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【1256680】エチカの鏡 ココロにキクTV

投稿者: エチカの鏡 ココロにキクTV   (ID:/f7maFYJc7o) 投稿日時:2009年 04月 13日 12:12

http://www.nozomigakuen.co.jp/news/tv/index.html
フジテレビ系列 4月19日日曜21:00-21:54
「エチカの鏡 ココロにキクTV」に希学園が取り上げられます。

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「希学園に戻る」

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  1. 【1273742】 投稿者: 同意  (ID:r.YPjj5F6.w) 投稿日時:2009年 04月 29日 09:40

    1992さんの書き込み、最初はおいおいと思いましたが
    読むうちに続きが早く読みたくって
    楽しみにしてます。

  2. 【1273755】 投稿者: 1992  (ID:1fkxHxFrd3s) 投稿日時:2009年 04月 29日 10:05

    希学園も浜学園も、その発祥の地は奇しくも尼崎となりました。
    前田さんの実家の農家の小屋がその始まりです。そこで講義が始まったわけではありません。準備室として開設され、教材が作成されたり、問い合わせの電話対応がされたり・・・
    巷間、計画的な分裂、と評される場合がありますが、すべては退職してからの動き・・・ 浜にとっても突然ならば、前田さんとその一派にとっても「突然」だったことでしょう。
    週刊誌や一部報道などで「集団退職」と報じられましたが、当時の浜の規模で、8人は「大量」とか「集団」とはほど遠いものです。彼らが名称としてつけた「希」という文字、チラシにうたった「スーパーエリート」という言葉からも「自分たちのできる範囲で」できる専門店の設立、という思いがこめられていたはずです。
    前田さん退職後の浜学園の学園長は、浜学園の管理部長も歴任されたことがある中学部部長の宗清勝安さんでした。阪大卒で歯学博士の肩書きを持つ前田さんに質的にも対抗できるのは灘卒京都大学法学部卒の肩書きを持つ宗清さん以外の選択肢はなかったと思います。
    宗清さんは苦労の人でした。灘高合格者数日本一をめざしてなかなか実現できず、副部長に降格された経験もあります。灘高合格日本一を実現したときは、大はしゃぎすることなく、「長かったな」とポツリと、不思議と肩を落として感慨深く言われたことが印象的でした。
    橋本さんは浜に残りました。入江・板東さんの二人が希学園の創設者である以上、この二人と橋本さんは路線の相違から合流することは当時考えられませんでした。
    そして社会は浮世さんが動きました。そして八幡さんは動かず・・・
    当時も、今もこの「分裂の様相」を不思議に思う方もおられますが、すでに述べた内容をふりかえってください。
    算数では板東・橋本両氏の路線対立、橋本-八幡ラインは9コースで実績をあげていましたし、八幡さん自身は社会の授業を多く持ちたかったでしょう、また女子コースの担当者でもありましたから男子難関の灘・甲陽などを専門的に扱う塾、ということになるとちょっと移動にためらいがあったのかもしれません。またかつての9コースの統括の理科のYさんが希に移動したことも、Yさんの路線に否定的だった八幡さんにしては移動しない十分な理由になったと思います。また浮世さんは山下さんの弟子です。山下さんが来てほしい、と依頼したならば動かないはずはないでしょう。さらに小畑さんと浮世さんは3コース(星光・東大寺・洛星・洛星など)で統括・副統括の関係にあった時代もあります。
    双方、頂点に灘・甲陽をいだきながら、すそ野において橋本-八幡9コース、小畑-浮世3コース、の峰が浜学園という山にあった以上、この縦割れは不自然ではないでしょう?
    現在、双方、灘の実績が争点になっていますが、視点をずらせて四教科校では浜-神戸女学院、希-東大寺・洛南、の実績対比ができるのはこういう「歴史的背景」があるからです。
    分裂時代の「講師特性」が現在も反映し、後の双方の発展はこの特性からの再強化と脱却(希は女子では四天王寺、共学化後の洛南に実績をあげている)にあると考えると、双方の塾の個性の生成要因がどこにあるかわかっておもしろいと思います。
    さて、前田さんの農家で準備が始まった希学園ですが、同時にまた法律上の争点、裁判の準備も深く静かに進んでいました。
    双方、和解の可能性を完全に摘み取る事件が起こります。

