女子美の中高大連携授業
「トナラー」とかいう謎ワード、ご存知ですか?
最近、ネットやラジオでやたら聞く「トナラー」とかいう言葉、ご存知ですか? 広大な駐車場で、わざわざ隣に車を停める人のことを指すらしいのですが……
記事によると、彼ら(というか大抵お察しな中年男性)は、「せっかく誰もいない場所に停めたのに、なぜか隣に車を停めてくる奴がいる!」と憤慨しているとのこと。でも、だったら混雑時に左右どちらも埋まってたら停めないんですか? 結局は「俺様の空間を侵すな!」という自意識過剰の産物でしかないでしょう。
さらに「ドアパンチが怖い」とか言ってるけど、そもそも駐車して車を離れた時点で当て逃げやら盗難やらのリスクはあるわけで、それが嫌なら車に乗るなとしか……。
極めつけは、ラジオでトナラーに直接話を聞いたという男性の「私のクルマがメルセデスで目立ちました?」発言。何その自慢? しかもメルセデス(笑)。AMGでもマイバッハでもない時点でお察し。私も以前はS63カブリオレ、今はSL63に乗っていますが、そんなことでいちいち気にしたことすらないんですがね。
「トナラー対策」と称して駐車禁止区域に堂々とはみ出して停めるような無様な真似をするくらいなら、最初からタワーパーキングにでも停めれば? それすら面倒なら、一生駐車せずに動き続けるか、家でミニカーでも磨いていたほうが精神衛生上いいのでは?
皆さんどう思う?
全く同意です。
>他人がどうこう思うことで腹を立てても、ありがたいことはありません。
という話は、トナラーを嫌がる人の気持ちに腹を立てるスレ主さんのことを言ったつもりだったのですが、逆の反応が多くて新鮮でした。
でも、新鮮だ、という反応、いいですね。
「そういう人もいるんだ」という反応も。
自分の理解できない感性を持つ人がいても、淡々と、新鮮、そういう人がいる、と思えば、見識も想像力も広がります。それを言論で攻撃して屁理屈を言うようならば、そういう人もいるけど、何が楽しいのかな、という感想に留めておきます。まぁ、私もまだまだ未熟なので、感情的に反応することもありますけど、精進したいものです。
駐車場での車と車の距離感は混雑や天候などその時の状況によりですが、人と人との距離はそれに互いの関係性が加わります。
同じ距離でも人間関係が上手な人のように相手を安心させ不快感を与えない人もいれば、逆に相手を不安にする距離感がおかしい人もいます。さらに距離感がバグっている人に関してはなぜ相手がそう感じるのか理解できないかもしれません。
トナラーという行為がマナー違反とは思いませんが、何らかの理由で空いている場合は離れて停めます、座りますという人に対してストレス云々言うのはちょっと違うかな。
「距離感がバグっている人」とは面白い表現ですね。でも、距離感は相対的なものなので、他人の距離感を「バグ」と断じるのも、なかなか大胆な見方かもしれません。
また、「何らかの理由で空いている場合は離れる」というのは個人の自由ですが、逆に「何らかの理由で隣に座る・停める」人もいますよね。それはそれで個々の選択であって、「ストレスを語るのはちょっと違う」と言われると、「なぜストレスを感じる側の感覚だけが正しい前提なのか?」とも思えてしまいます。
結局のところ、互いに「そういう人もいる」と認め合えれば、それこそ距離感の取り方も、もう少し穏やかになるのではないでしょうか??
◆途中経過〜まとめ
トナラー論争をめぐるやり取りをざっと振り返ると、意見の対立は実のところ「トナラーという行為そのもの」ではなく、それに対する「解釈の仕方」と「感情の処理の仕方」にあるようです。
・「トナラーは迷惑な行為」派
→ 「隣に来られるとストレスを感じる」→「だから一般的にも迷惑なはず」
・「トナラーは気にしない」派
→ 「他人の行動はコントロールできない」→「だから気にするのは無駄」
さて、ここで興味深いのは、「迷惑と感じる側」は、自分の感覚を普遍化しようとしがちであるのに対し、「気にしない側」は、あくまで「個人の感覚の違い」として処理している点です。
前者の視点は、「自分が嫌だと思うなら、他の人も嫌がるべきだ」という同調圧力に近く、そこに無意識の「正しさ」の押し付けが発生しています。しかし、ここで見落とされているのは、「トナラーは迷惑」という考え自体が、そもそも個々の主観の問題であり、絶対的な規範ではないこと。
「トナラー=迷惑」と一方的に決めつけることこそが、「自分とは異なる価値観を認めない」姿勢そのものになっているのです。
◆ストレスを生むのはトナラーか、それとも…?
