アートの才能を伸ばす女子教育
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石破総理がめざす 我が国日本のグレートリセット
今こそ「納得と共感」の政治をやりたい。そして成し遂げたいのはグレートリセット。もう一度この国の設計図を書き換えていくことであります。そうしなければこの国は次の時代に生き残ることができない。やらねばならないのはグレートリセットである。国のあり方をもう一度皆さんとともに考え直し作り直していきたい。
持続可能な社会の実現のため、世界中の人々や社会全体が直面している解決が求められる社会共通の課題がある。今的には、環境問題、格差、貧困、紛争、エネルギーや食糧問題等。捉えようによっては、別に解決しなくても社会はその環境に中で継続するとも言えるのですが、状況悪化を嫌い歯止めをかけるために対応を取る訳です。。
そういう課題に対し意識の高い人達の行動だけに依存するのではなく、政治の力で施策として舵を取り多くの人を支援することで、このような大きな課題に対応することを求めるのです。その点において、政治家自身の社会像への理想・理念を見るのです。
グレートリセットに注目するのは、そのような社会的課題の問題点(悪影響)がいよいよ顕在化する中で、その方針が改善の希望を与えるからです。
「持続可能性」という言葉が便利に使われる時代になったものだ。だが本来それは、理念ではなく結果の話だ。
飢えず、争わず、日々が回っていれば、それは「持続」されている。
そこにどれほど高尚な理想や壮麗なスローガンを乗せても、民が安寧の元に生き延びていなければ、何の意味もない。
理念を語る者は多い。だがそれを社会全体に適用するには、想像以上に困難な手続きがいる。
理想が現実を変えるのではない。現実に耐えうる形で残ったものだけが、後から「理想」と呼ばれるだけ。
政治に「社会像」や「理念」を求めるという姿勢は、一見正しく聞こえる。
だがそれは時に、誰も責任を取らない抽象論を育てる温床にもなり得る。
希望を語るのは簡単だ。
口と指でもあれば必要十分。
だが、希望を「託す」ことで思考停止するなら、それはもはや信仰と変わらない。或いは戯言。
真に求められるのは、希望ではなく運用可能な制度。理想ではなく、誤差を吸収できる構造。
そして何より「言葉」より「耐久性」だ。
歯止めという単語は、ブレーキであって、地図ではない。進む方向を定めるのは、どこまでも現実という摩擦だ。
理念では社会は変わらない。
ただ摩擦と調整と、無数の失敗によってだけ、かろうじて維持される。
道はただ 摩擦の果てに 浮かぶもの
「グレートリセット」という言葉が、昨今になって殊更に持ち上げられる風潮に、私はどうにも薄ら寒さを覚える。
もとよりこの言葉は、経済・社会構造の大規模な再設計を意味する比喩として、主に政策提言の文脈で用いられてきた。だがその輪郭は曖昧であり、しかも意図的に曖昧にされている。「何を」「どう」リセットするかの中身は語られぬまま、「変化の必要性」という抽象的情緒だけが独り歩きしている。
この種の言葉は、語る者の責任を免除し、聞く者の思考を停止させる。スローガンの形をとったまま、いつのまにか理念へとすり替えられていく。
しかも皮肉なことに、それが流通すればするほど、構造的持続の内実─制度、調整、妥協といった地味で地道な作業─がかえって見えなくなる。
社会とは、元来「リセット」などという概念とは最も相性が悪いものだ。人間の記憶、制度の慣性、文化の堆積、それらはすべてゼロに戻ることを拒む。
その抵抗を前提にした上でしか、変化は制度たり得ない。
理念としての「リセット」ではなく、現実における「調整」。
熱狂ではなく、粘性。
鮮やかな表紙ではなく、鈍重な背骨。
