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韓国はなぜ反日か?
韓国ドラマ大好き、などと言っているみなさん、「韓国はなぜ反日か?」
というサイトを是非見てください。韓国という国のことがよくわかっていただけると思います。
スルー検定開始 様
また論点ずらしをされる方の出現ですね。
私の主張は「NYタイムズが云々と論じるのなら、元の記事なり記者のプロフィールなりに当たってから書いたらいかがですか」というものです。仮にもこの掲示板はお受験に関心をお持ちの親御さんが出入りするところですから、NYタイムズを読める人なんていくらでもいます。そうした人たちが読めば大嘘だと一目で判るようなことを書く(あるいはそうしたことしか書けない)のは恥ずかしくありませんか、ということです。NYタイムズが日本の新聞と比べて云々とは一言も書いていません。そもそも私が購読しているのは読売と日経です。
それからこれは蛇足ですが、私は日本のことを一番に愛しています。しかしそれは、他国を貶めることとイコールではありません。
二俣川さん、何だか基本的に理解が...
文禄の役では、東の釜山から上陸して、小西行長が漢城から北の平壌へ、加藤清正は朝鮮半島の北の金まで達していますが、南西の全羅道は朝鮮水軍に阻まれて攻略できなかった。
明との和平交渉が決裂すると、慶長2年(1597年)進攻作戦が開始されたが、慶長の役の作戦目標は(諸将に発せられた朱印状によると)、文禄の役で水軍に阻まれて攻略できなかった「全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他にも進攻せよ。」というもので、作戦目標の達成後は城(倭城)を築城して進出の拠点を作ることだったんですよ。まずは城郭群が完成後は、各城の在番軍以外は帰国する予定で、翌慶長3年(1598年)中は攻勢を行わない方針を立てていた。知らない?
慶長の役も日本軍は攻勢だったでしょ? 慶長の役の経過と日本軍の連戦連勝は省略しますが、
日本軍が北九州や対馬から朝鮮に攻めて戦をしたのは暖かい季節なのに、日本軍が朝鮮の寒さに耐えられなかったというのは、慶長2年12月~翌1月の蔚山城の戦いのことかな? それでも日本軍が勝ってますが。
築城を急ぐ日本軍に明軍と朝鮮軍が攻勢をかけ、12月22日、完成直前の蔚山倭城を明・朝鮮連合軍5万6,900人が急襲したが、急遽入城した加藤清正を初め日本軍の堅い防御の前に大きな損害を被り苦戦を強いられた。そこで城を包囲して籠城戦になり、日本軍は飢餓で落城寸前まで追い詰められたが、1月3日に毛利秀元らが率いる援軍が到着し、水陸から明・朝鮮連合軍を攻撃敗走させ2万人の損害を与えて勝利した。
秀吉は慶長4年(1599年)に大軍を再派遣して攻勢を行う計画を発表していたが、秀吉が8月18日に死去すると戦役を続ける意義は失われた。そのため五大老や五奉行を中心に密かに朝鮮からの撤収準備が開始された。秀吉の死は敵に悟られぬよう秘匿され、日本軍にも士気を下げぬよう知らされなかった。
慶長4年9月「三路の戦い」で、日本軍が築城した蔚山、泗川、順天を、明・朝鮮連合軍が軍を三路に分け総力を挙げて攻撃したが、迎え撃つ日本軍は沿岸部に築いた城の堅固な守りに助けられ、加藤清正が明・朝鮮連合軍を撃退し防衛に成功。
泗川城の戦いでは、島津軍が明軍の火薬の暴発事故による混乱に乗じて一斉に突撃し、明・朝鮮連合軍に大打撃を与え潰走させた。
順天城を守る小西行長は、新たに明水軍も加わり水陸から激しい攻撃を受けるが防衛に成功し、先ず明・朝鮮陸軍が退却、続いて水軍も古今島まで退却した。
そして、日本の出征大名達は11月中に朝鮮を退去して日本へ帰国した。
明・朝鮮が動員した総兵力は11万を超え、前役・後役を通じて最大規模に達し、また兵糧や攻城具も十分に準備してのものであったが、全ての攻撃で敗退した。これにより、三路に分かたれた明・朝鮮軍は溶けるように共に潰え、人心は恟懼(恐々)となり、逃避の準備をしたという。『宣祖実録十月十二日条』
しかし、何度も書きますが、唐入りの夢想は、あくまで秀吉が生きて、つまり政権が盤石であれば、ついでに言えば後継ぎもいて長期戦ができればということですからね。ただし、弟の秀長が生きていたら、唐入りなど途方もないことは絶対反対したと思いますが。
