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石破総理がめざす 我が国日本のグレートリセット

【7669482】
スレッド作成者: 多様性 (ID:oh0ha5fqSps)
2025年 05月 03日 23:57

今こそ「納得と共感」の政治をやりたい。そして成し遂げたいのはグレートリセット。もう一度この国の設計図を書き換えていくことであります。そうしなければこの国は次の時代に生き残ることができない。やらねばならないのはグレートリセットである。国のあり方をもう一度皆さんとともに考え直し作り直していきたい。

【7682728】 投稿者: すんすん   (ID:/0X.1JiXAy2)
投稿日時:2025年 06月 17日 02:22

AIが答案を書き、人間が物語に踊らされる時代に、本当に必要なのは「正解」ではなく、「問い方」なのかもしれません。だからこそ、SNSで繰り返し燃え上がる「Fラン大学不要論」には、どこか歪なものを感じます。

「偏差値の低い大学は意味がない」「コスパ最悪」「高卒で働いた方がマシ」といった断言は、いずれも問いの立て方が雑で、見かけほど説得力がありません。そもそも、こうした言説を振りかざす匿名の誰かが、実際にどこの大学を出たのかすら不明です。旧帝大卒と名乗りながら実は高卒、中には中卒の可能性すらある。そうした素性の不明な声が、それらしく見せかけた結論を振りかざす時、我々が問うべきは「その主張は本当に誰に支えられているのか」です。

作家の古谷経衡氏と元外交官の佐藤優氏は、共著『日本人の7割が知らない 世界のミカタ』の中で、Fラン大学を「地方における教育と労働の中間地帯」と位置づけています。佐藤氏は、Fラン大学が学力的な再教育と社会人基礎力を補う役割を担っていると述べています。日本におけるFラン大学は、アメリカのコミュニティカレッジのような機能を果たし、電卓の打ち方や敬語での応対、報告書の書き方、Excelの基本操作といった社会人としての最低限のスキルを育てる場でもあります。

こうした議論を単なる理論に終わらせない実践例として、共愛学園前橋国際大学の取り組みは見逃せません。いわゆる偏差値帯ではFランクに分類されがちなこの大学が、全国の学長が選ぶ「注目する学長ランキング」で複数年連続1位を獲得していることは、統計的にも注目に値します。

中心にいるのが大森昭生学長です。元NHKエデュケーショナル専務という異色の経歴を持ち、教育番組制作で培った「わかる仕組み」の思想をそのまま大学経営に持ち込みました。着任後、大森学長は「学びのコーディネーター」と呼ばれる伴走型支援スタッフを全学生につけ、ひとりひとりの問いを見つけ、支え、形にする体制を整えました。

地域の企業と連携した「プロジェクト型授業」では、学生が地元企業の課題に実地で取り組み、「社会で使える知識」ではなく「社会の中で必要とされる関わり方」を育むよう設計されています。実際、こうした試みは文部科学省の私立大学等改革総合支援事業にも複数回採択され、改革の成果は高く評価されています。

大森学長の考え方は明快です。大学とは、地域の人材を地域に還元する循環装置であるべきで、都会に流出するのではなく、地元に根を張り、地元を支える人材を育てるために存在する。偏差値では測れない価値を、定着率や就職の質といった具体的な成果で可視化してきた点において、大森氏の手腕はFラン大学不要論への強力な反証となっています。

もちろん、全員が大学に行くべきだという話ではありません。専門学校への進学や高卒就職が合理的な選択肢となる人もいます。noteに体験談を寄せたある専門学校卒のデザイナーは、就職こそ早かったものの、30代以降の転職では「大卒資格がない」ことによって、そもそも書類選考にすら通らない現実に直面したと語ります。

また、ある伝統工芸の職人は「弟子入りは高卒でも遅い」と語り、十代のうちに感覚を身体化しないと一生モノの技術は得られないとも述べています。職人の世界や芸術系の進路では、むしろ大学に行かず早く現場に出る方が正解という場合もあるでしょう。

