女子美の中高大連携授業
私立中学の価値ーゼロ
内容は、私立中学の価値から続く話題です。教育全般です
条件は1つだけ・・「最初から、誰かを、無視する意図がある人を除く」です。
遺伝様
ねーさん、私にはそんな改まった言葉で書かないで下さい。
いつものねーさんのままでいてエエじゃないですか。
いや、、クリエイティブというよりも「なんでもかんでもやってみよう~!」みたいな失敗を恐れないタイプである事は確かですね。
私、勝ったり負けたり、成功したり失敗する事にあまり興味がないんですよ。
負けたって、失敗したって、そこに充実感があって、過程で多くを学べたら、それでよし。です。
ですので、私の心が「やりたい!」って思ったら、その自分の気持ちをぴょーんて実行にうつします。
また、両親もその私の行動に「それは、無理でしょう」的な子供の夢を現実世界に引き込むような事を言わなかったので、ずっと夢見る夢子ちゃんでいられたのかもしれません。
夢見る夢男みたいな、奴でしたが。(笑)
地域、時代さん、
儒教の影響というのは、様々な考えがあるところと思うので、ひとつの考えだと思います。
こう書くと違う意見に見えますが、実質、直接の原因をいうかどうかの部分の気もしています。
ちょっと考えてみようと思います。
以下、ご興味ない方はスルーされてください。
詳細に見直して書いていないので、乱文お許しください。
まず、宗教としてではない儒教は日本でも影響が残っていますね。道徳観というか、それが間接的に影響しているいうことはあると思います。で、その場合、地域、時代S何とわたしの考えで大きな隔たりがあるようには、今のところ、思えないデス。儒教の影響はあると思いますが、戦後の日本では、儒教的な部分は、教科書の知識としても、かなり薄められているので、今の若い世代に、唐代や明治以降で第二次大戦までに浸透した、儒教的なものを期待するのは逆に難しく、むしろ、わたしは家族教育のスタイルの違い、子育てのスタイルの違いの影響の方をどちらかと言えば重視する考え方をしています。「儒教的道徳観」があることと、その影響がなんらかあることは同じ考えです。違っているとすれば、わたしはもっと近い理由を書いているだけなので、「儒教的道徳観や考えの幾分入った家庭の考え方で子育てしている」はわたしはAgreeです。
次に、アジアンの韓国を見ると、かれらは、もっと強い儒教の影響を受けているし、日本では、「漢文」の一部と「道徳」の一部で触れている以外は、あまりやっていない儒教的な教えや、一切やっていないとも言える儒教の宗教としての部分もやっています。彼らは、その影響下で家族主義が強くて、一族の名誉、一族の恥、という考え方がかなり強くあります。
また、中国でも、現代中国の「選択」のドライビングフォースは儒教よりも、もっとつよい国家の意思とそれを踏まえた家庭教育の方向性に根っこを見てもよいのではないかと思います。実際、中国の田舎町で、漢民族でない少数民族のイ族子供でも、本を机上に積み上げて、11時間も勉強させたり、朝早くから夜遅くまで、勉強するのが当たり前、というのは、先進国に追いつくためにはそうしなければならない、と教師が言葉に出して指導している部分と、家庭がそれを「是」としている面があるからと思い、その実際的な点に注目しています。儒教的面が「ある」ことはもとよりですが、左右しているのは、国や地域社会など周囲の考え方あるいは、家庭の教育の考え方が「選択」に及ぼす影響力と思います。
科挙の試験に合格すると、家族は幟を村の目抜き通りにたてて、名前入りで顕彰します。個人というよりもそのファミリーの戦いの側面も強い、と思います。これは儒教的か、といわれると、わたしにはわかりませんが、もっと単純に考えても良い気がしていて、根っこは「家族単位の価値観のベース」でその表れといってもイイかな、と考えています。
ちょっと面白い例は、わたしの周りのアメリカ人で母親が中国系で、旦那がWASPのアメリカ人で、二人とも宗教はバリバリのクリスチャンがいますが、子育てはアジア的です。奥さんが躾・教育を仕切ってやっているからだと思います。別の例だと、ユダヤ人の起源の友人はかれらも家族的な教育を設計しているので、とても気が合います、がアジア的。そうなると「選択」の考え方はアジア的だろうと想像します。(コの部分、「選択」については、本当はアジア的、かどうかは切り口に過ぎないので、このような筋でも、調査してほしいな、と考えてます。わたしのような考えを言った生徒は、アイエンガーさんの授業の中ではいませんでしたけれど。)
これらの例だけで、結論を出すという意味では勿論なく、思いつく例をみた程度です。
