- インターエデュPICKUP
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投稿者: 頭の体操 (ID:mea9/QY5f76) 投稿日時:2014年 03月 18日 10:05
0歳児
待ち遠しいのは
母の声
何で書き禁になったのかわからないです。
荒しは、ご遠慮ください。
楽しみたい方もいらっしゃるので。
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【5496896】 投稿者: 抜けると頑張る (ID:3Ar/E7FaUcc) 投稿日時:2019年 07月 06日 05:12
占いに右往左往の専業主婦
私は占い結果に結構振り回される。おみくじも引かない家人に「平和だね~。」と揶揄される。家に居て占い結果も検証しにくく(的中率を把握できない)、そんなことぐらいしか心配事がないのだろうと言われてしまえば、そうかもと思う。
でもなあ。
塞翁が馬の老人はどうだろう。占いに長けた人である。ものごとの解釈の問題に占いの要素が絡めてあるのだ。人間万事塞翁が馬。これは、ホントは「占いしてると世の中が正しく見えるよ」ってことなのかもしれない。
・・・なわけないか。
れあさんは占い信じますか? -
【5497660】 投稿者: れあ (ID:AaCeVE4up1I) 投稿日時:2019年 07月 06日 20:24
>れあさんは占いを信じますか?
自分にとって大変不本意な事柄が続くようなときには「大殺界だから」と思うことにしています。
「○○のせい」と考えずにいられますし無駄にエネルギーを放出しなくてすみます。何より人を責めずにいられます。
結婚や引っ越しや祝い事は、できるだけ大安や友引の日にしたいと思います。
占いを信じていることになるのでしょうか?
占いにあまり詳しくはないですが。 -
【5497973】 投稿者: 抜けると頑張る (ID:3Ar/E7FaUcc) 投稿日時:2019年 07月 07日 03:08
迷信と言えど歴史を思うかな
小さい頃私は体が弱かったので、母がよくげん担ぎをしていました。いまの彼女はそんなことはなく、私が担ぐ方です(苦笑)。実母と言えどいろいろあるけれど、やはり子への愛情があったなあと、れあさんへのお返事を考えていたら、しみじみと思い至りました。
蹴鞠が宗教的な思想に結びついていると教えてくれたのは、中沢新一でした。単なるスポーツではない。自然の神との融合。人々の日常の不知への畏れを思います。引っ越しは吉日をなかなか選びにくい時代になりましたね・・・(・`з'・) -
【5501649】 投稿者: 抜けると頑張る (ID:3Ar/E7FaUcc) 投稿日時:2019年 07月 09日 20:55
女は媚びる男は喜ぶ?真理と関係ないけどね
はーーーー。議論の場で媚びるのが醜いとは気づかないのかなあ?PTAもそうだけど、男性諸君には心して対処してほしいわ。 -
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【5501655】 投稿者: 抜けると頑張る (ID:3Ar/E7FaUcc) 投稿日時:2019年 07月 09日 21:02
「同意する」自己の意見を基にして
相手の言ってることが「かっこい===!」では自分の意見ではない。そこのところは心したいと思う。 -
【5504530】 投稿者: 抜けると頑張る (ID:3Ar/E7FaUcc) 投稿日時:2019年 07月 12日 02:07
サロメに問う物言わぬ首に口づけを?
相手を刺すのも良しとするほどに追い込まれていたのだろうか。若い頃はいろいろと失敗もあるだろうし、それに対する気持ちの繊細さは、歳をとってから見ると愛おしいが愚かなものにも見える。二人の今後をあれこれ憂慮してしまう。老人目線の若い二人への批判だけは心して控えたいと思う。・・・ちょっと思ったのだが、男性が理Ⅲの学生でなくホストだったらここまでの騒ぎになるのだろうか?果たして、人々は「行為」を批判しているのだろうか? -
【5513521】 投稿者: 抜けると頑張る (ID:3Ar/E7FaUcc) 投稿日時:2019年 07月 19日 15:17
アニメの楼閣燃やす一邦人惜しむ多華人
京アニ。心よりお悔やみ申し上げます。ご冥福をお祈り申し上げます。
中国から追悼の意で来日したという若者たちをテレビで見た。最近の日本を見ていると、文化大革命、ポル・ポトなどを思い起こしてしまう。自分たちの中に存在する優れた者に対する憎しみ、その表出。日本はどこへ行くのだろう。 -
【5518760】 投稿者: 抜けると頑張る (ID:3Ar/E7FaUcc) 投稿日時:2019年 07月 24日 04:04
省察に目は外を向きすぎるかな
吉本に関する騒動。批判しようと思うなら、どちらにも非があるだろう、「法に反する」というような線引きをしなければ。人は生きていく上で、100%円満に暮らしていけるわけではないから。「自分なら、どこまでできるか?」という視点は重要だろう。
吉本に所属していると言っても食べていけない芸人さん数人を見知ったことがある。残念ながらその貧ゆえに他人に甘え過ぎ人としても芸人としてもどうか?という結果になった人もいる。ロザンの菅氏が6000人全員を食べさせようとする発想に問題がないか?というような意見を述べたらしい。どこかで「この世界で生きていけるか否か」の明確な線引きは、芸人ファーストとしても必要ではないか?と思う。己に「芸人としての力」を視る。そうであってはじめて貧の中にも芸人としての誇りを見、あるいは芸人たろうとして堕ちてゆくことに歯止めをかけることができる、のではないか・・・
受験に似た問題だと思った。どこで見切りをつけるか。すべての人間を横並びにしようとしても無理がある。けれど、そのような発想で行ったら、私のようなナマケモノは中学の時点で切り捨てられていただろう。その点で「愚かだった」親に感謝しなければならない・・・人生は一義的でないのだなあ。人として親として難しい(T""T)
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