問題は、そうした覚悟や決断ができている十代がどれほど存在するのか、という点です。人生の問いが定まっていない若者にとって、大学という空間は「とりあえず行く」場所ではなく、「問いながら学び直す」場所であるべきです。現実に、Fランク大学と呼ばれる多くの学校が、そこに全力で取り組んでいます。

大学の価値は偏差値で測れるものではありません。むしろ、「いま、自分がどんな問いを抱えているか」の方が、その人の学びの本質を示しているのではないでしょうか。正解を覚える場所ではなく、問い直しを続ける場としての大学。そこに意味を見出せる人にとって、偏差値など本質的に関係ありません。

【7682783】 投稿者: 日本国民   (ID:zj0qDfIYLTY)
投稿日時:2025年 06月 17日 08:49

そのとおりです。
岸田前首相が日本のグレートリセットとして掲げた「新自由主義」には理想の姿があった。但し具体策に落とし込めずに立ち消えとなった。その理由も現状変更への抵抗の壁であったのだろう。

そして石破首相。就任当初、地方創生の掛け声が聞かれたがその波は実感しない。安倍政権に背を向けていたにもかかわらず政策の転換は大きなものではない。
日本社会が将来の問題を内在しグレートリセットを必要とすることはそれとなく理解しても、多くの国民が快適な現状維持を選んでいる。

そのグレートリエットを示し共感と納得を得て社会はその方向に前進する。社会の大きな課題は具体的にある。結局、その解決の対策に向けて舵を切るには、国民がその苦労、痛みを許容することも必要なのだ。

【7682859】 投稿者: 日本国民   (ID:VDR1TfKD.eE)
投稿日時:2025年 06月 17日 12:48

以前、子供が大学進学した入学式での新入生に向けての式辞を思い出しました。
『これからの人生で直面するであろう問題の大半が、このように、あらかじめ決まった答えが用意されているわけではない「正解のない問い」であることは確かです。』
この式辞は印象に残り、よく参照したものです。

(引用)『さまざまな知見が有機的に関連づけられ、全体として構造化され、いつでも動員できる状態にまで高められていてはじめて、それらは真に「教養」の名に値するものになるでしょう。
そしてそのような意味での「教養」こそが、「問いの発見」を可能にするものであると、私は考えます。いわば、教養とは鍛えぬかれた知的身体に宿る、「みずから問いを発見する力」にほかなりません。』

学生の間に、問いを発見する土台を鍛え上げておきたかった、との自省も感じました。社会人になってからでも意識すれば可能ですが、やはり学生の間に土台を築くと世界や可能性は、より開けるでしょう。
将来を見据えてご健闘を祈念します。

【7682864】 投稿者: すんすん   (ID:/0X.1JiXAy2)
投稿日時:2025年 06月 17日 12:59

>Fランなんて要らない、時間と税金の無駄でしょ

失礼ながら、こうした断定にはどこか「足るを知る」ことを忘れた、声の大きさを感じます。

私は、Fラン云々よりも、「学ぶという行為そのもの」が何を意味するのかを問い直すべきだと思っています。

たとえば、昭和初期の童謡『月の沙漠』。
加藤まさをは、この詞で実在しない異国の情景を描きながら、心の風景としての普遍性を紡ぎました。

彼はアラビアの風景を想像して詞を書いたものの、知識不足から矛盾が多く、挿絵のラクダは中央アジアのフタコブラクダ、水を運ぶのは実際には革袋なのに金や銀の甕、護衛もない砂漠旅など、現実にはあり得ない。湿度の低い砂漠にはついぞ現れぬ「朧月」の描写も含め、「現実の砂漠」とはほど遠いものでした。

しかし、それらを「間違い」として切り捨てたところで、あの詩が流れ出す瞬間に私たちの胸に広がる情景は、何も揺るがないのです。

金か銀か? 甕なのか革袋か?
そんな枝葉末節は、心象風景の美の前ではどうでもよいこと。

加藤まさをが描いた世界は現実とは異なるかもしれませんが、そこには彼の想像力と心情が詰まっており、それが人々に感動を与えてきました。
「役に立たないから不要だ」とする線引きとは、正反対の価値観です。

