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韓国はなぜ反日か?

【1708064】
スレッド作成者: 削除しないで (ID:VUoqEh5GTtI)
2010年 04月 27日 15:51

韓国ドラマ大好き、などと言っているみなさん、「韓国はなぜ反日か?」
というサイトを是非見てください。韓国という国のことがよくわかっていただけると思います。

【1859276】 投稿者: 二俣川   (ID:c841aE3wV2M)
投稿日時:2010年 09月 22日 23:47

私のことを笑えない一方的な史観だと考える。
私の専門と関心は近現代史だが、古代史に関心のある層にも異論があることだろう。


秀吉の外征は、征明を目的として高麗に道をかりたものであることは明白だ。
なぜなら、その証拠の、その書状にしばしば「高麗陣」とある。
結局、文禄の役・慶長の役は、秀吉の功名心・征服欲や豊臣政権の不安定さを海外遠征によって
糊塗しようとしたものだ。
もちろん、その蔭に堺をはじめとする貿易商人の意向があったこともある。
講和の条件に「勘合貿易の復活」のあったことからもそれがうかがわれる。


ちなみに、秀吉の外征の意図は、すでに天正13年秋に大坂城を訪問した宣教師に対して発せられている。
同14年夏には、対馬の宗氏に対し、九州遠征のついでに準備でき次第高麗征伐を行うことを告げ、
従軍を求めている。
北条氏の討伐後、肥前の名護屋を本営とし遠征の準備を進めた。
そして、同19年末、関白を甥の秀次に譲って外征に専念した。
以上の事実に鑑みれば、秀吉の侵略的意図は明白だ。
学会の通説に沿って書かれる我が国の教科書も、同様の見解だ。

「元寇の残虐非道な行為による日本側の恐怖にあった」とは、少なくとも日本の関連学会では珍説レベルであろう。

【1859297】 投稿者: 二俣川   (ID:c841aE3wV2M)
投稿日時:2010年 09月 23日 00:03

 誤り  なぜなら、その証拠の、その書状にしばしば「高麗陣」とある。
 正しい なぜなら、その証拠にその書状にしばしば「高麗陣」とある。


ちなみに、秀吉の強硬外交は北東アジアに向けてのものだけではなかった。
国内統一の余威をかってしきりに服属を要求した。
たとえば、天正18年にはインドのゴアにあるポルトガル総督に対し、
また翌年にはマニラにあるイスパニア総督に、さらに台湾にも
書状を送って入貢を強要している。
島津義久をして琉球の来聘を求めさせたのも、秀吉の強硬外交の表れである。

以上の状況から考えれば、秀吉のもつ海外に対する侵略的野望は明白である。

【1859336】 投稿者: 二俣川   (ID:c841aE3wV2M)
投稿日時:2010年 09月 23日 00:46

在日に徴兵、ゆえに日本国籍を取得したいという話は、少なくとも私の周囲にはありません。
ただ、日本に小学生時分から居住しており、中・高・大ともに日本の学校に学んだ韓国人学生の親(韓国人ビジネスマン
であって、「在日」ではない)から、卒業後韓国に帰国すると兵役が待っているので、このまま日本で就職させたい
という相談を受けたことはあります。


歴史観の違いはやむを得ないものの、被害者はたしかに存在しています。
我が国がその被害者に謝る余地があるならば、謝罪べきではないかと私は考えます。
たしかに、国対国の関係では、1965年の日韓条約(協定)ですべての対日請求権は国際法的には
一応の結着がついているかも知れません。もちろん、その後に日本から韓国に渡ったカネを朴正煕・元大統領ら当時の
韓国指導者が「妙な使い方」をしてしまったのも、韓国内の問題かもしれない。


しかし、日本軍に徴兵された人や軍属など日本植民地時代に日本軍人として苦労した
傷痍軍人・軍属らが、サンフランシスコ講和条約締結により一方的に日本国籍を剥奪され、
その結果日本人並みの補償が受けられなかったという事実があります。
また、日本の遺族会は行けるのに、朝鮮半島や台湾の人々は遺骨収集にすら参加できないという
時代が60年以上も続きました。
この一例のように、明らかに理不尽な内外差別は存したのです。

