在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
中学受験の副作用
何故中学受験組は「大学までの人」になってしまうのか?
米国の論文に掲載される化学現象を発見したのも、お受験私立ではなく、茨城の公立高校の数理科学同好会の生徒たち。
偏差値最高峰の東大理Ⅲからノーベル賞がでたことはないし、でる気配もない。
京大医学部を引っ張っているのは、高校生のときには京大医学部には届かなかったであろう、神戸大卒の山中先生。
医学の世界でのノーベル賞候補はiPS細胞の山中さんや公立高校出身の大阪大学医学部の教授。
東大模試でトップを切る偏差値最高峰軍団は、東大合格後どこに消えてしまうのか?
中学受験組は、大学入試では点がとれるのに、大学合格後鳴かず飛ばずになってしまうのは何故なのか?
仮説①:大学入試で結果がでるのは、フライング(小学校低学年からの勉強)とドーピング(鉄緑等の塾まみれ)によるもので、そもそも大した才能がなかった。
仮説②:小学生の時から点数でのみ評価されてきたため、点数がつかないことには興味を持てない人間に育ってしまった。
仮説③:小学生の時から勉強の目的が受験なので、東大合格とともに勉強する意味を失ってしまった。
仮説④:最初から答えがある問題を解く受け身の受験勉強に慣れてしまい、自分から関心のあるテーマを見つけ、研究するという自発的かつ積極的な学問ができなくなってしまった。
仮説⑤:小学校低学年からの点数や偏差値を目標とした塾通いで、未知に対する知的好奇心という、学者として(人として)大切なものを身につけることなく育ってしまった。
仮説⑥:小学校からの塾通いで、塾がなければ自分で勉強できない人間に育ってしまった。
参考ブログ「天才小学生たちはどこへ消えた?」
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51655722.html
中学受験にのめりこめば、本当に大事なものを失うかもしれない。
中学受験をされるにしても、お子さんが「大学までの人」「受験勉強だけの人」にならないよう、副作用には気をつけましょう。
確率の高い方を選ぶだけ様
暇人様の書き込みを読んで、「本当にそうなの?」と感じ、確率の高い方を選ぶだけ様の書き込みを読んで、「確かにそうよね」と感じることがよくありました。
今回、確率の高い方を選ぶだけ様が、データに基づいて、暇人様への反論と思われる推論をされるのですね。
期待しております。
是非とも、推論の書き込みをお願いします。
遅レスですが、1975年はもう都立の学校群は第2次凋落の最中でした。西から理3合格者は出ましたが、がっくり東大合格者は下がったと記憶してます。
それは単に開成などを選ぶ人が増えただけでなく、それまで眼中に無かった塾高、早大学院にまで都立トップ校志願者が流れ出したせいでもあります。
確率の高い方を選ぶだけ様
が挙げられていた表を見ました。すごいですね、4年前とはいえ、今時、こんなデータがあるのですか。
自分は頭が悪いですので、分析出来ませんが(統計学やったのになぁ)、その下に書かれている細かい文字が気になりました。
「公立高校生にとっては現役合格のハードルが高いから、アドミニッションポリシーを見直したほうが良い」ですって?
東大試験のハードルを下げてどうするんでしょうか?
大学院みたいに入りやすくするんでしょうか(結構、問題起きてますよね、他大だけでなく、外国人が多いとか)。
ゆとり教育と発想は同じですね。
公立高校生にとって現役合格が難しかったら、しっかり、浪人して実力つけて入ってもらいましょうよ。
昔から、入試問題というのは、大学や中高からのメッセージなのでは無かったのでしょうか(その点、灘の入試は哲学があります)。
企業人さん
>超一流しか存在意義が無いって、何それ?
>私はそういう立場は取りません。だって、そんな聴き方したって、面白くないし、音楽に近づけないと思うから。
それは、ひとそれぞれでしょう。でも、それが私の立場です。私はそれで面白いし、私なりに音楽に近づいているつもりですけどね。
>ひところ、ピアニストは、アルゲリッチとポリーニとアシュケナージが居ればいい、という風潮があったけれど、彼らの予定調和のような演奏より、学生の渾身のライヴのほうがおもしろかったりするんでね。青臭かったり、みずみずしかったり。
「学生の渾身のライヴのほうがおもしろかった」、これは当然ありうることでしょう。「青臭かったり、みずみずしかったり」、大事ですよね。ただ、私には「アルゲリッチとポリーニとアシュケナージ」、いづれもあんまり面白くない。
>音楽の価値を決めるのは聴衆です。私も聴衆のひとりなんでね。私が支持する音楽家が世界の超一流でなくたっていいじゃないですか。
私も聴衆のひとりです。企業人さんの「支持する音楽家が世界の超一流でなくたって」なんの問題もありませんよ。
>根本的さんも、自分の耳で音楽を感じてから発言したらどうですか。
一応そうしているんですが。
>演奏は、その場で消える刹那のもので、媒体に封じ込めた瞬間に変質すると考えています。
まあ、それはあるでしょうね。でも、録音技術と聞く側の想像力で補える部分もあるかと思いますが。
>グールドみたいに、音楽の缶詰だけに価値を見出した人も居るけれど、ある意味、異常。
「異常」でも、素晴らしい。他に代替するものがない。「アルゲリッチとポリーニとアシュケナージ」など、いなくてもいい。
公立一貫は良いことださん
>> 天才でなければ、存在する意味はない。
>これはその通りでしょう、でも、定義として厳密にこれを適用すれば、内田光子も小澤征爾も五嶋みどりも私は天才だとは思いますが、はたして彼らの死後数十年のちに名を残せるかどうかは疑問です。
天才にも、いろいろレベルがあるのでは?大天才、中天才、小天才と。死後50年残るなら大天才ですね。
>そして私自身が死んでしまっては意味がない、演奏は聞くことができてこそ自分にとって意味がある。 演奏の永遠の命などは私にとっては無意味です。
でも、今は死後数十年残った録音を聞くこともできるわけです。「永遠の命」を求める精神の活動、それが本物の芸術を生み出すのだろうと私は思います。
>一期一会の演奏に出会えれば幸せです。
それは幸せですよね。
>普遍的に評価される演奏などはどこか如何わしさが有り、私は自分の心に響いてきたものを大事にしたいです。
時代を越えて「普遍的に評価される」演奏には、「如何わしさ」は殆どないと思いますよ。如何わしいのは、限定された一時代のみに「普遍的」に流行した演奏です。私も「自分の心に響いてきたもの」しか大事にしたくない。その結果、過去の歴史的録音にしか、あまり興味がわかなくなってしまったのです。
>例え無名の演奏家の演奏であっても、自分の琴線に触れてくれればそれでよいと考えます。
まったくです。芸術の世界では生前に無名であった人が、死後に評価を受けるなどという例はいくらでもあるのでは?
>> カラヤン=ベルリンフィルが残した夥しい録音は、はたしてどれだけ歴史に残るでしょうか?50年後に。
>間違いなく数点の演奏は残ります。ある一時代を席巻した演奏家たちの記録として・・・
「一時代」の「記録として」、やはりそう書かざるを得ないなにかがあるのでは?「アンチ」でなくとも。
>彼らはすでにレジェンドです。ファン以上にアンチが多いのも特徴ですかね。アンチが健在な限り生き残るでしょう。
私は「アンチ」ではありませんよ。シベリウスは好きです。とくに5番6番とか。「琴線」に触れますよ。




































