インターエデュPICKUP
1425 コメント 最終更新:

地頭の良いお子様とは?

【1508797】
スレッド作成者: 流れ星 (ID:dJDpbF9qP7A)
2009年 11月 17日 09:21

持って生まれた能力というものは、少なからず誰しも何かしらあられるとは思いますが、地頭の良いと思われるお子様とはどの様な方を皆様は思われていらっしゃるのでしょうか?
因みに、小六の息子の塾での地頭の良いと噂されるお子さまは、ご両親がお医者様。塾では誰とも話されないとか。しかし全国では常にトップに入られています。 後、夫婦共に弁護士の方のお子様は暗記がずば抜けていらっしゃるそうです。
息子の塾の一番上のクラスのお子様達のご両親の職業は七割が医者だそうです。やはり、地頭とは親の能力が関係しているのでしょうか。
皆様はどう思われますか?

【1569944】 投稿者: 根本的な   (ID:Tg0nWBCZK9U)
投稿日時:2010年 01月 12日 17:20

 今気づいたのですが、「遺伝率のページ」さんって、もしかしたら、以前の「遺伝率」さんですか?もしそうだとしたら、迂闊にも、私、【1565667】であなたに言及しそこなっていたようですね。もしそうだとしたら、大変申し訳ありません。他意はありませんので、お許しを。

【1570462】 投稿者: 老眼   (ID:DualJdeKioI)
投稿日時:2010年 01月 13日 01:34

>現行の大学入試制度のもとでは、理科一流英語一流(国語も社会もですよね)でないと一流とはみなされない。そこでは、理科超一流、英語三流のひとは総合二流という評価になってしまうことも十分あり得る。


一流。根本的なさんはそれなりの意味がおありになって使用されたのだと思いますが、教科学習においては「いっぱし」くらいの表現でどうでしょう。一流は地頭同様に定義することが難しい言葉です。一流は地頭や一端よりもずっと先にあるもので、もしかすると本人が鬼籍に入ってずっとたってから後世の者が過去形的に使うにふさわしい、そんな響きがあります。一流大学なんて表現ありますが、妙ですね。大学の建物が一流?大学の教職員が一流?学生全員が一流?なんでしょうね。一学年3000人いる場合100年あればそれだけで300000人も一流がいる。世の中一流だらけじゃないですか。「一」が台無しです。一流と言われている組織に入れば一流になれると勘違いするのも燃え尽きの一因なのでしょう。一流人でそれを自認している人は滅多にいないことも興味ある事実です。彼らはゴールを知らず、どこまでいっても満足しない。彼らは一流という言葉自体にそもそも無頓着かもしれません。「理科超一流、英語三流のひとは総合二流」といった他人の下す評価に彼らは無関心だと思います。


>そうすると、ヤノ君を遥かに凌ぐ大天才も落としてしまうかもしれませんよ、と「アドバイス」しているわけです。


根本的なさんが大学入試前後の教育に関わる組織改革の必要性を主体に考えるお立場でしかも国益という大きな視点に立って提言なさろうとしているのに対し、私は個々人の責任を主体に考えている立場です。見解の異なる点です。
もとの頭がいいことを前提にすれば、なぜ学校を選ぶ必要があるのでしょう。○○によって才能が埋もれてしまった、は責任転嫁ととらえるのが妥当と考えます。埋もれたのは単に自己責任です。もともと器が大きかったことをいいことにそれ以上大きくすることを疎んじたからととらえます。この器は思惟的にいかようにも大きく変えることができるはずです。逆に使わないと小さくもなってしまう不思議な器です。


>そうして幼少時に環境を整え、「本当に好きなもの」を選んだとしても、高校生くらいの年齢になってもまだ、嫌いなものも無理矢理勉強しなければならないために、「本当に好きなもの」に没頭するための時間がない、という現行の大学受験システムについては、どうお考えですか。