  3. 【1273756】 投稿者: 何故?  (ID:9oWm0qwu/Mw) 投稿日時:2009年 04月 29日 10:05

    私も興味津津で拝読しておりますが
    何故、「今」なのでしょう?
    何か異変が起こる前兆かしら。

  4. 【1273907】 投稿者: 単に  (ID:1JTv5aZ2Zo2) 投稿日時:2009年 04月 29日 13:21

    この番組が登場人物(前田先生)の生き様にスポットを当てる
    という趣旨のものなので、それにまつわる歴史物語として
    お書きになっているということでしょう。

  5. 【1273926】 投稿者: 1992  (ID:dW8gi9s.Tkc) 投稿日時:2009年 04月 29日 13:39

    浜学園側が、裁判所に強制代執行を依頼しました。
    つまり訴訟を行うにあたっての証拠の保全を行うために、希学園ならびに独立した講師の居宅におもむき、「差し押さえ」を行うというものです。
    法的には実現可能で裁判所の立ち会いのもと行われるものですが、これは希学園側の態度を硬化させるもので、「そこまでやるか」という意識を多くの講師が持ったと考えられます。
    裁判そのものは、希学園側に軍配があがりました。裁判所の判断として出された文書には、「浜学園の申し出をすべて退ける」という内容のもので、希学園側は、異例なことながら、その文書を広告のチラシにしました。今でもそのチラシをお持ちの方もおられるかもしれません。
    その後、法的和解(前田氏の退任ならびに所有する浜学園株の処分などに関して)の交渉はまとまり、「戦い」は塾どうしの実績争いにうつることになります。
    さて、余談ながら「銀次郎の合格サプリ」なるブログでも取り上げられている「怪文書」は、前田さんが退職をした後、希学園の設立、そして訴訟にいたるまでの間、何者かが配信しつつげたものです。
    すべてそろってはいませんが、私も今でも手元に持っています。
    内容は、あたかも実態を知っているかのようなものでしたが、当然当事者の方々には、そこに書かれている内容が事実とかけ離れたものであることはわかっており、笑い話に饗されていました。
    希学園を糾弾する形で、浜学園側の何者かが仕組んだともとれるものですが、変な話、そんなあからさまに浜が出しました、みたいな体裁の怪文書を浜が出すわけもありません。
    実際、上治塾長もこの怪文書をよく読まれており、こんなん出回っているで、と笑いながら、「これはたぶんちがうな」「これもありえない」と食堂で話されていましたから、塾長も内心、おもしろがっておられたのではないでしょうか。
    希を立ち上げた講師たちは、もともとは自分の部下で、それも学生時代から知っている人たちなので、誰がどのような言い方をするか、考え方をするかわかっておられるわけですから・・・
    おそらくこの分裂騒動をきっかけに二つの塾を貶めようとする第三の人々の画策だったことでしょう。

