女子美の中高大連携授業
中学受験の副作用
何故中学受験組は「大学までの人」になってしまうのか?
米国の論文に掲載される化学現象を発見したのも、お受験私立ではなく、茨城の公立高校の数理科学同好会の生徒たち。
偏差値最高峰の東大理Ⅲからノーベル賞がでたことはないし、でる気配もない。
京大医学部を引っ張っているのは、高校生のときには京大医学部には届かなかったであろう、神戸大卒の山中先生。
医学の世界でのノーベル賞候補はiPS細胞の山中さんや公立高校出身の大阪大学医学部の教授。
東大模試でトップを切る偏差値最高峰軍団は、東大合格後どこに消えてしまうのか?
中学受験組は、大学入試では点がとれるのに、大学合格後鳴かず飛ばずになってしまうのは何故なのか?
仮説①:大学入試で結果がでるのは、フライング(小学校低学年からの勉強)とドーピング(鉄緑等の塾まみれ)によるもので、そもそも大した才能がなかった。
仮説②:小学生の時から点数でのみ評価されてきたため、点数がつかないことには興味を持てない人間に育ってしまった。
仮説③:小学生の時から勉強の目的が受験なので、東大合格とともに勉強する意味を失ってしまった。
仮説④:最初から答えがある問題を解く受け身の受験勉強に慣れてしまい、自分から関心のあるテーマを見つけ、研究するという自発的かつ積極的な学問ができなくなってしまった。
仮説⑤:小学校低学年からの点数や偏差値を目標とした塾通いで、未知に対する知的好奇心という、学者として(人として)大切なものを身につけることなく育ってしまった。
仮説⑥:小学校からの塾通いで、塾がなければ自分で勉強できない人間に育ってしまった。
参考ブログ「天才小学生たちはどこへ消えた?」
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51655722.html
中学受験にのめりこめば、本当に大事なものを失うかもしれない。
中学受験をされるにしても、お子さんが「大学までの人」「受験勉強だけの人」にならないよう、副作用には気をつけましょう。
>詰め込み教育回帰の現状をご覧になってどういうご感想をお持ちですか?
塾の宣伝でお父さんお母さんが使った教科書、お兄さんお姉さんが使った教科書、そして君たちのと・・・・・・・積み上げた高さがまるで違う・・・・・つまり今はこんなにも学校で勉強させないのだから塾でやるしかないんだ・・・・というポスターがありました。
私たちは詰め込み世代ということになるんでしょうが・・・・まるで詰め込みなんて感じませんでしたよ。
時間割が詰まっているという意味なのか生徒がついていけなくてアップアップと文部省や自民党文教族が判断したのか? 中学時代に学校の勉強に追いまくられていた感じはないですね。青空教室なんて言って黒板校庭に持ち出して最初ちょっと授業やってその後は先生主導でゲームのようなことして遊んでました。
登場するなり「皆に歌を教えてやろう」といってすぐに歌の練習を始めた数学教師もいました。
それでもその中学からは地域のトップ高に20人以上入ったですかね。休み時間に鉄棒で大車輪やって見事に落っこちて骨折したのとか、いじめっ子を皆で原っぱで囲んで成敗したりとか・・・・・・カリキュラムが大変なんて一度も思ったことはないんですが・・・・・・・。
高校に進んでも理系も社会全科目やったし文系も数3を除いて物理、化学、生物、地学全科目勉強させられたように記憶していますが。高校なんてそれこそ教師は好きなこと話して半分は雑談なんていう授業もあったし当時はやたら全校集会やクラス討論などあって授業のかなりが潰れました。
そんなこんなでてんやわんやの中でも本を読む雰囲気が学校全体にありました。若者っぽい稚拙な議論も散々しましたが真面目にやってるのはそんな状態でも東大にはいりました。もっとも・・・・・・麻雀に明け暮れ卒業ギリギリなんていうのもいたし恋に身をやつして激やせして登校しなくなった男なんぞもいて・・・・・・。
何を言いたいかというとゆとりだろうと詰め込みだろうとカリキュラムなどは本質的な問題ではなく、子供が自ら色々経験し自分なりに悟る(汝自身を知る)過程を経なければ駄目なのでは? ということです。
中学受験でつっぱしって入学後またすぐに大学受験の準備をする親子がいるそうですが・・・・・・・・・・大事な青春無駄にして~ というきらいは拭えません。
