在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
子育て、受験、大学、教育その他の井戸端会議
私学の価値の両スレッドが機能不全に陥っていますので・・・・・のんびり何かを語る井戸端会議の場所を作りました。
体罰問題は「私学の価値ゼロ」で煮詰まったやり取りをしていますのでそちらでお願いします。
たらようさん、公立一貫さんに・・・・最近の鴨たちの様子について
冬鳥は全部そろいました。強風でさざ波が立つ中で元気に追いかけっこしています。川沿いにシラサギとアオサギの来る場所があるのですが・・・・・・周りに鴨も沢山来ますので餌の多い場所なんでしょう。
先日シラサギが小魚を捕まえる瞬間を見ました。早業で剣豪の一閃と言う感じです。
水面すれすれにシラサギのつがい?が飛んでいくのは実に優雅で見とれてしまいます。
そうそう、話題の映画「レ・ミゼラブル」見ました。外国文学は縁遠いので概略しか知りませんでしたが・・・・・泣かせる場面、感動の場面が沢山ありました。
娘(実は預かった子)の恋人が革命戦争の決戦前夜に・・・・・眠っている姿を見ながらジャン・バルジャンが歌うところなど娘を持つ父親ならぐっとくるところです。
そうか?・・・・・公立一貫さん同志社で合唱やってましたよね。釈迦に説法でした。歌も素晴らしいです。もっとも音楽万年2~3の私の耳ですが。ラッセル・クロウがあれだけ歌えるとは知りませんでした。
もしご覧になっていたら感想などお聞かせ下さい。
海外での教養のあり方を理解することは重要と思いますが、日本人にとっての教養とは何か、それを規定する文化とは何かを捉えることも同等に、あるいは更に重要だと思います。特に、明治以降の教養=海外文化、知識の受容以外に日本には何があるのか。国学を学び直そうと思っています。
教養っていうのは性格をかたちづくるものだと思うな。
だから教養のある人っていうのは性格の良い人ということだね。
向上心があり、正直で協調性もあり、丁寧で緻密かつ労力を厭わず、労わりの気持ちもあって、好奇心も旺盛なんだけれども、失敗を犯すと顔をゆがめる若者がいるとしたら、彼(彼女)に必要なことはモノに動じない心を養うことかな。
それを養うべく何かをすればいいよね。
それが彼(彼女)にとって必要な教養と言えるんじゃないかな。
良い性格があれば知識やスキルはおのずと身につくんだろうし。
>教養っていうのは性格をかたちづくるものだと思うな。
そうですね。
私は人間の「大きさ」を造るための栄養素だとも思います。
本当に教養のある人は、些細なことでは怒ったりしません。
どんな相手であっても丁寧に接してくれます。
そう言った意味で、自分を誇示することも人を見下すこともしないでしょう。
短気は損気。
お気をつけて!
そう考えるとね教養学や教養学部とか教養課程っていうのは違う意味合いのよな気がするわけよ。
あえて枠づけするようなものなのかどうか。
リベラルアーツっていうのもそういう型にはめこむ点では一緒かな。
だから海外も国内も関係無いんじゃないだろうか。
品ともまた違うよね。
勇猛果敢に挑戦する態度は品が良いとはいわないからね。
そういえば国家の品格ってあったけど
日本が正解から求められているのは品格じゃなくて国家の良い性格なのかもね。
切り開く、協調する、動じない国家かな。
人があっての国なわけだから
何はさておき若者の良い性格を形成することがだいじなのかもしれないね。
適性さん、
ゼロスレでの、皆様の「教養とは...」の話題の要約のご紹介、ありがとうございます。
私はというと、その一句が思い浮かばず、脳がオーバーヒートして汗かいた気分になりました。
そこで、順につらつらと自分の今の考えを書き出してみます。
まず、私がここで対象とするのは、社会との接続を考えた大学での教養についてです。
下図のように3軸により事象分けをしてみます。
X-Y軸面は、教養の元になる知識の種類の量を表します。
X軸は、大学で学ぶ基礎科目知識、Y軸は、家庭で身に着けるたしなみ・趣味
Z軸は、教養知識の社会との係りの意識の大小
幅があるので正確さには目をつむり、関係性に注目します。
(Z:教養の社会との係り大)
|.....(Y:たしなみ・趣味)
|...../
|..../ x 世襲的上流
|.../ x 市民エリート
|../
|./ x 文芸人
|/______________(X:大学基礎知識)
|
| x 専門家(専門知識偏重、たしなみ・趣味に興味なし)
|
| x 下流(大衆趣味)
|
(Z:教養の社会との係り小:個人的)