書家・井上有一はこう言いました。

「言葉にならないものを、言葉で超える。」

詩も、美術も、そして学問もまた、そうした「言葉にならない問い」を抱えて続いてきたのではないでしょうか。

道真公の

「心だに誠の道にかなひなば 祈らずとても神や守らむ」

という歌のように、人は誰に教わらずとも誠を知っている。
それを探る場が大学であるならば、Fランか否かなど、瑣末なことです。

むしろ、こう言ってみてはどうでしょうか。

「Fラン」大学とは、社会が知の周縁をどう扱うかを問う「現代の茶室」である。

茶の湯では、高価な器よりも薪にくべられるような柴が好まれることがあります。
侘びとは、足ることを知り、空白を尊ぶ姿勢。そこにこそ「不易」がある。

一方、就職率や偏差値で大学が淘汰される現在の流れは、「流行」そのものです。

では、不易と流行をどう繋ぐか。

私はこう思います。

一見無駄に見える学びの場こそ、人が「自分の中の答え」に出会う場所である。

つまりは、目的がないことを許容できる「モラトリアム」の時間。
ある人にとっては死を思う「メメント・モリ」かもしれないし、目的に苛まれて眠れない「インソムニア」な時間かもしれない。だが、それらを一手に担う大風呂敷であってよいと私は思う。

1980年代、経済学者であり神奈川県知事だった長洲一二氏が「人生七掛け説」を唱えました。

60歳は実質42歳。70歳でも50代中盤の活力を持つ。
この視座を社会設計に組み込めば、定年の概念も、労働力人口の分母も変えられたはずでした。

しかしその後の30年、日本は静かに、けれど確実に衰退していきました。

GDP世界2位の座を譲り、カリフォルニアにも抜かれ、少子化、格差、地方衰退──
「分かっていたけど何もしなかった」の積み重ね。

それでもなお、

>この30年間実現出来なかったことをどう転換するのか、それなりの考えがあるのだろう?

と問う人がいます。

まるで「できなかったのだから、これからも無理だ」と言いたげな、諦めグセのついた小言。

しかし、渋沢栄一はこう言いました。

「四十、五十は洟垂れ小僧。六十七十は働き盛り。九十になって迎えが来たら、百まで待てと追い返せ。」

百年以上前にすでにその志があったのです。
Fラン? 無駄な4年間? 上等じゃないか。

その志にすら届かぬ諦めで、何を変えられるというのか。

理想を笑う者は、結局、何もできない。
その生ける証左が、他人の理想に唾を吐くしかない人間です。

30年、無策で見送ってきた者が、その時間を超えて何かを立て直そうとする人に「それなりの考えがあるのか?」と問う。

そうじゃない。

他人の正解ではなく、自分自身の声に耳を澄ます。
そのための時間と空間。

それを「Fランだから不要」と切って捨てるのは、あまりにも音がしない。

貧にして貴き一字を宿すような大学が、地方にも、隅にも、ひっそりとあってよい。

瓦のように素朴な校舎に、月を宿す静けさ。
それもまた、学びの姿だと、私は信じています。

先日、ホセ・ムヒカ氏が逝去されました。享年89。

ウルグアイの元大統領にして、「世界一貧しい大統領」と称された男。
彼の死を惜しむ声が世界中から届いていますが、果たしてこの国では、どれ程の人が彼の言葉に真に耳を傾けたでしょうか。ムヒカ氏は言いました。

「貧乏とは、少ししか持っていないことではない。無限に欲しがることだ。」

彼の生き方そのものが、現代の「盛る文化」に対する無言の反論でした。
豪奢な官邸を断り、農場で暮らし、給与の大半を寄付し、ビートルで通勤する。。。
この徹底した姿勢に、私たちは何を学んだでしょうか。

にもかかわらず、我々の社会には今日も「もっと」「上へ」と競い合う声が満ちている。

「幸せって何?」

たったそれだけの問いの前で、立ち尽くすこともできず、誰かの承認という名の杖を探して彷徨う。。。そんな時代が来ています。

かつて「足るを知る国」と称されたブータンでさえ、SNSの光に曝され、心の奥にあった価値観が崩れつつある。
外の世界を知ることで、自分の輪郭が失われてゆく。。。
現代とは、そういう不思議な時代なのです。