それから、中村栄孝、池内宏とも戦前からの有名な朝鮮史研究者で、中村栄孝の「日鮮関係史の研究」などは名著といわれますが、そんなに昔の本は読んでいません。
池内宏は朝鮮総督の依頼で満鉄調査部で満蒙・朝鮮の東洋古代史を実証研究していた人で、中村栄孝は朝鮮総督府で朝鮮史を編纂してた人ですが、二俣川さんが、そういう人の著書を参考にされていたというのが意外です。
貴殿が何をご参考になさっているのかは不明だが、事実認識が異なる。
わが国学会の伝統的見解とも違うだろう。
学者・研究者の通説でもって記述される「日本の」文部科学省検定済教科書での説明は、概要こうだ。
1 文禄の役では、秀吉軍は平壌などにまで進出した。
2 しかし、武将間の不和と朝鮮水軍の反攻や朝鮮義兵・明の援軍などによって、次第に行きづまり追いつめられた。
3 慶長の役では、最初から形勢は悪く、苦戦をしいられた。
4 7年間にわたる日本の侵略は、朝鮮の産業を破壊し、一般民衆も含む多くの人命を奪った。
5 2万人以上の朝鮮人が無理やり日本に連行された。このときの朝鮮陶工たちが陶磁器の技法を日本に根付かせた。
また、奪い取ってきた金属活字や書物などによって、朝鮮の高い技術や儒学が伝えられた。
6 莫大な戦費と約15万の兵力をつぎ込んだ。しかし、国内で諸大名の間に対立を引き起こした。
武士や民衆も重い負担に苦しみ、豊臣政権の没落を早めた。
ちなみに、あらためて戦域を確認した。
文禄の役は、東は朝鮮半島会寧・西は平壌ライン。慶長の役では、東は慶州・北は漢城・西は光州ラインといった
朝鮮半島南部の地域にとどまっている。
研究者の中には、秀吉の朝鮮征伐自体を「負けた」と断定する者すらあるほどだ。
その意味で、貴殿の「大勝利」と前述の通説とでは違和感がある。
ご承知の通り、一般に通説的見解に異を唱える場合、より詳細な根拠を明らかにする必要がある。
いずれにせよ、その「大本営発表的大勝利」の根拠となる日本の出典を明らかにされたい。
>唐入りの夢想は、あくまで秀吉が生きて、つまり政権が盤石であれば、ついでに言えば後継ぎもいて長期戦ができればということですからね。
その前提なら、話は異なる。ただし、貴殿はこれまで一切それには触れてこなかった。
ただ、言い訳として「軍事的には」と、後づけをしただけだ。
むろん、当時の秀吉軍が明に攻め入るなど、無意味な妄想であったことには変わりはない。
この大義なき戦いに疑問を感じた秀吉軍将士も多かった。
>それから、中村栄孝、池内宏とも戦前からの有名な朝鮮史研究者で、中村栄孝の「日鮮関係史の研究」などは名著といわれますが、そんなに昔の本は読んでいません。
池内宏は朝鮮総督の依頼で満鉄調査部で満蒙・朝鮮の東洋古代史を実証研究していた人で、中村栄孝は朝鮮総督府で朝鮮史を編纂してた人ですが、二俣川さんが、そういう人の著書を参考にされていたというのが意外です。
前述の通り、私の関心は日本近現代史にあり、後期封建社会にはない。
その意味で、この時期に関する研究者の個々の詳細について必ずしも詳らかではない。
ただ、私の周囲に朝鮮総督府に勤務していたものがある。
彼から、朝鮮植民地時代の実情は聴いている。
ここで、一部のものが主張しているような綺麗ごとではなかった。
教科書は日本の教科書にもかかわらず、すごく他国を気にしているなと感じます。今は。
単語一つでも内政干渉がひどい国もあるし、敗戦国としては本当のことなど言えないような状況でしょ。
何だか無難なのですよ。それが平穏なので採用されているに過ぎないというか、
闇に葬られている事実はたくさんあるはずでしょう。
ここで披露されてきた話は、すべて○○説。どれもただの一つの見解に過ぎない。
秀吉の日記でも出てこない限り、真実なんて分からないこと。
織田信長に明への野望があったことなんて最近見つかったようですし、いつか見つかるかもしれませんね。
とりあえず教科書以外の説はとても新鮮です。
ほうほうの体で帰ってきたもんだと知らされてきましたが、
確かに主だった武将が元気という不思議なところに、事実誤認が潜んでいるのかもしれませんね。
うんざりさん
>自慢はしていません。
「英語ですけどね(笑)」
この言葉は確かに自慢じゃないです。見下していますね。
「原文には、こういう言葉もありますよ」でいいと思いますが、それでは気が済まないのかしら?