ここで、さらに一歩踏み込んでみましょう。
「トナラーがストレス」と言う人は、「ストレスの原因は相手」と考えます。しかし、実際には「ストレスを感じるかどうか」は、自分の内側の問題です。同じ状況でも気にならない人がいる以上、「トナラー=ストレスの原因」と断定することはできません。
つまり、「トナラーが迷惑」と主張する人は、他人の行動に対する自分の反応を、自分自身でコントロールできていない ということになります。
逆に、「気にしない」と言う人は、他人の行動ではなく「自分の考え方や反応」に焦点を当てています。結果として、ストレスを感じにくくなり、より自由な思考ができるわけです。
ここまで来ると、問題の本質が明確になりますね。
「トナラーが迷惑」という意見の根底にあるのは、実は「他人の行動を自分の思い通りにしたい」という無意識の願望。そして、それが叶わないことへの苛立ち。その苛立ちを「トナラー」という現象に投影しているにすぎません。
◆(私なりの)結論:他人の行動を変えるより、自分の考え方を変えた方が楽
結局のところ、ここで繰り広げられた論争は、言い古された「他人の行動は変えられない」というシンプルな事実に帰結します。
✔ トナラーが気になるなら、自分が動けばいい。
✔ ストレスを感じるなら、ストレスを感じないような思考を身につければいい。
✔ 他人を変えようとするより、自分の反応を変えた方が早い。
極論を言えば、「トナラーが嫌」という人は、電車に乗らなければいいし、映画館に行かなければいい。対策はいくらでもあります。
「それは違う、私はただトナラーに配慮してほしいだけ」と思うかもしれません。でも、それは結局「自分が嫌だから、他人に変わってほしい」と言っているに過ぎず、「配慮を求める」こと自体が一方的な要求であることに気づくべきです。
結局、トナラーを「迷惑」と断じる側は、気づかぬうちに「自分の価値観を押し付ける側」になってしまっている。そのことを冷静に受け止められれば、「トナラー」という些細な事象に対する視野も変わるかもしれませんね。
── さて、この視点に対する反論、ありますか?
「人間は集団的な生きものか?」— 個人的検証
「人間は集団的な生きもの」という考え方は一見して当たり前に思えるかもしれません。しかし、この主張を深く考えてみると、必ずしも正しいとは言えないことがわかります。ここでは、この命題を哲学的、論理的、科学的、形而上学的(私が大好きなのでいつも言ってますが 笑)な視点から考察し検証していきます。
1. 哲学的な視点から
哲学の中では、昔から「人間は本質的に社会的な動物だ」とする考え方と、「人間は個として存在すべきだ」とする考え方が対立してきました。アリストテレスはゾーン・ポリティコン(政治的動物)「人間は本質的に社会的な動物である」と言いましたが、この考え方が正しいかどうかは疑問です。たとえば、デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と述べ、個人の思考こそが人間の本質であるとしました。個人の存在が社会性に依存するわけではない、という立場です。
つまり、社会的な存在であることが人間の本質だとは言い切れません。むしろ、個人の存在や独立性の方が重要だと考えることもできるのです。
2. 論理的な視点から
「人間は集団的な生きもの」という命題は、全ての人間が集団の一員であるべきだという意味ですが、実際には反例がたくさんあります。たとえば、歴史上には完全に一人で生活していた人もいますし、孤立して生きた例も多くあります。
「人間は集団的な生きもの」という命題は、反例一つで否定できる全称命題(すべてのXはYである)です。だから、この考え方がすべての人に当てはまるとは言えません。
3. 科学的な視点から
進化論の立場から見ても、「人間は集団的な生きもの」という主張は必ずしも正しいとは言えません。確かに、協力し合うことが生存に有利な場合もありますが、それが人間の本質であるとは限らないのです。進化論的に言うと、個体が生存に有利な方法を選ぶことが重要で、時と場合によっては個人主義的な行動の方が適していることもあります。
例えば、古代の狩猟採集社会では小規模な協力が有利でしたが、都市化が進んだ現代では、個人主義的な競争の方が重要視される場面も増えています。