学歴、肩書き、資産、家族写真。匿名の掲示板で人は飾る。盛る。
だがその虚像の下には「比べなければ保てない自己」が横たわっている。

椎名林檎は自身の楽曲、『幸福論』でこう歌いました。

「本当の幸せは目に映らずに、案外傍にあって気付かずにいた」

その歌詞が胸を打つのは、「幸せとは何か」を一度でも真正面から問いかけた人だけでしょう。

「Fラン不要論」にも通底するものがあります。
つまり、幸福とは外から与えられる等級ではなく、自ら耕す静かな精神の地層なのです。

「貧」という一字にこそ、その意味は宿ります。
井上有一の一字書が突きつけたのは、欠乏ではなく、満ちているということ。
満ちているから、比べる必要がない─その静けさ。

ホセ・ムヒカは、口数の少ない政治家でしたが、こんな言葉も残しています。

「人生で大切なのは、何かを得ることではなく、何に時間を使うかだ。」

だから、私はこう提案したい。

稼ぐ話をする前に、減らす話をしよう。
豊かさとは何を持つかでなく、何を手放せるかで測るものだから。

ハーバード大芸人、パックンはこう言いました

「アメリカではドケチ=貧乏ではない。A penny saved is a penny earned.」

むしろそれは、選びとる自由、見極める知性の証です。

他者の作ったモノサシにすがらず、自分だけの尺度で立つこと。
その最初の一歩にこそ、教育の意味がある。

仮にその場が「Fラン」と呼ばれていたとしても、そこで立ち止まり、自分に問う時間を得られたなら。。。それは紛れもなく、学びの場だったのです。

虚妄の富ではなく、永遠なる心の豊かさを。

足るを知る者は、群れずとも、惑わない。
そして静かに、育つ。

この一字の重みにこそ、今、私たちは立ち返るべきなのかもしれません。



群れ離れ 月を宿せし 瓦かな

【7682877】 投稿者: すんすん   (ID:lwe4sqHqa6k)
投稿日時:2025年 06月 17日 13:32

「教養」という言葉は、しばしば便利に使われる。

誰かが語った理念を引き写し、その余韻に身を浸すことが、教養と誤認される。けれど、本来それはずっと地味で、孤独で、未完成な営みだったはずだ。

教養とは、他人の言葉に感動することではない。
むしろ、他人の言葉を鵜呑みにせず、どこかで反芻し、問い直す静かな反応のことだ。

だから、予め整えられた思想を借りて、さも自分の言葉のように語る姿には、ある種の空虚さが伴う。
それは、自分の中に宿った声をまだ持たない証かもしれない。

真に教養を育てている人は、誰かの理念に寄りかかって自己演出をしない。静かに読み、静かに疑い、そして静かに距離を取る。

答えのない問いこそが重要といった言葉に、過剰に感銘を受ける者がいる。
だが、本当にそれを生きている人間は、そのようなスローガンにいちいち膝を打ったりはしない。

むしろ、その正しさがない故に、日々迷い、決めきれず、未熟さを抱え続けている。

理念や美辞麗句に酔うのはたやすい。だがそれは、火にあたるような温もりでしかない。
一方、教養は石のように冷たい。手にしても、暖まることなどない。

そして、冷たさのなかに、ほんのわずかでも血が通っていたなら、それは、それこそが自分の問いだ。

他人の言葉を引用し、それを自分の信念のように繕う者がいる。
だが、それは問いを「発見」した姿ではない。
問いの「形見」を収集しているに過ぎない。

知識や言葉を集めることと、それを生きることの間には、深い溝がある。

それを超えたかどうかは、語られる言葉の「熱」ではなく、その「距離」でわかる。

だから、少しでも「私は分かっている」と語る者がいたならば、その瞬間、分かっていないことが伝わるというパラドクス。

人は時に、扉を開いたと錯覚する。
視界が開け、道が伸び、手応えすら感じる。けれどそれは、己の中でぐるりと円を描いただけの巡礼だったのかもしれない。