  6. 【1274120】 投稿者: 1992  (ID:VPFsztjjKFQ) 投稿日時:2009年 04月 29日 17:58

    やや時間の流れを進めすぎたようです。
    もともと前田さんを中心とする講師集団、なるものが存在したわけではありません。灘中合格者数日本一になるまで、そしてなってからの数年間は、多くの個性的な講師集団でした。
    前田さんもそのうちの一人にすぎなかったのです。
    算数ももちろん、国語も理科も基本的には非常に個性的な非常勤集団が力を持っていました。国語ではK城さん、S田さん、山下先生、K田さんなどなど、みな非常勤。個別の対応から講義まで、ユニークな力が結集していました。その後、山下先生が専任となられ、浜学園内の統括部の力が伸びていきました。他の講師は浜をしだいに退職し、予備校や他塾へ転出、資産をお持ちの方もおられて悠々自適の生活に入られた方もおられました。
    算数では、前田さんのかつての教え子が非常勤として浜でアルバイトを始めるようになってから急速に算数科の力が伸びてきました。入江・板東・Tさんの三人を筆頭に能力の高い講師陣が重厚でした。やはり浜は当時、算数が支えている塾だったといっても過言ではないでしょう。
    理科は原田さんもそうでしたが、K田さんという講師が力もあり、当初非常勤からの信頼も厚い人でした。しかし原田さんを中心とする「改革」路線との対立などから、当時浜とはライバル関係にあった灘高合格者数日本一の塾へと転職されました。
    おそらく、上治夫妻は、これらの時代のイメージを濃厚に記憶されていたのでしょう。原田さんを統括部長とする統括部の専任講師集団が前田さんを一つの頂点とする集団に成長していることを過小評価していたのだと思います。浜は非常勤でも回せる、と。
    専任対非常勤の流れの中で、小分裂・小退職の動きは前々からあり、さらには専任対専任の微妙な力関係の中で、その競争の力が実績アップにもつながる一方、前田-原田路線とそのアンチ路線も明確になりました。
    別スレで「ミストラル」さんが述べた「オーナーシェフ論」という話。実に的をえています。
    それから社会科の浮世さんは当時、以下のように話をしました。
    「歴史でもよくあるよ。王が引退して王子を新王にする。しかしそのやり方に不満がある者たちが前王の復活を図って改革を阻止しようとする。企業でもよくある話。創設者の社長が引退して会長となる、新社長は会長が指名・抜擢したものの、自分の思うようにはならなくなった、そこで新社長のやり方に不満を持つ人々が会長に御注進、そうして会長が社長に返り咲こうとする。今回の学園長ハズシはそんなところやね」
    1992年の分裂事件を実に簡潔に説明したものだと今でも思います。
    さて、分裂後、浜学園と希学園の双方の企業努力はたいへんなものがありました。

  7. 【1274324】 投稿者: 1992  (ID:S/r9DJ2wy.o) 投稿日時:2009年 04月 29日 22:03

    浜学園のほうが、希学園を過大に評価していた、過大に敵視していたような気がします。いや、そうすることによって塾内の団結を図ろうとする意図もあったのかも知れません。
    そもそも灘や東大寺などを狙う優秀層を対象とすることを意図していたわけですから、浜の大部分の生徒は希に動いたわけではありませんでした。
    優秀層のうち、甲陽をめざす者も実はあまり移動しませんでした。おそらく、前田・入江・板東が担当していたクラス帯、原田、山下が担当していたクラス帯がS1・S2(当時の最上位と二番目のクラス)のクラスであったからです。しかも、彼らは5年生を教えていません。このことからも、これらの講師個人を慕っての塾生の小六優秀層の移動にすぎず、そしてその規模は小さい。
    社会講師の二枚看板のうち一枚が希に動いたこともあり、男子の星光受験層の移動も始まりましたが女子の塾生の移動はきわめて少ない・・・ 八幡さんがもし希にうつっていたら、女子を含めた大きな塾生のスライドが起こっていたかも知れませんがそれは起こりませんでしたし、八幡さんを希へ誘うことは比較的早い段階からあきらめていたような感じもありました。
    原田さんは、この問題点をいちはやく察知していました。もしあのとき、原田さんがある決断を下さなければ、今日の希学園は、もっと小規模の個人塾展開に終わっていたはずです。
    その点、分裂直前から前田さんの戦略参謀であった原田さんのこのときの判断は正しく、それが四年後に生きてくることになります。その決断とは・・・

  8. 【1274404】 投稿者: 昔むかし  (ID:1JTv5aZ2Zo2) 投稿日時:2009年 04月 29日 23:25

    灘に沢山の合格者を出していたS口塾とのことは、さらりとしか
    出てこないのでしょうか?

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