女子美の中高大連携授業
地頭の良いお子様とは?
持って生まれた能力というものは、少なからず誰しも何かしらあられるとは思いますが、地頭の良いと思われるお子様とはどの様な方を皆様は思われていらっしゃるのでしょうか?
因みに、小六の息子の塾での地頭の良いと噂されるお子さまは、ご両親がお医者様。塾では誰とも話されないとか。しかし全国では常にトップに入られています。 後、夫婦共に弁護士の方のお子様は暗記がずば抜けていらっしゃるそうです。
息子の塾の一番上のクラスのお子様達のご両親の職業は七割が医者だそうです。やはり、地頭とは親の能力が関係しているのでしょうか。
皆様はどう思われますか?
普通のおばちゃん先生
お礼が遅れましたことをお詫びいたします。
詳しく説明していただきありがとうございます。
>でも周り 多くの場合親のすることで効果がある と親が思われる方向と方法は本当に些細なもので きっかけ作りに過ぎないのかもしれません。そのあたりの考えはつぶやきさんのおっしゃることにおおきくおおきくうなずいています。
私もつぶやきさんのお話にいちいち肯きます。非常に重いです。
子供達を多く育てていらっしゃるおばちゃん先生と自戒を込めてお話くださったつぶやきさんのお考えが一致している事実に大きな意味を私は感じています。
>子供の地頭はそのような時「子供への愛情と期待と信頼と抱擁(許しというか子供への尊敬のような)がある時」に発芽する小さな芽のようなものだと思っています。
この言葉もゆっくり時間をかけて咀嚼吸収したいと思います。
お聞きしてばかりで恐縮ですが、先生は父親の教育への関与についてはどのようにお考えですか。先生のご意見をお聞かせいただきたく存じます。
>親がつかむのが難しく そこがずれていると子供を親がつぶしてしまう 親がその動画に気がついて 引っ張りあげよう指導しようとすると上手く行くよりも 動画で捉えることを辞めてしまったり 別のことに関心が移ってしまったりしてしまう子がいるように思っています。実際と同じで動画にはとてもメモリーがいり、本人にとっても大変なのではないかなと私は捉えています。
詳しく教えていただきありがとうございます。写真記憶や動画的記憶というもの自体が想像できなかったので興味深く読ませていただきました。その記憶法のできない親は邪魔をしないで黙っているのがいいのだろうとは感じていましたが、それで良いという客観的な裏づけをはじめて得ることができました。
元塾講さん お久しぶりー。なんか同窓会か?(笑)
>ところで「ぶらっくしろくま」はねえだろ。向こうを「ぶらっく元塾講」と呼んでくれ。
命名時のあなたは「ぶっきらぼう」で「ぶらっく」でしたよ(笑)今はそうでもないけど。。
しかし、いまさら 「ほわいとしろくま」もないでしょ。
また、よろしく。
■地頭ってなに?さん
>スミマセン。分かり難かったようですね。お聞きしたかったのは、本人にとって東大
>へ行くメリットは何かと言うことです。海外留学をする場合に、他の国立大からより
>有利であるとか。理想的には研究者として出て行ければいいわけなので、研究者とし
>ては東大の方が有利になるとか。そういうものがありますかと言うところです。
といってますけど・・・・
>実際今の学校には幻滅しているんですよ。少なくともウチには合っていなかったなと。
>だから、理由もなく東大を目指すのは止めようと話しています。
結論出てるじゃないですか?。ちがうのかな?
それとも、なにか「理由」があれば、目指してもいいので、その理由が知りたいってことですか?
もし、娘さんにあった理由を見つけたいにしても、ここは適切な場所ではないと思いますよ。
幻滅してる学校かもしれませんが、先輩にも変った先輩もいたんじゃないでしょうか?
まだ、そちらのほうが・・生の情報で、いいのではないでしょうかね。
>ただ逆に私は学校名は1回しか出していないと思うのですが、何度も引用されているのは
>適正ある子さんのほうだと思いますので、ご考慮いただけると助かります。
それは、申し訳ありません。今後は遠慮しておきます。
ただ、地頭ってなにさん本人が、学校名だしてこと、ここのスレッドの人達には、既成事実化したこと、今までの細かな話も、実際はその学校を前提としての話としか思えませんでしたから。まさか、地頭ってなにさんが、隠そうという意識があるとは思い至りませんでした。
重ねて、すみません。
■老眼さん
こちらこそ、よろしくお願いします。
>適性ある子さん
>性でしょ。正じゃなくて。
あー これは、最初に間違っちゃって、途中でHN変えられないので
面倒なので、ずっと「適正ある子」のままにしてたんですよ。
これからは、「適性ある子」にしときます。どっちでもいいけど。(笑)
>ここで、紹介したロシア人数学者に対し、本人がそれで幸せならそれはそれでよい
>人生です、と思う私がいる一方、そんな人生ならむしろ標準的に生きてほしい、と
>自分の子供だったら言いたくなる自分もいます。
>ギフテッドさんが提示してくださった「何のための地頭か」を考察したい理由の1
>つはこの矛盾する感情はいったい何なんだ? から生じています。
この数学者はグリゴリー・ペレルマンでしたっけ?