大学受験システムの問題ではなくこれは個人の問題だと思います。中学入試もまた然りです。
我々個々人が実行可能なこととできないこと、子供の現況に照らし合わせて間に合うこととそうでないことなどを考慮したうえで現実的な対応を日々考えそれを行うことが、個人の力ではどうにもならない受験制度なるものの是非やその対策を考えることよりも、子供にとって明らかに有意義な時間となるのではないでしょうか。
システムなどの周りの状況がどうであってもそれに影響されない力があればよいという発想です。
これは他人との相対的関係によってではなく自身の成長によってのみ可能になると考えます。前に根本的なさんが述べられたことに通じます。

【1570556】 投稿者: 普通のおばちゃん   (ID:1ryGgodJRP.)
投稿日時:2010年 01月 13日 08:29

普通のおばちゃんの感覚では
老眼さまの言われていることは よくわかる。
根本的さまのいわれていることは もっともなのかもしれないけれど だからそれをどう自分に置き換えてみてどうするかといった 具体的な自分への行動指針にはなりにくく すくんでしまうだけような気がする。



なんとなく 思ってきたのだけれども
老眼さまは理系で 実学 自然科学系 現象系で 自然界の大法則の中での考え方で
根本的さまは 文系的 あるいは文理的考え方で 人間の社会のための考え方で 理論のための理論のような。


だから 分かり合えないのではないかしら・・・・

【1570820】 投稿者: 根本的な   (ID:Tg0nWBCZK9U)
投稿日時:2010年 01月 13日 12:39

>根本的さまのいわれていることは もっともなのかもしれないけれど だからそれをどう自分に置き換えてみてどうするかといった 具体的な自分への行動指針にはなりにくく

 たしかに、そうですよね。妻にもよく言われます。

>すくんでしまうだけような気がする。

 お気の毒に。申し訳ありません。でも、許して頂けませんか。

>だから 分かり合えないのではないかしら・・・・

 いや、もしかしたら、かなり分かり合えるような気もしているんです。

【1572234】 投稿者: 根本的な   (ID:Tg0nWBCZK9U)
投稿日時:2010年 01月 14日 16:18

老眼さん

>一流。

 「一流」という言葉。すこし俗っぽい言葉でしたね。意味が曖昧になってしまったようです。もっとはっきりした言葉を使えばよかった。たとえば、「第一位の座」、とかですね。第一位、第二位、第三位という社会的な序列、そのなかで、「第一位の座」は誰なのか、その評価基準はいかなるものなのか、そこにこそ、その社会システムのもつ思想(考え方)が反映されている、と私は思っています。

 たとえば、スポーツの世界、野球界はどうでしょう。毎年、ドラフト会議をやる。そこで、「第一位」指名される選手とは、当たり前のことですが、野球の才能、実力に際立ったひとです。陸上とか、水泳とか、サッカーとかの能力が問われることはない。各種の競技能力についての得点を総合して最高得点の選手から一位指名する、なんてことはしない。そんなことしたら、チームは勝てっこありませんね。それで松井が指名三位なんて言ったら、怒りますよね。ほかのスポーツでも同じですね。

 ところが、学問の世界だけは別になっている。それは、おかしなことではありませんか、と私は言っているのです。私は、学問というものは、一種のスポーツだと思っております。最高の栄誉は、「第一位の座」を占めることです。それは、「第二位」などというものが無意味になるくらいの際立った独創性をもつ発見発明を行うということです。それができてはじめて、社会に対する多大な貢献も可能になる。

 では、そのためにはどうすればいいのか。独創性を生むための条件です。もちろん、もともとの頭が良くなければダメです。しかしそれ以外に、なにかひとつのこと、ひとつの考え、自分が「本当に好きなこと」に没頭することのできる力、朝から晩まで、寝食を忘れて、ほかのことには何にも関心がなくなってしまうくらいに、そういう能力が必要だ、と私は思います。考えるということの魔力、魅力に取り憑かれて狂ったようになれる能力が。