4. 形而上学的な視点から
「人間は集団的な生きものか?」という問いは、形而上学的な意味でも寧ろ疑問と言えるでしょう。形而上学的に見ると、個人の存在が最も重要だと考えることができます。デカルトのコギト・エルゴ・スム(我思う、ゆえに我あり)という言葉にもあるように、人間の本質は「思考する個人」としての存在です。集団性は二次的なもので、必ずしも人間の本質には含まれないと考えることができるのです。
個人が集団から離れても、存在し続けることができるという点で、人間の本質は「個」であるとする方が妥当です。
結論
「人間は集団的な生きもの」という考え方は、いろいろな視点から見て必ずしも成立するとは言えません。
• 哲学的に言えば、個人の独立性を重視する考え方もあり、集団性が人間の本質であるとは言い切れない。
• 論理的に言えば、この命題は反例一つで否定できる。
• 科学的に言えば、進化の中で集団的な行動が有利な場面もあれば、個人主義が有利な場面もある。
• 形而上学的に言えば、人間の本質は個人としての存在であり、集団性は二次的なものである。
ですので、「人間は集団的な生きものだ」と考えるのは、過度に単純化された見方であって、むしろ「人間は状況に応じて集団的にも個体的にもなり得る生きもの」と考える方が適切だと言えると思います。
せっかくなので、ここにトナラーさんがいるならば教えてください。
例えば私が大きな荷物を買う予定で(どんな理由でも良いけど)
ドアを大きく開けたいために、スーパーの入り口から遠くに停めたとします。
入り口の遠くには、まだたくさん空いている場所があります。
そんな時、わざわざ隣に停める人は、どういう意図があるのでしょう?
入り口近くなら別に隣に停められてもなんとも思いませんが、私がストレスを感じるくらい不自然に隣に置かれる場合の心境を知ってみたいです。
もっとも、私は
→ 「隣に来られるとストレスを感じる」→「だから一般的にも迷惑なはず」
こんな思想にはなりませんが、自分には理解できない行動なので、ちょっとした不信感を感じます。
>例えば私が大きな荷物を買う予定で(どんな理由でも良いけど)
ドアを大きく開けたいために、スーパーの入り口から遠くに停めたとします。
そんな時、わざわざ隣に停める人は、どういう意図があるのでしょう?
私は特に「トナラー」標榜社ではございませんが、一般論で申し上げさぜて頂きます。
まず、あなたが「大きな荷物を買う予定」かどうかを、他のドライバーが知る方法はありませんよね? その理由を誰も知らない状態で、「遠くに停めたからそっとしておいてほしい」と考えても、他人がそれを察することは不可能です。
次に、「遠くに停める=周囲に誰も停めてほしくない」という発想ですが、これは駐車場という公共のスペースにおいて、他の利用者に求めるには少し主観的すぎるかもしれません。
実際に隣に停める理由としては、以下のような可能性が考えられます。
1. 防犯・安全の観点
単独でポツンと駐車するより、他の車の隣に停めた方が車上荒らしに狙われにくいと言われています。これは広く知られた行動心理の一例です。
2. 車間距離を確保したい心理
駐車スペースの中で比較的広めの場所を探し、あえてそこを選んだ可能性もあります。「端の方は広く使える」=「駐車しやすい」という判断ですね。
3. 無意識の習慣
多くの人は「隣に車がある方が停めやすい」と感じるものです。これは、駐車の目安ができることで誤差を減らしやすくなるためです。
4. 単なる偶然
他にも遠くに停める理由があった(例:日陰に停めたい、カート置き場に近い、入り口と関係ない動線で動く予定がある)というだけで、特に深い意図がない場合も多々あります。
結局のところ、「隣に来られるとストレスを感じる」としても、他のドライバーがそれを察知するのは不可能ですし、「不自然に隣に置かれる」と思うのも主観の問題です。
駐車場は個人の所有地ではないため、「隣に停められると困る」と考えるならば、それを他者に期待するのではなく、最初から広いスペースを確保できる場所を選ぶ、もしくは駐車後に車を移動させるといった自衛策を講じるのが現実的ではないでしょうか。




































