、あと他数名の先生方がいらっしゃると思います。授業というよりも自習という形をとっていて、予習・復習などをして分からない問題があれば先生に尋ねるといった感じです。相談すれば個々にあった参考書や問題集も紹介して下さいますし、宿題も出していただけます。棚には収まりきらないほどの参考書や問題集があり、自由に使うことが出来ます。1年前の毎週土曜日の午後は化学と英語の授業をやっておられましたが、残念ながら今もやってるかどうかは分からないです。自由参加ですが、難関大学受験向けの講座だったので参加してたのは高校2年、3年生ばかりでした。
このような体制のため、毎月月謝を払ってればいつ塾に来ても構わないということです、事実私も週に3回は通い、テスト2週間前になるとほぼ毎日通っていました。ただ、テスト前になると普段来ない生徒もたくさん来るので、先生になかなか質問が出来ませんでした。
最後に棟広先生に関してですが、時代が変わったのでしょう、今ではとても温和になられたとおもいます。非常に素晴らしい方ですが、少々変わっているので最初は近づきにくいかもしれません。たとても忙しい方なので、入塾や見学する際には事前に連絡を入れたほうが良いと思われます。
久しぶりに立志社の名前を拝見しました。
うちの息子も棟広先生の息子さんと同学年でした。
冬休みの勝尾寺 夏のはち高原での合宿のたび 段ボール箱に色別で(赤・黒・緑だったと思う)クラスと名前を記入した事。重い段ボール箱を車に乗せて 送迎した事。走馬灯のように思い出しました。
もう20年近く前の事になります。当時 息子は中学受験に失敗し 親も受験の情報が無かったので途方に暮れていましたが ある中学の受験時 立志社のチラシを貰い入塾テストを受け 3年間通いました。
結局地元の中学に通い 下校時学校近くで 夕食のお弁当と塾のかばんを持って待ち合わせ 駅まで送り 22時頃迎えに行く・・・親子ともども3年間頑張りました。
毎月のように保護者会が有り そこで知り合った10数名の方々と 保護者会の前に岡本駅近くで食事をしながら 通学している中学との付き合い方(ほとんどの方が公立の地元中学) 中学での保護者の役員参加について(内申書対策)高校説明会の情報や 願書の取り寄せ 宿泊ホテルの事などこまごまと情報交換をしました。
皆 中学受験を失敗した保護者でしたので 同じ過ちは繰り返したくない思いから 団結力は有りました。それぞれの子供さんが 良いライバルで この子たちに鍛えて貰うという意識が有りました。それにそれぞれ一番難しい年頃でした。
あの頃の3年間は これが息子と共に過ごす最後の期間という気持ちで過ごしましたが 灘高校から東大に行き 現在は中央官庁。あの頃が一番深く息子に関わった時だったと思います。高校でも内部進学者(中学)とは別クラスでしたので その後も(現在も)保護者間での付き合いは続いてます。
今年 親戚のお子さんが中学受験を失敗 息子の塾の事を聞かれ 現在の様子を調べようと久しぶりに立志社の名前を拝見した次第です。
息子にとってはかなり辛い3年間だったと思います。当時女子は2人位通っていて 可哀そうな感じでしたが 多感な あの頃の息子には ここでの経験は必要でした。
父親は仕事が多忙な年代 体力的にも精神的にも成長する息子を 叱咤激励できる存在韓のある塾を当時探していましたので うちは当時の立志社に通わせて良かったと思っています。
塾での様子は息子からは聞けませんが 少し時差は有りますが 先程の保護者間で間接的に聞くことはできました。(自分の事は皆言いませんが 他人の事はそれぞれの親に話しますので)
長い人生の ほんの一時期かも知れませんが 心配は尽きないと思います。
この欄をご覧の保護者の方もいらっしゃると思い 昔とは状況は異なるかもしれませんが 20年近く前 陰ながら支えていた親がここにもいたという事を書いてみました。
「ウンッ!!(バシッ!!)ウンッ!!(バシッ!!)
逃げるなッ!!男らしくないッ!!
ウンッ!!(バシッ!!)ウンッ!!(バシッ!!)
この後に及んでっ!!
ウンッ!!(バシッ!!)ウンッ!!(バシッ!!)