おっと視点さんのスレであることを忘れていました。 詰め込みなんてなかったというのが私の感想です。
中学受験を乗り越え一流大学に進むことが、その人に、裕福で安定した生活を保証し幸福を増大させる(と思われる)ことが、中学受験に肯定的な人が多い理由でしょう。
しかし社会全体を見渡すとき、中学受験をはじめとする受験の現状が、現代社会が直面する困難な課題を解決することのできる、独創的な発想、既成の枠組みをこえる思考力をもった人間を育てるのに理想的な土壌といえるでしょうか?否といわざるをえないと思います。
最近思っていたことなのですが、このスレを見てますます強く感じました。
それは、物事(今回は『中学受験』に関してですが・・)の
①「悪い部分を見て、否定的に考える人」と
②「良い部分を見て、肯定的に考える人」
の2種類いるのだなという事です。
前者は、
「(一部の性格の悪い子供を見て)勉強ができても、性格が悪くなっては困る」とか
「(一部の社会的脱落者を見て)東大出ても、ニートになる奴もいる」とか言います。
私の周りもいますし、このスレの主張もこれですよね。
どうしてこのような考えになるのか、いつも不思議に思います。
どんな母集団でも一定の割合(←これ大事です)で、性格の悪い者、社会に適応できない者等がいます。
全人口で、仮に100人に3人の割合で性格の悪い人がいるならば、勉強ができる人100人の中にも3人位いてもおかしくはありません。
なのに、前者の人たちは、この3人にフォーカスをあてる・・。何故??
一方、後者は、
「(一部の一生懸命勉強し結果を出している人を見て)勉強できる人はかっこいい。一生懸命勉強すれば結果が出るのだな。よし、自分も頑張ろう。」とか
「(一部の社会的成功者を見て)勉強することは、世の中の役に立つのだな。自分もそういう人間になりたいから、頑張ろう。」と考えます。
当然、前者①の考えを持つ子供は、仮に勉強の能力(頭の回転が速い、記憶力が良い等)が有っても、段々努力を怠るようになりますから、学力は伸び悩んでしまうでしょう。
また、周りの友達が前者①の考えを持つ子供たちばっかりだったら、足を引っ張られる形で、段々やる気がなくなり、やはり落ちていくでしょう。
私は、常々「人を育てるのは人」だと考えております。
なので、もし子供を育てたければ、後者②の考えを持つ子供たちの輪に(互いに肯定的に認め合い、互いに切磋琢磨しあえる環境に)入れるのが一番ではないかと思っているのです。
では、その輪はどこにあるのか??
ここからが私のメインの主張なのですが、
「(中学)受験は、前者①の子供と後者②の子供を選り分ける『ふるい』なのではないか」と思うのです。
なぜなら、勉強することに否定的では、3年近くも継続して勉強し続けることはできません。
いくら勉強の能力があっても、継続して勉強ができなければ、結果は出ません。
(中学)受験というのは、一見すると、頭の良い子供を選んでいるように見えますが、実は、肯定的で素直な子供、結果として努力をし続けることができる子供を選んでいるのだと思います。
ですから、小学生時に野原で遊んでいる子供でも、肯定的な子供は将来伸びるでしょうね。
ただ、野原で遊んでいるだけでは、ノーベル賞は取れないと思います・・。
創造的であるために最も重要なことの一つは、先行研究を徹底的に知ることです。
ニュートンの有名な言葉に「自分が遠くを見ることができたのは巨人の肩に乗ったからだ(要約)」というのがありますが、ケプラーやガリレイなどの業績があったからこそのプリンキピアであることを忘れてはならないのでは?
無知は何物も創造しないのです。
研究や創造から遠い人ほど、ひらめきや天才というものをロマンチックにとらえる傾向が見られますが、とりわけ数学についての高度なリテラシー抜きに自然科学系の研究は不可能(一部博物学的要素を持ったものは例外と見なせますが)です。
ノーベル賞が創造的な科学研究の頂点を何ら意味しないということは当然の前提として、日経サイエンスなどで紹介される比較的若い世代の研究者たちの学歴を興味があれば調べてみるとよろしいでしょう。
東大が多いですがそれのみではなく、中高一貫校をはじめとして相当の進学校が並びます。
秀才って、仕事ができるんですよ。




