主義主張の違いを超えて、このような事実を認め反省し、改めるべきだと主張する私たち日本人が、
なぜ「反日」呼ばわりされねばならないのでしょうか。
声高に非難する人々には、果たして人としての良心はないのでしょうか。

【1859342】 投稿者: ?   (ID:4TivJWCusww)
投稿日時:2010年 09月 23日 00:52

分かってますよ。李氏朝鮮時代の高名な実学者の論に書かれていた珍?説を紹介したまでです。
 
高麗征伐? 朝鮮出兵というけれど、秀吉の目的は明への出兵であって、朝鮮が通さないから戦場になったわけでしょ。勘合貿易って明との貿易でしょ。
朝鮮の視点しかない人だな。
唐(から)の征服という遠大な野望は、おそらく秀吉よりも前に信長も抱いていたでしょう。地球儀を見ながらポルトガルやスペインの世界制覇の動きを知るにつけ。もし唐・天竺がスペインに支配されるようなことになれば、元寇よりも遥かに脅威となる恐れはあったでしょう。
 
中国に関しては、元は蒙古、清は女真(満州)族による征服王朝ですよ。万里の長城の外側の異民族から。
古来古今東西、その時代の強大な国・民族が弱小な国・民族を支配や併合してきたんですよ。世界史の大きなうねりの中の一時期に、仮に日本が中国を支配することがあったとしても不思議ではなかった。日本は幸いに侵略を免れてきただけ。
 
それから、元寇など一部を除いて日本が侵略側だったとか書いてましたが、防人くらい知ってますよね?
飛鳥時代から平安時代の律令制度下で行われた防人は、663年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が白村江の戦いにて唐・新羅の連合軍に大敗したことを契機に、唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から九州沿岸の防衛のため設置された辺境防備の兵です。
韓国の朝鮮古代史学者は、百済・高句麗・新羅三国と日本について「日本書紀」の記述を土台にしながら、古代日本が200年余り韓半島南部の伽耶(日本では任那)地域を支配したという「任那日本府説」は、韓国の学界では否定されているが。

【1859376】 投稿者: 二俣川   (ID:c841aE3wV2M)
投稿日時:2010年 09月 23日 02:13

統一の業半ばにして仆れた信長に、秀吉のような海外への真の野望があったか否かは疑問である。
一方、秀吉は封建諸侯中最大の諸侯であり、あたかも14世紀後半にフランスを統一したカぺー王朝にも
なぞらえるものであった。秀吉は、約200万石の直轄領を基礎とし、重要な産業都市を直属せしめ
諸侯を統制していた。その意味で、実質的には一種の国王とも言うべきものであった。
実際に、宣教師が秀吉をもってしばしば国王と呼んでいた。
このような秀吉が海外進出に想いをはせたことは容易に考えられるところである。


魏志倭人伝によれば、三世紀ころにはすでに朝鮮半島の南端に倭の一小国があったことが記されている。
のちに、新羅の南にある任那に日本府が置かれ、わが使臣が国幸となってここに駐在した。
これは、皇室の特別直轄地として扱われ、経済的にも文化駅にも(日本)国内に対する朝廷の政治的地位を
いっそう高めるものであった。
しかしながら、大伴金村が百済の要請をいれ、任那四県の割譲を許して物部氏から攻撃された事件の如き
任那からの信望を失い、結局新羅が高句麗と結んで任那は滅亡した。
この結果、日本にとって豊富な貢納を担った天皇直轄地を失い、南朝鮮を支配した日本の覇権に終止符
をうつものとなった。

いずれにせよ、五世紀に行われた中国南朝の宋・斎・梁に使節を出して直接の対中(支)通交を行ったのは、
この朝鮮との交渉を有利にするためであった。

【1859383】 投稿者: 二俣川   (ID:c841aE3wV2M)
投稿日時:2010年 09月 23日 02:44

防人については、九州太宰府の管下にあって西国の防備に当たった兵士であり、
万葉集の防人の歌に東国から徴用された若者の故郷を旅立つときの情景が詠まれている程度のこと以上は不知。


