女子美の中高大連携授業
立志社棟広塾について
当方新中一の保護者です。昨日の新聞広告に、西宮の立志社棟広塾というところがでていました。数ヶ月前、子供の友人のお母様が「お友達から聞いたのだけれど夙川の「りっししゃ」というところが難関私学高校の受験にいいそうよ」と教えてくださったのですが、こちらのことではないか?と思っております。ご存じの方や行っておられるもしくは行っておられた方、どんなことでも結構ですので教えていただけませんか?よろしくお願いいたします。
立志社と柳学園・岡山白陵は不適切な関係がありました。
まず柳学園ですが、柳学園の校長が甲陽学院出身で棟広と友人だったため、柳学園が立志社の生徒を対象にした非公表の入試を行っていました。それを受けた生徒は全員合格していました。
また岡山白陵は、通常は在学校の調査書が必要ですが、立志社の受験者は2学期の通知表のコピーを提出すればよいとされていました。
これらは不適切ですよね。
たまたま立志社を検索したらこのスレを見つけました。(現在は2024年、元スレは2005年ですか...)
進学塾立志社はもはや伝説と化しており、その実態をネット上で探そうとしてもなかなか見つかりません。こうして立志社OBたちの遠い目をしながら書いたであろう貴重な記録を読み、「自分もこのスレに書き残さねばならない、いや書き残すべきだ」と勝手に強く思いました。笑
OBのみなさま、懐かしんで楽しんでいただけたら幸いです。
(質問に答えない使い方をしてスレ主のるるる☆さんには申し訳ないですが)
■まずは懐かしの立志社から。
私は兄弟が関西のトップ中に合格していて当然あんたも受験して私立行くよね、という雰囲気の中なんとなく塾通いを始めたのですが、いちばん出来が悪くて中学受験に失敗しました。その帰りに配られていた立志社のちらしを見て、高校で追いつくにはここしかないと思い入塾しました。
私も他の投稿者さんと同じで棟広先生の息子さんと同学年で同じ教室で学んでいました。英語は岡田先生、国語は薮内先生でした。
岡田先生は、太平洋戦争では陸軍第x師団に所属し東南アジアに出兵経験があるようなことをおっしゃってました。戦車を隠す塹壕を掘った話などをよく聞かされました。みなさんが書いている通りの言動で、とにかく怖かったですね。
机の下に手をおろしていると「きさまーッ!ち○こにぎっとんのか!」って女子生徒も1~2名ぐらいいた中で叫んでたし、遅刻してきた子は襟首をひねりあげられて下駄箱にバコバコ打ち付けられていました。
私の記憶の中に残っている岡田先生の英語は「Man Men!、Man Men!」です。
国語の薮内先生は、生徒の服に書いてあるちょっとした英語を読み上げて、それをいじってましたね。「とらでぃしょなる。ふん。なにがTraditionalやねん!」みたいな。笑
あとは田舎からきている私に対して、同じく奈良の東大寺から2時間かけて通塾し見事灘高に合格された先輩を引き合いに出して「おなじ田舎から来てるのにお前は出来が悪いのぉ」となじられました。
棟広先生はその中でも一番優しかったですが、少し変わっている、というのはその通りだと思います。でも、あの当時、あのNo.1塾を作り上げていたのですからそれだけ尖っていたからこそできたのだろうと思います。
冬は勝尾寺、夏はハチ高原での合宿で、冬休みも夏休みもほとんど無いようなもんでした。普段は田舎から2時間弱かけて通塾していたので部活もできず帰宅部でした。中1の4月から生活の軸が立志社で、中学生らしい生活や青春を過ごせませんでした。
■あの経験はなんだったのか?
結局、体もぼろぼろになり、中2の冬合宿が終わったときに親に「もう無理です。辞めたい」と告げました。教育熱心な親もさすがに限界だと感じていたのか割とあっさり認めてくれました。
でもその返す刀で「地元の一番の塾に行け」ということになり、前よりかはずいぶんと楽になったけど結局は塾通いが続きました。そして地元No.1の公立高理数コースに合格しました。(立志社で研鑽したおかげだったのは言うまでもありません)
その後の人生も予備校通いなどいろいろ経て関西の国立大学、現在は東京で中流階級として幸せに過ごしています。
自分の人生にとってあの頃の立志社通いは、憎み、恨むものです。後から考えると、あんなところに行く必要もなかったのになんでだと。
でも、あの多感な時期に圧倒的に理不尽な状況を生き抜いたおかげで、圧倒的な踏ん張り力が付いたのは事実だと思っているのと、その経験を反面教師として自分の子供の教育に活かせていると思います。
■一般論として
他の投稿者の方が書かれている通り、何を目的にして塾に行くのか、中学生(もしくは高校生)としてどう過ごさせて将来はどのような豊かな心をもった人になって欲しいのか、など考えてあげるのがよいかと思います。
私は教育熱心な親の元、かなり歪んだ価値観で10代を過ごすことになり、本来得られたもの、得るべきものが、まったく得られなかったです。それを自覚してから、人並みの状況に戻すまでに失った10年以上の年数をさらに要しました。
塾に合う子・合わない子がいます。塾から見事にトップ中高に合格した人は向いていた子です。でもそれ以外ははっきり言って向いていません。(塾は収入源となるそういう生徒さんの不都合な事実を決して伝えません)
希望する学校へのアプローチの仕方はたくさんあります。子供にはよいコーチ、よいメンターが必要で、まずは親がその役割を(とても大変だけど)担ってあげてほしいです。
■わたしの個人的なエピソード
田舎に住んでいたので神戸電鉄をつかってトータル2時間弱かけて通ってました。塾のある日は学校から15分走り続けて家に帰り、おにぎりを加えながら今度は駅まで10分走る。そこから電車で新開地・三ノ宮経由で1時間30分、阪急岡本駅から塾まで15分という2時間弱の行程でした。
帰りは神戸電鉄が終電かその一本前になり、酔っ払いのおじさんに何度も絡まれながら深夜1時前に帰宅して、家族は寝ているので電子レンジで温めて一人で晩御飯を食べ、そこから塾の宿題・学校の宿題をし、寝るのは2時か3時ぐらいでした。
疲れて電車を寝過ごした場合はもっと悲惨です。ド田舎の遥か先まで電車が進みふと目が覚めるのです。無人駅で駅員はいないので、その電車の車掌さんが「切符代はいらないよ。それよりも家に帰れるか?もう電車は出なきゃいけないから行くけど大丈夫か?」と心配してくれました。田舎なので駅舎の前には電灯一つと公衆電話。テレホンカードで家に電話するけど寝ているので電話には気づいてくれません。延々と鳴らし続けてようやく親が電話に出てくれました。見知らぬ駅名を告げるも、家からそこまでは車で30分か40分かかるとのこと。街灯がなく真っ暗な田んぼの傍らで一人で待ち続けるのはとても心細かったです。2時に迎えに来てくれて帰ったのは3時過ぎでした。
中学生ですよ!?信じられます??でも当時は塾がすべてでそれが正しいことだと信じていました(洗脳されていました)。
他にも悲惨なエピソードはたくさんありますが、それら含めてとんでもない状況を生き抜いたのは自分の根っこにど根性を醸成することになりました。でも同時に消せないほどの闇が残りました。たまたま切り抜けられたのは神様のご加護があったのでしょう。
立志社。
うまくはまって相応の努力をした子は見事に灘・甲陽に合格していきました。素晴らしいです。ご本人も塾も。でも中学生には余りにも激しく過酷な塾だったと思います。
今の自分の根っこを作った環境を、遠い目をして懐かしんでます。笑




