都合の良すぎる例をあげているかもしれないですが、ちょっと思い出しています。
その考え方をしているもう一つの理由は、道徳的な部分だけなら、アメリカは他民族国家なので、それぞれ宗教的な部分は違いますが、アングロサクソンのアメリカ人も、冒険期(*)、建国期あるいはその後の西部開拓の時代、国の資本主義的な発展の歴史的な時代の中で、道徳的な面も、強く持っていると思います。もちろん儒教ではないですけれども。未だにプロテスタントのキリスト教は支配的で、その他の宗教もありますが、「道徳観」は、すくなくとも同じようにありますし、家族を大事にする風はあると思うのですね。でも、議論している、日々の「選択」のスタイル、ひいては基本の考え方は、アジア系とアメリカ人とは違っている。これが、家庭教育からくると見るのも、あながち外れていないと思っています。(***)
ところで、「選択」はアイエンガー教授の話で切り口として際立っています。「ことなる文化にオープンになり、多様な文化を「受容」する」考え方のポイントを、授業の中で「選択」という行為に注目することで、一貫して示しています。この部分や授業全体の構成そのものは、むしろ、シーク教徒の家庭に育った氏の思想や経験殻から来ると言うよりも、カナダで生まれてアメリカの現実の社会にふれて、アメリカナイズされたことで、勝ち取られたアメリカ人的な部分もバランスとしては入った総体、ではないかな、とわたしは感じました。
(特に、第2回白熱講義の講義は、HDD録画を念のために2回見ましたが、そうではないかと2回目に見たときに強く感じました。)
かなり雑駁な書きぶりになってすみませんですが。。。
(*)Wiki「アメリカ合衆国の現代キリスト教」
(**)
アメリカは、1607年のスーザン・コンスタンツ号はじめ、有名なメイフラワー号(1620年)から始まって、WASPの世界で、時代と共に、当初ほどピュアな宗教意識は持ち得ずに、希薄になっているとは思いますが、プロテスタントのキリスト教の考えを信じている方々中心だと思います。
(***) ここまで考えてくると、わたしは、過程の躾や、教育といった一見、幼児記のひとこまのようなものが、実質的に、ここで切り出された「選択」の仕方の違いなどに背泳することで、「生きる力」にも実に影響することがあるという筋、に惹きつけられます。これは、ある意味で教育の重要さを示すものであるし、可能性だとも思います。日本では「三つ子の魂百までも」と言いますが、その部分、ということは、根っこを何にもとめるかに関わらず、教育野絡みで、確実に「ある」と思います。
戦後の日本では、儒教的な部分は、教科書の知識としても、かなり薄められているので、今の若い世代に、唐代や明治以降で第二次大戦までに浸透した、儒教的なものを期待するのは逆に難しく、むしろ、わたしは家族教育のスタイルの違い、子育てのスタイルの違いの影響の方をどちらかと言えば重視する考え方をしています。
↑
量的様
理解しておりますよ。
ですので、量的様との「生きる力とは?」との問いかけに、それが量的様のお題でなければ、私はあのような書き方はせず、根っこの部分で強い精神性に重きをおいた→いつも私が書くであろう「心」を中心とした事を書いたと思います。
地域、時代さん、
ただし、義父は関西人なんですよ。かなり筋金入りの。
そのこどもが全員熱烈なる阪神ファンで、うちの子も気がついたら。。
あのノリは、ものすごい ですよね。
しかしキャラは少々違います。(笑)
↑
私への愛の告白かと思ったのに、(笑、これまた、冗談ですよ。)
了解です。理解ができます。
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理解しておりますよ。
ですので、「生きる力とは?」との問いかけに、それが量的様のお題でなければ、私はあのような書き方はせず、根っこの部分で強い精神性に重きをおいた→いつも私が書くであろう「心」を中心とした事を書いたと思います。
量的様
おっしゃる事、すごく良く理解出来ます。
同じ目線です。
たぶん、私は人に「言葉」「文字」を介さずに「これっす」ってぽーんと表現を見せてそれ+本質だけを伝える、という職業環境で過ごしてきたのですね。
ですので、私の意見の述べ方が下手なんだと思います。
その部分ご理解下さい。
また、量的様が私の書いている文章に?と感じたら、どんどん質問して下さい。
その都度、私なりに一生懸命書かせて頂きます。
よろしくお願いいたします。




