結構数学者は不幸になる人いるような・・・
インドのシュリーニヴァーサ・ラマヌジャンもそうだし・・
親なら、そんな矛盾した感情は当たり前だと、思いますけどね・・・
好きなことで生きてほしいし、人として幸せに生きてほしいってね。
対立した、または矛盾した状況にあるのが普通という考えかな。
「何のための地頭か」難しいこと考えますねー。考えたこともないな。
元塾講さま
出てきてくださり とてもうれしいです。静かなファンです。
何のための地頭か・・・・
その迷路に私も居ます。
地頭はって何?さん・・・・素敵なお嬢様ですよね。意思のしっかりした 自分を持っている 揺るぎどころのない自分の土台を持っている そんな風を感じます。失礼ですがお嬢様は 悲しい思いはなさらなかったのでしょうか? いえ・・・たとえしていても真直ぐな目とご両親の愛と信頼と心地よい期待の中で乗り越えてきたのだと推察します。
ですが 私の周りの地頭を育てようというか 伸ばそうという子は ほとんど例外なく集団からは浮いてしまうのです。おのおのの集団との融合というか その子がその時属する社会との社会性が育っていないのです。
周りと上手くやろうとすると それはそのこの地頭を伸ばす方向とは ほとんどの場合 真逆の方向がおおいです。そんな時に 暖かく見守り 包み込むように外圧から非難して 且つ 孤立しないように社会性も年相応に育てることは 至難の業のような気がしています。
おれしろくまが嫌いだから、あっちを基準にされるとやだ、ってことだよ。
迷路の中のネズミ、ってたとえが悪かったかな。心理学の実験のつもりで言ったんだよ。
「ネズミがエサに向かって走る」のは真実かも知らんが、子供はエサに向かって走るとは限らない。
むしろエサに向かって走らされてると気付いたら反発するだろう、普通。
天才論・成功論・精神論で子供を鼓舞しようとする人は、そのあたりの子供の心理に鈍感なような気がするなあ。
そんな子供は「素直じゃない」「ひねくれてる」とか一刀両断しちゃうのかな?
>地頭を育てようというか
地頭は、「能力」じゃなく「子供固有の能力の限界」だから育てられないものと思ってたが・・・
いくらエンジンを頑張ってふかしても、エンジンの定格出力は上げられない。
その能力の限界がどこにあるかがわからないが、それは確実にある。でもわかる親にはわかる。
子供に過度の期待をかける欲深な親には見えない、お釈迦様の手(西遊記に出てくる奴)のようなもんかな。
途中で送信してしまいました。
落ち着いて今 書き足しています。
その間の元塾講さまのおっしゃるように 地頭は育てるものではなく元からあって 他の人に見えるようになってくる 開いていくようなものなのかもしれません。自分の中にある ドアのある部屋のような。エンジンの定格出力が上がったように見えてもそれは見せ掛けで 元からあって開かれてなかったため周りからは育てているように見えるのかもしれません。私の身近な例で 触媒のような出来事や人にあってドアが開かれた場合 子供自らがエンジン出力を上げようとした場合 定格出力アップしたように見えるのも もともとの素材がそうだったのでしょうね。
老眼さん
父親の教育関与なんてとても大きいテーマには 私には答えることが出来るほどの人間ではありません。本当に普通のおばちゃんで先生なんて 恥ずかしいです。
ただ・・・・求められている私の感覚としてでは・・・父親に限定しませんが
家庭の安心感は 子供に大きく影響します。
それが 父親であれ 祖父母であれ 兄弟であれ 小さな初めての社会の家庭での自分のポジションは大切で、安心感がないと 他に目がむけられないのかもしれないと 最近気がついた次第です。元塾講さまが言われるように 子供の心理は繊細ですね。
身勝手ママさん
本能とは何か。
難しい問題ですよね。
「理性」とも絡めて、私なりに考えてみました。
「糖尿病患者の話」
糖尿病の患者は、甘いものが大好き。甘いものを「見る」という刺激に対して、「食べたい」という欲求が生じて、「食べる」という行動に対する方向性が志向される。この一連の意識の流れ(刺激 ー> 欲求、感情、情動 ー> 行動の方向性)を形成する潜在的な動因、これを本能と呼んだらどうでしょうか。
とすると、このメカニズムを形成する基本となる生体分子の中心的存在は、まさにDNAということになるでしょう。甘いものを「見る」と、どれだけ「食べたく」なるか、ここの部分の個人差は、DNAの違いに大きく依存するでしょうから。
さて、そうして糖尿病患者は、つい甘いものを食べ過ぎてしまう。すると、医者に怒られる。「こんなの放っておいたら、そのうち死んじゃうよ。」すると、患者は、「理性」を働かせて我慢する。
ところが、これはちょっと違う。患者は実は「理性」を働かせたのではない。医者に怒られると「こわい」(というのも情けないですが)、死ぬのも苦しむのも「こわい」という「恐怖」の感情が生じて、「食べない」という行動(この場合無行動)に対する方向性が志向されただけですね。
ここで、「理性」は何をしたのか。「食べたい」という欲求と「こわい」という恐怖の量を、それぞれ測定し、比較した。そしてどちらが大きいかという結果を導いた。その結果をもとに、「食べる」か「食べない」かの判断を下した。
つまり、人間の行動というものは、さまざまな本能に基づく、行動への志向性のベクトルの総和によって決まる、と私は考えております。




