エイくそっ!!腹の立つーゥゥッ!!
ウンッ!!(バシッ!!)ウンッ!!(バシッ!!)
グスッ・・(すすり泣きの声)
泣くな貴様っ!!うっとーしぃぃッ!!」
1985年頃(?)に神戸市東灘区岡本にあった高校受験専門進学塾「立志社」に通っていました。約30年前ですが、今でも立志社での出来事をはっきり思い出すことができます。ドえらいスパルタ教育で、1年も経たずに成績不良でクビになるという結末(灘高:18名合格/24名受験、という風に示し、高合格率を宣伝するために成績不良者をクビにするシステムによる)でしたが、不思議と不快な記憶はなく、上記の英語担当の岡田年夫先生の「ウンッ!!ウンッ!!」という頭を平手打ちする時の唸り声が30年経った今でも時折面白おかしく思い出されます。
立志社の先生方と話した母の話によると、私の入塾テストの点数は良くなかったようで、数学の棟広先生と、国語の田中先生(?)は入塾を許可しないという御意見だったそうです。しかし、岡田先生が「光るものがある」とおっしゃってくれたお蔭で入塾に至ったと聞きました。
第二次世界大戦時に従軍経験があったと仰る岡田先生は禿げ頭で、(当時の印象ですが)大柄、目が血走っていて、いつも肌着のようなものを身に着けておられた記憶があります。見た目も恐ろしいですが、遅刻したりすると先述のウンウン平手打ちで猛烈な折檻をされるので授業中は非常な緊張感が漂っていました。時々「ヘエェェェーッ!!」という鼓膜が破れそうになるような大音量でくしゃみをされるのですが、笑ったり振り返ったりしようものならどんな恐ろしい目に遭うか分からないため、皆静まり返って前を向いていました。
岡田先生以外にも強烈にスパルタな理科の先生(お名前を失念しました)が いらっしゃって、塾生が理科の小テストを間違えると「○点やから・・○発やね」と宣告した後、「一発ッ!!二発ッ!!」と叫びながらフルスィングでビンタを繰り出されていました。ボサボサ頭のこの理科の先生は、ハチ高原に合宿に行ったとき、自分の部屋で寝ながらお経らしきテープを結構な音量で聴いておられました。兎に角、実に個性豊かで、記憶に残るというよりは、脳裏に刻み込まれる講師陣でした。
要領が悪く、受験技術をうまく身に付けられなかった私にとって、灘・甲陽なんか夢のまた夢・・成績が良く難関進学校が視界に入っている連中をうらやましく眺めていたものです。そういえばトップの成績を収めたものに与えられる称号「ミスター立志社」なんてのがありました。いったいどんな勉強して、どんな生活をしたらミスター立志社が獲れ、灘に合格できるのか、今でも大いに興味があります。
浮世離れしていて、ただひたすら、純粋に受験技術を磨き、灘・甲陽を目指す立志社・・なんだか愛着があったので難関高受験の不適格者の烙印を押されてクビを宣告された時は本当に残念に思いました。
その後、私は地元のごく普通の公立高校に入り、一流と見られることがない私立大学に入り、卒業後、小さな会社に入りました。この会社の業務を通じて科学研究の世界と関わることになりました。これを切っ掛けにして研究に取り組み、学術論文20報以上、招待講演6回などの研究業績を上げて、現在は会社に在籍しつつ旧帝国大学の特任准教授の職に就いています。受験勉強に明らかに失敗し、受験で落伍者になった私と科学の世界で仕事をしている今の私を重ねて考えると何だか不思議な感じです。言うまでもなく、学問研究とそこから生まれてきた受験勉強は重なり合っているので。
今は、英語の論文を書き、外国人研究者と交流したりと、英語を大いに活用して科学研究に勤しんでいます。そして僅かながら科学研究の世界で成功を収めることができました。無論、岡田先生から学んだ英語が現在の私の英語の基礎を構成しています。
岡田先生が言ってくれたように少しは光ることができただろうか・・
時々立志社での思い出に浸りつつ今後も頑張ります。
「ノンプレ!!」
「sink!! sank!! sunk!!」
「sink!! sank!! sunk!!」




