言葉に酔うだけの議論は、現実の硬さに触れた瞬間に蒸発する。
そもそも、理念とは後付けだ。摩耗と修正の果てに、なんとか残った断片が、結果として「理念」と呼ばれるにすぎない。
ゆえに、本当に意味を持つのは、「耐えた言葉」だけである。
語、コトバは、ときに思考の礫となる。
本来は現象を指し示すための記述が、語る者の陶酔によって、やがて目的そのものへと転化する。
「グレートリセット」もその例に漏れぬ。
構造の刷新という厳しい現実課題を、あたかも呪文のように言い換え、響きの快楽だけに酔った瞬間、それは「概念」ではなく「装飾」となる。
そして、語に酔う者の多くは、思考を手放す。自らの言葉を吟味せず、外部への攻撃だけに快を見出す。
思えば、かつてボクシングの階級に「モスキート級」があった。
今では「ピン級」と呼ばれるそれは、重量としても極小の領域に属す。
奇しくもその軽さと似た脳を抱えた者ほど、他者への一撃を至上の目的とし、思索ではなく刺突のみに明け暮れる。
そう─ネットで顔の見えぬ相手に罵詈雑言を浴びせて悦に入るのだ。
彼らの攻撃は、モスキートバイトのように、ただ皮膚をかすめる痛みと共に、痒みのような不快感を与えるのみ。その後に何の成果も残さない。
名は体。
この言葉の真意を、我々は今あらためて噛みしめよう。
我々はその矮小さを笑うことなく、ただ横目に置き、次の問いへと向かう。
言葉を厳密に使い、摩擦の先に僅かな構造を築く。
それがサピエンスの営みであるならば。
そして、ここにひとつ。
思考なき 刺突に群るる 夏の蟲
「持続可能性」という言葉は、結果が望ましくない方向に不可逆的に流されることに贖う理想であり、結果とはいえないでしょう。
但し書きするとすれば、現代の人間社会にとっての現状維持を目標とするのであって、有史から現代に至る長いスパンでの環境と生活様式や人間社会の変化を考えれば、その変化を「持続維持」という観念で制御しようという発想にはならないのだろう。
しかし、二酸化炭素排出増による地球温暖化と気候変動問題、化石燃料の枯渇後のエネルギー源の対策のような世界で共有する課題や人間社会の格差拡大により生じる問題は、それこそ望ましくない方向にいくのを抑え現状を維持しようとすれば、そこには「持続可能性」の観念は生じるということです。
それを実現するのは、理想を見据えての広い共感と納得だということです。現在は多くの利害が錯綜し必ずしも力強くベクトルが一致して大きな課題への対応を推進するような状況ではありません。利害の不一致による摩擦と調整の中で遅々と進んでいる。そして予測のうえでは遅すぎる課題もある。それが実感です。
薄っぺらい単語の言葉遊び、誤字の乱発、他人への中傷、自己の行為を棚に上げた他人への攻撃、そして東大の匂わせ──。誰でも手に入る文字列を、あえて「匂わせ」として用いる稚拙さに気づかぬまま、それを知性の証と誤信する。その姿が他人にどう映っているかすら想像できないとすれば、もはや憐れみすら通り越して、痛覚の領域に入っている。
こうした振る舞いに接したとき、私たちが感じるのは怒りではない。痛覚であり、ある種の沈黙、そして理解だ。すなわち「これ以上の語彙と構造を持ち得なかった」という限界の提示として、それを読み取るしかない。
知性とは本来、静かな営みである。他者を貶めるために引用を使ったり、教養の仮面で語調を飾るものではない。教養とは、蓄えられた知見が有機的に接続され、体系の中で意味を持ち、沈思、黙考の末にようやく言葉として滲み出るものだ。誰かの式辞から一節を抜き出したところで、それが自らの文脈に昇華されていなければ、ただの借り物に過ぎない。
また、自らが日常的に用いている攻撃的言辞や詭弁を棚に上げたまま、他者の語調にだけ正義を振りかざす姿勢は、言葉の倫理を根本から誤解している証左である。攻撃の意図で磨かれた言葉は、どれだけ修辞的に優れていても、知性ではなく技巧にすぎない。