大学入学式式辞での教養の話から、実業の社会が大学生に求めているのは、教養の力を社会活動に取り込み価値を生み出すことにあるようです。その典型的な目標が、市民エリートを目指すことにあります。
私は、その市民エリートになるための教養について、次のように解釈しました。
1)さまざまな知識を有機的に関連づけ、全体として構造化し、テーマに対していつでも動員して関連性を見い出し筋道を立てて考察出来る状態にまで高める。(知識を関連付けてマッピングし、テーマに対してキーワードを直感的に連想して活用出来る能力の獲得)
2)自分の意思で、社会のさまざまなできごとや、自然の多様な現象に注意深く視線を注ぎ、それらと真剣に対峙し、こちらから能動的に働きかけ、自明と思われていることに疑問符をつけ、みずからそれを「問い」として構成するのでないかぎり、それはけっして「問い」として立ちあがってはこないでしょう。これからの人生で直面するであろう問題の多くがあらかじめ決まった答えが用意されているわけではない「正解のない問い」である。こうして「問い」を立ちあがらせるためには、教養が必要。(社会活動で価値を生むために教養を活用)
3) 人的つながりの少ない海外でグローバル人脈を築く際に、階層の高い相手の「承認」を得るためには、その階層が共有するレベルの教養を有することを示すことが有効である。(実社会には目には見えない差異と階級があることを認めて、教養・趣味と階級の相関の活用)
昔から現在社会に至るま迄、教養の捉え方にはいくつかの主張があるようですが、実社会との接続を意識した大学という場においては、教養の捉え方の重心が変わりつつあるというのが私の印象です。それで、個人が豊かな心で満たされ、充実した社会生活を送れて、健全なモラルを守って社会にも貢献するのであれば、そういう教養教育も良しと考えます。
- 教養のベースとして、家庭で獲得するたしなみや趣味より、学校で学ぶ一般・基礎教科の知識を積み重ねることを重視
- 個人的に豊かに生きるための教養 から 人とのつながりを結ぶ教養 そして、実社会で価値を生む実用としての教養へ
かような認識ですが、本人も社会もHappyであれば線引きはどこでもよく、上記は、あくまでも上昇志向の市民エリートとを目指す学生を対象にした考えです。う~ん、いまひとつですが、今日はここまでとします。
2)自分の意思で、社会のさまざまなできごとや、自然の多様な現象に注意深く視線を注ぎ、それらと真剣に対峙し、こちらから能動的に働きかけ、自明と思われていることに疑問符をつけ、みずからそれを「問い」として構成するのでないかぎり、それはけっして「問い」として立ちあがってはこないでしょう。これからの人生で直面するであろう問題の多くがあらかじめ決まった答えが用意されているわけではない「正解のない問い」である。こうして「問い」を立ちあがらせるためには、教養が必要。(社会活動で価値を生むために教養を活用)
全くそのとおりだと思います。
ただ、今の世の中、教育に対して関心を持ちすぎる親が多くなっているがゆえに、子ども自身の意思というものがなかなか育まれない、あるいは抑え込まれてしまっているような気がしてなりません。
このエデュのように素人親があたかも全てを知る教育評論家であるかのように教育を語るシーンが多いことがその証拠です。
小学生の子どもをつかまえて「うちの子は思考が理系ですから」と言い放つ親。
偏差値に振り回される親。
「損得」で学校や職業を語る親。
その学校に通う人間、その職業につく人間をひとくくりにして子どもの行く末を見定める親。
友達、趣味、スポーツ・・・全てのことを進学・就職に結びつけて考える親。
教育とはこうあるべきだ!子どもはこう育てなきゃいけない!という観念に取りつかれた親が、口ではどう言おうが子どもの意思に影響を与えていることは間違いないのではないでしょうか?
子どもの教育に関心を持ち、口を出さざるを得ない世情であることもわかりますが、果たしてこのままで良いのでしょうか?
自分の子には、自分の足で立ち、自分の足で歩んで行って欲しいと思うのであれば、子どもが「自分の意思を育む」邪魔を親がしてはならないのだと思います。
手助けしているつもりが、実は抑えつけ、邪魔をしていることになっているかもしれません。
なんとかレールを敷いてあげたい気持ちもわかりますが、子どもの意思がどこにあるのかも考えてあげなければいけないのでしょう。
とは言え、もちろん私もそんな子育ては出来ていません。
ですが、難しいことでありますが、気をつけたいとは考えています。
それから、これはあくまで私の考えにすぎませんので誰に押し付けようとも思ってはいません。
あしからず。




































