在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
子育て、受験、大学、教育その他の井戸端会議
私学の価値の両スレッドが機能不全に陥っていますので・・・・・のんびり何かを語る井戸端会議の場所を作りました。
体罰問題は「私学の価値ゼロ」で煮詰まったやり取りをしていますのでそちらでお願いします。
たらようさん、公立一貫さんに・・・・最近の鴨たちの様子について
冬鳥は全部そろいました。強風でさざ波が立つ中で元気に追いかけっこしています。川沿いにシラサギとアオサギの来る場所があるのですが・・・・・・周りに鴨も沢山来ますので餌の多い場所なんでしょう。
先日シラサギが小魚を捕まえる瞬間を見ました。早業で剣豪の一閃と言う感じです。
水面すれすれにシラサギのつがい?が飛んでいくのは実に優雅で見とれてしまいます。
そうそう、話題の映画「レ・ミゼラブル」見ました。外国文学は縁遠いので概略しか知りませんでしたが・・・・・泣かせる場面、感動の場面が沢山ありました。
娘(実は預かった子)の恋人が革命戦争の決戦前夜に・・・・・眠っている姿を見ながらジャン・バルジャンが歌うところなど娘を持つ父親ならぐっとくるところです。
そうか?・・・・・公立一貫さん同志社で合唱やってましたよね。釈迦に説法でした。歌も素晴らしいです。もっとも音楽万年2~3の私の耳ですが。ラッセル・クロウがあれだけ歌えるとは知りませんでした。
もしご覧になっていたら感想などお聞かせ下さい。
■離陸さん
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適性さん、
ゼロスレでの、皆様の「教養とは...」の話題の要約のご紹介、ありがとうございます。
私はというと、その一句が思い浮かばず、脳がオーバーヒートして汗かいた気分になりました。
そこで、順につらつらと自分の今の考えを書き出してみます。
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いえいえ、逆に混乱させてしまいました?
わざわざ、図まで・・ありがとうございます。
こちらこそ、また、離陸さんの分析を十分、咀嚼できていません。(笑)
「教養の社会との係り大小」ですか・・・そういう見方ありますね。
また、いろいろ考えてみます。
離陸さん
>教養のベースとして、家庭で獲得するたしなみや趣味より、学校で学ぶ一般・基礎教科の知識を積み重ねることを重視
私も石井洋二郎の式辞はそう読みましたが、彼の言葉としては正直なところ違和感がありました。彼が研究の対象としてきたフランス思想においては、教養とは基本的に家庭で(世襲的に)獲得されるたしなみ、趣味であり、ブルデューも、それが社会的、経済的価値を産むことは認めていますが、学びによって獲得することはできない(それゆえ階級社会化する)ものである、と考えていると思います。
ましてや、近年の研究対象であったロートレアモンを中心とするフランス文学、及び彼自身の心情が正直に語られていると思う告白的読書論の考える教養は、知、社会的価値を解体する方向であり(告白的読書論の「引き算の教養」)、彼が後者のようなアメリカナイズされた教養観に(言葉は悪いですが)擦り寄るとは思っていませんでした。考えてみれば東大教養学部長としては学びによって獲得できないものを教養とは言いにくいのかもしれませんが、どうしても、今年の式辞には立場上仕方なく語ったようなぎこちなさを感じてなりません。
私にとっては教養とは、人は社会的価値のみによって幸福を得られるものではない、という文脈で捉えるべきもの、簡単に言えば、お金持ちでもたしなみも、趣味もないのでは人として空しいという意味で成立するものであり、アメリカ的な教養は教養という名の知識に過ぎないと感じます。
>人的つながりの少ない海外でグローバル人脈を築く際に、階層の高い相手の「承認」を得るためには、その階層が共有するレベルの教養を有することを示すことが有効
という(アメリカナイズされた)教養を肯定するためには、社会的価値、最終的には金銭金銭、こそが人を幸福にすると考えを承認する必要があるように思います。そういう考えもあるのでしょうが、少なくとも
>個人的に豊かに生きるための教養 から 人とのつながりを結ぶ教養 そして、実社会で価値を生む実用としての教養へ
というような発展段階的な捉え方をするべきではなく、別ものだと思います(私論です)。
また、実用としての教養を考えるカギを石井の著作に求めるのは難しいと思います。
教養さん
私の場合は、大学入学式で石井教養部長の式辞を聴き、腑に落ちるところがあったので、その後、教養教育を少し深堀りして考えるために、石井先生の著書やプルデュー訳書の一部を読んでみた次第です。
私が感じたのは、教養さんの感想とは逆でして、