 こういう性質は、「常識」とか「教科学習を満遍なくこなす」という性質とは、本来相容れないものです。こんなことは、過去の偉大な科学者の伝記を、ほんのすこしでも覗いてみれば、たちどころに了解できることです。ガリレオでも、ニュートンでも、アインシュタインでも、みんな同じです。実は、哲学でも、文学でも。ソクラテスは?ニーチェは?ドストエフスキーは?こんなひとたちの生活ぶりなんて狂人同然ではないですか。ニーチェは、最後は本物の狂人になってしまいましたがね。まあ、あんなに感情的になっては気も狂いますよね。ただ、気持ちは分かります。あんなことを言いたくなってしまった気持ちは。

>根本的なさんが大学入試前後の教育に関わる組織改革の必要性を主体に考えるお立場でしかも国益という大きな視点に立って提言なさろうとしているのに対し、私は個々人の責任を主体に考えている立場です。見解の異なる点です。

 もうおわかりでしょうが、私の立場は「国益」ではなく、「学問、研究」なんですよ。「学問、研究」の評価基準で若者達を選別すべきだと考えているのです。そうでなければ、つまらないではないですか。数学やりたいひとが、なんで数学だけで勝負できないんですか?そんな馬鹿な話があっていいんですか?

>大学受験システムの問題ではなくこれは個人の問題だと思います。中学入試もまた然りです。
我々個々人が実行可能なこととできないこと、子供の現況に照らし合わせて間に合うこととそうでないことなどを考慮したうえで現実的な対応を日々考えそれを行うことが、個人の力ではどうにもならない受験制度なるものの是非やその対策を考えることよりも、子供にとって明らかに有意義な時間となるのではないでしょうか。
システムなどの周りの状況がどうであってもそれに影響されない力があればよいという発想です。
これは他人との相対的関係によってではなく自身の成長によってのみ可能になると考えます。前に根本的なさんが述べられたことに通じます。

『個人と社会』
 老眼さんは、個人の側に立っている、と。

 たしかに、社会システムがどうであれ、個人はそんなものに影響されないほど強くあらねばならない。それは個人の責任である。そのとおり。私も大賛成です。私も学生時代とその後しばらくは、自分なりにそうしてきたつもりです。子供にも、自分の無能を社会システムのせいにするなどということは許さない、そんな愚かな親でもないつもりです。

 でも、いいですか、老眼さん、その個人主義(克己主義)と、一方、社会システムがもし悪いものならば、改善しようではないか、という社会人としての立場と、このふたつは、両立できないものなのでしょうか?私もひとの親になって変わったというところもある。いわゆる「親心」ですよ。個人としては自分の力だけでできることをまづやるべきだ、けれども、親としては、子供に「よい教育環境」を与えてやりたい。だから、私立という選択にもなったわけです。だって、DNA50%、環境因子50%ですからね。環境因子だってよくした方がいいに決まっていますからね。私の教育制度改革提言もその延長線上にあるものと思ってください。

>もとの頭がいいことを前提にすれば、なぜ学校を選ぶ必要があるのでしょう。○○によって才能が埋もれてしまった、は責任転嫁ととらえるのが妥当と考えます。埋もれたのは単に自己責任です。もともと器が大きかったことをいいことにそれ以上大きくすることを疎んじたからととらえます。この器は思惟的にいかようにも大きく変えることができるはずです。逆に使わないと小さくもなってしまう不思議な器です。
 
 まづ、前提として、「才能が埋もれてしまった」原因は、「個人」にも「社会」にもありうる。私は「社会」に多くあると思ったから、システム改革の提言をしました。それに対して、老眼さんは「飛び級」等は「やってもいい」とご発言なさった。それなら、「社会」にも一部「責任」があるということを認めたことになりませんか。にも拘らず「責任転嫁」とは、どういうことでしょうか?