だから~、あなたがね、慶長の役では日本軍の士気が低く劣勢で朝鮮南部しか攻められていないと書いていたから、慶長の役は目的自体が、文禄の役で攻略できなかった朝鮮南部を制覇して、築城して進出の拠点を作ることだったと書いたの。
相変わらず、ちゃんと読まずに、歪曲しますね。
僕は最初から何回も、秀吉が生きていたら、と書いていたが。
【1859664】 投稿者: ?
実際には日本軍は優勢だったから、秀吉が生きていて戦いを続けていたら、明まで攻め込んだ可能性もある。日本の武将らは、たった2年後に豊臣と徳川で天下分け目の合戦やるほど皆な元気だし。
秀吉の戦の仕方は調略(予め敵地の情報を良く調べて戦略を立てる)だが、唐入り・朝鮮出兵は、宣教師の話や対馬の宋氏の情報くらいで計略したのでは? 世継ぎが亡くなって自棄(やけ)になったかも知れない。
僕は、日本の「大勝利」と書いたこともないが。日本軍が明軍や朝鮮水軍に苦戦したのは当然知ってますよ。ただ、どの戦も明・朝鮮軍が敗退していると書いたまでです。最後は、英雄の李舜臣など朝鮮水軍の将も皆戦死してるでしょ。
それから、僕は秀吉の朝鮮出兵を正当化もしていないし、馬鹿げたことだと思っている。読んでれば分かるでしょ。
出典ですか? 朝鮮王朝実録の「宣祖実録」や、李氏朝鮮時代の学者の書物など。
宣祖修正実録をデジタルアーカイブされたものが韓国政府によって公開されており、僕はハングルは読めないが、Webに日本語で解説やした記事や、日本に関する記述の間違いを正す記事は多数あります。
ただ、朝鮮出兵=壬辰倭乱の部分は欠落も多いらしい。韓国が不都合な歴史は抹殺してるかも。
宣祖修正実録
http://sillok.history.go.kr/
日本の文献では、旧参謀本部編纂「日本戦史 朝鮮役」が戦史の決定版ですが、書籍も出版されていますね。
「朝鮮の役」(徳間文庫―日本の戦史)[文庫] 旧参謀本部(1995/02)
狂気か妄執か。二度にわたって繰り返された朝鮮出兵は、李氏朝鮮を疲幣させたにとどまらず、緒戦の戦捷も束の間、膠着し泥沼化する戦線、蔓延する疫病、延びきった兵站の果ての飢餓や凍え。大名は兵力をひたすら消耗し、領土すら得るもののなかった戦役は、朝鮮出兵組の大名たちと居残り石田三成の恩賞采配に対する不満が豊臣の屋台骨を揺るがし、大名たちの徳川傾斜に拍車をかけた。天下分け目の戦いで、日本の近世幕開けの引き金となった。
現在の日本の教科書は、自民党政権下の文科省(旧文部省)で検定されたものだ。
周知の通り、内外の批判を受けても文科省検定官は教科書執筆者の研究者らに対し、
「少数説がある」との理由で、記述に対して変更意見を述べるケースがあったそうだ。
したがって、検定済教科書に記述されている内容は、文科省(旧文部省)の検定官でさえ異論なく認めざるを得なかった
斯界の(換言すれば、わが国の)定説だといえる。どこかの誰かがおもしろおかしく述べた珍説奇説とは、次元が異なる重みがある。
まして、いまだ歴史的評価で異議を述べるものがある近現代史とは異なり、わが国の近世以下の歴史的事実については
(文献資料などに乏しい一部古代史を例外にすれば)実証的裏付けをもって、ほぼ評価は定まっている。
「敗戦国」うんぬんは関係ない。教科書とは、それほど重い学問上の意味をもつ。
優秀な多くの碩学らによる、長年に亘る地道な研究の結果得られた異論なき研究到達点に対して、
「秀吉の日記でも出てこない限り、真実なんて分からないこと」
などというのは歴史学に対する冒涜だ。研究者とは、そんなにいい加減なものではない。




