孫悟空が天の果てを極めたと思った瞬間、そこが如来の掌だったように──
誰かの言葉に膝を打ち、「わかった」と思った時こそ、「まだ何も始まっていなかった」と知る。

教養とは、そうした終わらぬ円環の中で、静かに自分を問い続けることだ。

その問いの、果てに。地に倒れた我が身の指の指す方向─そこに、答えがあるのではない。
まだ歩く道が在るというのみ。


朽ちる手に 何も残らず 問ひは在り

【7682880】 投稿者: 日本国民   (ID:8OTevrlQYwM)
投稿日時:2025年 06月 17日 13:44

(↑から引用)教養とは、そうした終わらぬ円環の中で、静かに自分を問い続けることだ。

その問いの、果てに。地に倒れた我が身の指の指す方向─そこに、答えがあるのではない。
まだ歩く道が在るというのみ。

➡ 染み入ります。終着点は無い、絶えず歩み続けるのみ。

【7682896】 投稿者: すんすん   (ID:lwe4sqHqa6k)
投稿日時:2025年 06月 17日 15:08

誰かの言葉を引き写し、それを己の到達点のように掲げる人がいる。
だが、引用とはしばしば「歩みの省略」にもなる。

本来、思想とは体温と摩擦の伴う営みだ。
たとえ誰かの語った真理に出会ったとしても、それは自身の言葉として焼き直されないかぎり、ただの装飾に過ぎない。

感銘を受けたからといって、その理念に寄り添えば寄り添うほど、実は「自分自身」を見失う。
なぜなら、そこで語られている「正しさ」は、誰かの問いの果てであって、自分の問いの出発点ではないからだ。

教養とは、自分にとって都合の良い名言を見つけてくることではない。
引用は、答えのような顔をして立ち現れる。
けれど、それが自分の問いと結びついていなければ、それは単なる「他人の答えの化石」に過ぎない。

いくら美しい言葉を集めても、自分のなかに問いがなければ、それらはどこにも届かない。

本当に「歩む」者は、あらゆる言葉との距離を測り続けている。
だから、たやすく膝を打たず、すぐに合意もしない。
むしろ、静かに懐疑し、すべての言葉を一度疑ってみる。

思索の形見を集めて、さも「分かったふう」に佇むことは簡単だ。
けれどそれは、歩いているのではない。
ただ、誰かの道の写真を眺めているにすぎない。

仏とは 眼前になし 心眼に

【7682916】 投稿者: すんすん   (ID:vyRHRZazILM)
投稿日時:2025年 06月 17日 15:31

思索のふりをして、風向き次第で膝を打つ。
自らの言葉すら踏み台にするその軽さには、もはや理念も信念もない。
ただ流れに乗っていたいだけ─それは、海のクラゲ、池の水面の落ち葉にも等しい。

かつては嘲った相手に、今さら擦り寄る様は、あたかも安全地帯から、都合のいい瞬間だけ手を振るモブ観客のようだ。
プライドも皆無。責任感もなく、矛盾への羞恥すら抱かぬ。

そうなりたくはないものだ─という反面教師。まさに、醜悪なモデルだ。

だが─それでも、政治に関してだけは、それでよい。そういうものでよい。

私は、政治家に清廉潔白を求めない。
理念などなくていい。信念など持たずとも構わない。民を食わせ、世を回す。それがすべて。

風見鶏と揶揄されようが、衆愚と蔑まれようが、結果として飢えをしのぎ、明日の朝を迎えさせた者こそが、正しい。

逆に、どれほど高邁な理念を掲げようと、
民が飢えた瞬間─それは、ただの虚構に堕ちる。

政治に問うべきは、主義でも思想でもない。
たった一つ─結果。

そしてただ、過去を嘆き、何も生み出さず、ただトレースし続ける者こそ、最も愚かで、最も低い。最低。
そんな存在は、民であろうと、人とは呼べぬ。
ただの肉塊にすぎない。

人なりて 哭くのみならば 人ならず

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