 ところで、老眼さんって、「公立派」でしたっけ。

 

【1572251】 投稿者: 老眼   (ID:MWrEDKY5g4s)
投稿日時:2010年 01月 14日 16:39

普通のおばちゃんさん


「分かり合う」は背中がぞくっとしてしまう表現なので避けさせていただきますが、根本的なさんの真剣さには真剣さを持って対応するのが筋と考えて妥協せず意見を述べているところです。また、物の見方や物差しの相違は100人100様むしろ当たり前のことで、それだからこそ人の意見を聞く価値があると思っています。


「地頭」という表題の本が一冊あるとします。目次には、大項目として1地頭とは何か 2地頭と遺伝 3地頭の分類 4地頭を伸ばす方法 5地頭と受験 6地頭と職業 7何のための地頭か などが書かれることでしょう。
私が熟読したいと思っていた項目は4です。根本的なさんとのやりとりで7にも関心を持つようになりました。
私が実効性を模索している点が普通のおばちゃんさんと共通するところではないでしょうか。4に関する明確な答えが得られていないので、自分にとってはこのテーマの終焉はまだまだ迎えておりません。とりわけ「論理性」の育みかたに関心を持ちいろいろ検証しているところです。

【1572343】 投稿者: 普通のおばちゃん   (ID:1ryGgodJRP.)
投稿日時:2010年 01月 14日 18:15

根本的なさま 老眼さま 仲間に入れて下さって ありがとうございます。

おふたりとも とても視野が広く 社会的に開かれたお仕事をしている男性の方と 勝手に思っております。当方多少仕事はしていますが 規模は小さく 視野も狭く 本当に身の回りの多少のサンプルしか知りません。子供に関わっておりますので 二桁の子供の例をいろいろ見てきました。


まず 身近な複数のわが子において 老眼さまのおっしゃる 地頭について 書き込んでみます。
1 地頭とはなにか
 これはカーナビなどの性能というか そんな感じでとらえています。わが子は一人は地図をもってドライブをし もう一人の子はカーナビを持っていて 末っ子はヘリコプターで上から三次元で映像を見ながらドライブしている感じがしています。ヘリの子は性能も良いので迷いませんが 疲れやすく 繊細で別のケアがいります。地図の子ははじめは遅いのですが だんだんと己の特徴も知り努力の大切さを一番身に染みているのでパワーが増してきました。車のエンジンが初めから搭載されているのではなく だんだんと自分で改良し大きくしている感じがします。カーナビの子はカーナビの更新をしないといけないのを知らず あさっての方向に行きましたが少しずつ慣れ まだ加速は慎重にと言ったところに居ます。


2 地頭と遺伝
 これは私はあるように思います。小さい頃から 目の付け所が全く違いました。個性といわれるもののような気がします。文字から吸収する子 耳から吸収する子 どちらも同時に入る子 映像のように覚えてしまう子 いろいろ見てきました。ただ・・・地頭が良くても親がそれを伸ばそうとしない またはあさっての方法でアプローチすると壊れていく ように私は見ています。また ある1方向に優れていてもバランスが取れていなくて バランスを取ろうと他のことを始めると 優れているところがなくなっていく子も 結構いるように感じています。数理的センスのある子ができない国語を懸命にすると なぜか数理的センスがなくなっていくように 感じています。これは子供の年齢によるものなのか キャパの問題か サンプルが少ないのかはわかりません。大人がいじくりまわすと子供の面白みが消えていく感じがします。

この後の 分類や伸ばす方法はわかりませんが 我が家は物理屋の主人と化学屋の私とで 子供を理系にしてしまったような気がします。ものの見方や検証の仕方が幼いときから偏ってしまっています。我が家では論理性は家庭の会話の中ではぐくまれてきているような気がしています。それはいいことなのか悪いことなのかはわかりません。