ただ、百済の要請を受けて出兵した日本軍が唐軍と戦って白村江で大敗したため、朝鮮半島から手をひかねばならない情勢となったのは天智天皇即位のころであり、その後唐が内乱に乗じて高句麗を滅ぼし、その結果朝鮮を統一した新羅から日本は反攻を受けなかったのであるから、本件で朝鮮が日本侵略を為したわけではない。

【1859396】 投稿者: 日本人の辞書   (ID:mMjMoSc4vUk)
投稿日時:2010年 09月 23日 03:30

日本人の辞書には「反省」という言葉がきっとたくさん載っているのでしょうね。

だって、韓国に対しては菅談話を入れて今まで36回も謝ってきてるんですから。

賠償金だってたんまり上げてるのにまだ欲しいのかしら?


在日の方に対しても、戦後マッカーサーが無料で朝鮮への帰還事業を行ったのに帰らずに日本に居ることを自ら選択した癖して、日本に対しては「あれもやってくれない。これもやってくれない。」といつまでもいつまでも文句たらたら言いながら、でも誇りに思ってるはずの自国の名を捨て通名でこそこそと生活してるってどういうことなんでしょうね?

【1859512】 投稿者: 世界制覇   (ID:4TivJWCusww)
投稿日時:2010年 09月 23日 10:15

もちろん秀吉は、天皇の臣下たる関白にも甘んじず、信長と同じく、天皇をも凌ぐ最高君主になろうとしたのでしょう。
ただ、日本史で「老いて狂った秀吉が朝鮮を侵略しようとし失敗した」だけというのは、家康の時代に秀吉を矮小化したものかも知れません。ヨーロッパ世界は大航海時代でアジア侵略が始まっていたから。
  
> 統一の業半ばにして仆れた信長に、秀吉のような海外への真の野望があったか否かは疑問である。
 
ポルトガル人のイエズス会宣教師ルイス・フロイスが「日本史」で、「信長は、日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成して支那を武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考えであった」と記している。
また、秀吉は、信長の部将として毛利輝元と中国地方の覇権を争っていた時、輝元に対し「信長には明侵攻計画がある」と伝え、その武威を誇示していたらしい。
大航海時代、ローマ法王アレクサンドル六世の大勅書にデマルカシオン=地球分割計画(子午線で縄張りをスペインとポルトガルで縦割り)がある。
信長の時代は、日本や中国はポルトガルの縄張り下にあり、ポルトガルは中国侵略を目指していた。当時のスペインやポルトガルは「日本は貧しいが軍事的には強大なので征服しにくい。中国は豊かでしかも軍事的には弱体であり征服しやすい。」と見ていた。フランシスコ・ザビエルも、日本布教もそこそこに中国布教を目指したが、中国上陸直前に病死した。
信長は、ザビエルら宣教師たちから、ポルトガルによる中国やインド布教計画と合体したイエズス会の世界支配構想を聞いて、自分の軍事・政治的な野望に重ねていたかも知れない。
秀吉の時代は、世界はスペインのものになっていた。フェリーペ二世がポルトガルを征服併合したから。(フィリピンはフィリピン・インド総督になったフェリーペにちなんだもの) 日本巡察使バリニャーノがフィリピン総督へ宛てた手紙で、「シナにおいて陛下が行いたいと思っていることのために、日本は時とともに非常に益することになるであろう」と書いていたという。
しかし、秀吉は諸国大名にバテレン追放令を出して、スペインと敵対した。
当時の世界で、国内を統一した勢力が、その武力を以て外征に乗り出すというのは常識であって、秀吉も同じ道を選んだが、スペインより先に中国やインドを領有しようという野望もあったでしょう。
 
ただ、秀吉の晩年の唐入り・朝鮮出兵は途方もなく、結果的には、朝鮮に大きな被害を与え明を弱体化させただけで、後世の日本と朝鮮との関係に悪影響を及ぼしたことは、日本にとっても何ら益するものはなかった。
 
付け加えると、日本に南蛮貿易によって入ってきた唐辛子が、朝鮮出兵によって朝鮮にもたらされ、その後のキムチが生まれたらしい。

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