誤記は、単なる不注意ではなく、認知の甘さの表れである。言葉を扱う者が最も注意すべきは、その選び方と並べ方だ。そこに精度がなければ、思想もまた輪郭を持たない。語るたびに形を変えるものは、思考ではなく反射である。
仮にそのすべてが演出だったとしても。つまり、誤字すらも意図的な文体上の装置だったと仮に想定しても、それが結果として伝えてしまうのが、底の浅さと軽さである以上、演出自体が失敗していると言わざるを得ない。
人を測るには、語る言葉よりも、語らずに耐えている沈黙を見ればよい。「沈黙は金」、これは想像以上に多くの場面で真実である。
そして我々は、そうした薄い音を立てる存在に、正面から応じる必要はない。語の重みを知る者だけが、言葉を慎重に選び、構造を築いていく。
もはや答えるに値しない相手と知ったとき、思考する者は、次の問いへと歩を進めるだけだ。
涼しさや 語の薄さにも 風は吹く
たまには季語を入れて、俳句も一興。
「語っている」という体裁だけが先行し、中身があとから追いつこうとするような文章に出会うことがある。
そこには語調の滑らかさはあっても、語られる「必然」がない。概念は提示されるが、その定義は曖昧で、関係づけは弱く、時間軸も飛び越えていく。まるで、思考というよりは、語の寄せ集めが言葉の衣をまとっているかのようだ。
抽象語は思考を深めるために使われるべきものだが、ときにそれは、思考しないための隠れ蓑にもなる。耳あたりの良い概念を並べていくうちに、「語った」という充足が、問いの所在や重さをかき消してしまう。問題がどこにあり、どこへ向かうべきなのか。その根本的な構造が示されないまま、「共感」や「理想」「持続可能性」といった語が、装飾として滑っていく。
本来、語は世界の手触りに触れるための道具で、それが触れていないとき、語は語として成立していない。語りとは、何かを切り分け、意味づけ、関係づける行為だ。そのいずれもが曖昧なまま語られたとき、そこに生じるのは思考の広がりではなく、沈黙の必然である。
「語っているように見えるもの」が、実は語られぬまま放置されていることに気づいたとき、私たちは言葉の精度について再び問わざるを得ない。
語彙の多寡ではない。構造の複雑さでもない。問題は、語らねばならぬものを、ほんとうに語ろうとしていたのかどうかだ。
言葉は、選ばれなかった沈黙の対価である。
沈黙の深さに耐えた者だけが、言葉に重さを与える。
そして読む者は、それが単なる音の連なりであるか、それとも思考の痕跡であるかを、無意識のうちに見抜いてしまう。そこに、技巧では届かぬ境界がある。
秋灯下 言の重さを ただす風
構文は飾れても、思想は誤魔化せない。
そんな夜の静けさも、また。理解できぬ者が言い訳という蛇足を弄する。微塵の重みもない、死んだ言葉の羅列で。
「グレートリセット」の言葉は、コロナが世界に蔓延する中、世界フォーラムで使われ、岸田総理が所信表明で新「グレートリセット」にて新自由主義を実現を目標に掲げて使われました。社会全体の問題が継続し状況が不可逆的に悪化しないよう、元に戻すという意味を込めているとの理解です。
語る者の責任を免除し、聞く者の思考を停止させる、というより、「危機を強調し、聞く者の留意を喚起する」標語という意味合いで捉えています。
局所的な対策では大きな問題の進捗を抑えられないような対象に対して、より大きな力を結集して対応しようとする意味合いとの理解です。
目標が全く実現出来なければ、それは単なる装飾でしょうが、目標と標語とをセットとして人の注意を引くことで、実現のための支援となるならばそれも有効でしょう。いずれも結果が全てです。






