【1572365】 投稿者: 老眼   (ID:MWrEDKY5g4s)
投稿日時:2010年 01月 14日 18:40

根本的なさん

>「本当に好きなこと」に没頭することのできる力、朝から晩まで、寝食を忘れて、ほかのことには何にも関心がなくなってしまうくらいに、そういう能力が必要だ、と私は思います。



この部分は確かにそうです。
しかし、これが必要な理由は「第1位」になることではありません。順位にこだわるのは愚かです。「第1位」になった瞬間にその意義は消えうせます。お子さんを見てみてください。何かに没頭しているときに、お子さんの周りには誰かいますか?没頭していることに「第1位」は関係ありますか?
没頭できるのは好きだからであるばかりではなく、まだ達成していないという認識が本人にあるからです。没頭したあと達成できればおおきな満足感が得られ、そして同時に、次の意欲が発生するのだと思います。そのスパイラルが繰り返されるほどより強くなり、やがて大きな結果に結びつくのだと思います。この作業は本人の脳の内部で粛々と行われるもので他人の関与は関係ありません。よって没頭する必要性の理由に順位は関係がないのです。
もう1つ別な説明も可能です。没頭=「集中力の持続性」と置き換えることができますが、ここで獲得したい性質は、「集中力」と「持続力」そのものであって、「第1位」という順位ではありません。


>最高の栄誉は、「第一位の座」を占めることです。


私はれんぽうではありませんが、なぜ「第1位」のみが最高の栄誉なのでしょう。下町の町工場の技術が評価されスペースシャトルの部品として使われているそうですが、「第1位」でなくとも最高の栄誉といえませんか。そこの工場のおじちゃん達は「第1位」の学校出身でなくとも、教科学習が「第1位」でなくとも、最高の栄誉を得ているのです。これこそ一流と言えませんか?


>「学問、研究」の評価基準で若者達を選別すべきだと考えているのです。

選別? 聞き捨てならない言葉ですが。分けてどうするんですか?
こども達は魚じゃありませんよ。


>数学やりたいひとが、なんで数学だけで勝負できないんですか?そんな馬鹿な話があっていいんですか?


学校にはそれぞれ勝手な理念があるからでしょう。
横にそれますが、数学だけできてあとはからっきしできないという場合はたいてい数学もできていないんです。できるつもりになっているだけです。あるいは標準問題の解法を単に覚えているがために得点率がいいだけで本質を理解していない場合です。



>その個人主義(克己主義)と、一方、社会システムがもし悪いものならば、改善しようではないか、という社会人としての立場と、このふたつは、両立できないものなのでしょうか?・・・私の教育制度改革提言もその延長線上にあるものと思ってください。


個人主義とは言わないでしょう。それはいいとして、両立は可能だと思いますよ。しかし、誰がそれをするのかが問題です。個人的なことは個人が主体者ですが、社会システムについては違うでしょう。社会の中で生きているわけですからおっしゃるようなことも全く無視はできませんが、我々には無限の時間はありません。こうしている間にも子供は日々変化していきます。ほどほどが良いと思いますが。


> まづ、前提として、「才能が埋もれてしまった」原因は、「個人」にも「社会」にもありうる。私は「社会」に多くあると思ったから、システム改革の提言をしました。それに対して、老眼さんは「飛び級」等は「やってもいい」とご発言なさった。それなら、「社会」にも一部「責任」があるということを認めたことになりませんか。にも拘らず「責任転嫁」とは、どういうことでしょうか?
ところで、老眼さんって、「公立派」でしたっけ。


繰り返しになりますが、もともとの頭がよければ、私は学校はどこでもいいはずだと考えています。同様に飛び級はあってもなくてもどちらでもいいし、公立でも私立でもどちらでもいいと考えています。
いかに子供の能力を伸ばすかを考える場合、学校という建物や名前や飛び級というような制度などから受ける良い影響は微々たるものです。
ここで社会の責任を追及して何になるでしょう。本当に追求するのなら国会議員にでもなったらどうですか、そういう立場です。

スペシャル連載

すべて見る

サイトメニュー