告白的読書論での若かりし頃の読書体験から
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プルデューがディスタンクシオンで明らかにした、差異が実体化し差別を生み出す社会の知の体系に対する批判的態度を、日本社会をむしばむ問題=病(学歴による差別)の治癒を目指すという思想的な営み=手術をする意思として同調して考えを持ち、(注)1993年前の著書から引用)
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そして今、大学教養部長として、現在の社会背景と大学の関係を分析したうえで教養部として今、何を目標とするかを分析的に考察した
という、一連の流れ(つながり)を感じました。思想を、社会環境の変化の中で本質を捉えて発展的に思考を重ね、より洗練された形へと磨くことを試みている、というのが印象です。それが、個人的たしなみから、人とのつながりへ、社会への貢献へ、という教養の使い方の拡がりへの解釈です。
そういう意味で、現代のグロバール社会においては、過去日本社会でまかり通っていた卒業大学の学歴は通用せず、未知の社会を自分の力で分析して問いを立て、世界の未知の集団の中で人脈を作り、分析的に考察して集団の中で課題を解くことが求められ、それには、専門と教養が行動を前に進める両輪となるという考え、入学した学生はゼロベースから自分の力を磨くことで新しい道が開ける、というう考えに同感しています。
私の個人的な趣味のひとつは絵画鑑賞で、ピカソ、マティス、モンドリアン、ゴッホらが若かりし頃の写生的で基本的作風を、環境を変えながら自らの感性を作品に強く投影し実験的に作風を変えて、その作業を繰り返して最終的な独自の作風に至る一連の過程を観て、作者の変遷を感じるのが楽しみです。ここでの私の感想は、それと同じようなものです。
ブルデューは、サルトルの主観主義とレヴィ・ストロースの構造主義の二項対立の関係を超越しょうとしたとのことですが、
階級社会、文化資本、学歴、これらを構造的にとらえて、その源となるハビトゥスを、ブルデューは肯定的に考えていたのでしょうか?それとも否定的にとらえていたのでしょうか?
ブルデューの反グローバリゼーションの立場は、階級社会、文化資本を肯定的に考えていた証左ではないのでしょうか。だとすれば、ブルデューから市民エリートという展開は難しいのではないでしょうか。
ブルデューは、階級社会・差別化社会を否定的に捉え、批判する意図を持っていたことは明らかだと思います(質問さんへのお答え)。しかし、仕事の中ではそれを変革する戦略は論じ得なかった。そのまま市民運動参加となったわけです。ここが学者としては破綻している、信用ならないと捉えています。
教養については、離陸さんの言葉を借りれば、個人のたしなみから、人との繋がり、社会への貢献と、連続的・進化的に変化することはなく、転換の戦略が必要だと思いますが、その手がかりはブルデューにはない。
石井も、ブルデューからロートレアモンに至る研究の中で、学歴による差別を変革する戦略は示していない(私の知る限り)。それで今回の式辞のようなことを言われても、一般人の言動ならともかく、学者としてはどうなのか。言葉は悪いですが、信用できない思いです。
離陸さんの考えに反対するつもりはなく、それを実践するヒントをブルデュー、石井に求めるのは無理だろうということを申し上げたかったので、これにて一旦終わらせていただきます。
質問さん、
ブルデューの研究成果である、ニュートラルな差異が差別の定着化という社会現象を生み出しているという観察からの客観的社会概念であるのに対して、ブルデューが晩年に力を注いだ反グローバリゼーション運動は、グローバル化により益々不利益を被る社会的弱者の救済に寄り添った思想であるということを区別して捉える必要があります。
社会においては、差異化の中で異なる価値観、階層間の異なる行為者同士の闘争がダイナミックに繰り広げられている。(*)
しかし、この運動がやがて静まり、価値体系が制度的に固定化して規定の階層も固定化すると、差別と呼ばれる社会現象が生じる。(**)
ブルデューの反グローバリゼーション運動は、(**)の社会現象での弱者に寄り添った思想であり、一方、
今、スレで話しをしている教養のグローバル社会への利用は、(*)のダイナミックな運動を大学教育で学ぶ文化遺産を活用して活性化する行為であって、そこで身に付けた知(=教養と専門)が社会の階層の固定化を防ぐ力に成り得るという考えです。つまり、このふたつは、同じ社会観に基づいて、異なる位相から展開された考えであり、別に矛盾も無理もないということが分かって頂けると思います。




































