女子美の中高大連携授業
子育て、受験、大学、教育その他の井戸端会議
私学の価値の両スレッドが機能不全に陥っていますので・・・・・のんびり何かを語る井戸端会議の場所を作りました。
体罰問題は「私学の価値ゼロ」で煮詰まったやり取りをしていますのでそちらでお願いします。
たらようさん、公立一貫さんに・・・・最近の鴨たちの様子について
冬鳥は全部そろいました。強風でさざ波が立つ中で元気に追いかけっこしています。川沿いにシラサギとアオサギの来る場所があるのですが・・・・・・周りに鴨も沢山来ますので餌の多い場所なんでしょう。
先日シラサギが小魚を捕まえる瞬間を見ました。早業で剣豪の一閃と言う感じです。
水面すれすれにシラサギのつがい?が飛んでいくのは実に優雅で見とれてしまいます。
そうそう、話題の映画「レ・ミゼラブル」見ました。外国文学は縁遠いので概略しか知りませんでしたが・・・・・泣かせる場面、感動の場面が沢山ありました。
娘(実は預かった子)の恋人が革命戦争の決戦前夜に・・・・・眠っている姿を見ながらジャン・バルジャンが歌うところなど娘を持つ父親ならぐっとくるところです。
そうか?・・・・・公立一貫さん同志社で合唱やってましたよね。釈迦に説法でした。歌も素晴らしいです。もっとも音楽万年2~3の私の耳ですが。ラッセル・クロウがあれだけ歌えるとは知りませんでした。
もしご覧になっていたら感想などお聞かせ下さい。
>大学教育が、問題点を抱えながらも、いまだ教育システムを維持し、教育を通じて人材を社会に輩出し続け、社会との接続を意識した変革を模索している以上、大学での教育を最大限に利用・享受し、多くの教養に溢れ、また専門を極めた教授陣達、知識人の講義やゼミを通じ、彼らとの質問や対話を通じ自分の学びを深化し、それと同時に、社会や専門領域への問い(=イシュー)を立てて、思考を繰り返し論理的に自分の考えを構築していく訓練を通じて、己の知力を向上するという正攻法が、社会で通用する基本的な能力を培う効果が高いと言えます。
論文の書き方とかロジカルまたはシナリオシンキングといった思考法は、教科で学んだ知識と同様に知全体のピースであり、幅広い知識や思考法などの手法を駆使して、興味や関心を持ち続けて注意深い観察と思考から問いを立てて、その問いの周辺に自分の知識のマッピングを重ねて相関性を見出し、それらのネットワークを拠り所にして思考を展開し、自分の考えを論理的にまとめることをはっきりと認識する、という大学生が指導教官の下で行う研究の場で時間をかけて集中し成果を出すことが、いわゆる身体化された知の力を育むことになるのでしょう。
上記の思考の芯の太さが、将来の差になるように思えます。
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離陸さんのこの考えに同感やな。わてはこない格好よう長う書けんけど要は「知の力を育む」マニュアル
なんてあらへんちゅうことやね。
ロジカルシンキングとかプレゼンテイションとか流行のフェルミなんとかとか、そないなもん「ばかり」
訓練しても「知的」にはなれんちゅうこっちゃ。こないなこと昔から言われとるわいな。皆忘れとるだけ。
>学校以外でも議論好きの子供を空気で圧殺しないような大人の配慮、意識転換
これが重要なのだと思います。正直、私がいた頃の日本の小中高校では、授業中積極的に発言する子には後ろ指さすような文化がありました。学校で議論を戦わせるのではなく、コソコソ家で勉強してペーパーテストで点を取る。そういう文化をどう変えていくのか。
>「長話をするな」
>「自慢するな」
>「責任から逃げるな」
先に書いたように、私の「実感」としては、論理的思考力は(優秀な)日本人は全く劣っていない、自分の中でもう一つの自分に語り掛けることはできている、しかし、それを外に打ち出していくことができない、自分の中で石橋を叩きすぎて壊してしまう、その原因には日本の謙譲の美徳と恥の文化がある、と思います。
日本の美徳がグローバル社会の不利となった時に、これを変えていくべきなのかどうか、よく議論が必要でしょう。
>しかし、日本人が議論できない背景には、和を以って貴しと為すの意識的・無意識的な曲解や、ムラ社会、恥の文化、空気読めない、等の非常に日本的な文化が日本人を縛っている困難な状況があって、
私は、この言葉が一番共感できましたね。
ただ、「空気読めない」はちょっと違って「空気読み過ぎ」だと思いますし、加えて言うなら、外面ばかりよくて実は「内弁慶」の人が多いという面も感じますね。
これらの日本人の特性は、日本人からすれば良い面であるとも言えるのでしょうが、外国人から見たら何故もっと外に向かって自分を主張しない?という疑問に繋がってしまうのも当然なのかなと思います。
>もしかしたら、日本人は欧米とは違うやり方で、彼らと議論が戦わせられるベースを持っているのかもしれません。
だって、日本人は欧米人(アングロサクソン)とは体のつくりばかりでなく、脳の構造、思考回路がそもそも違っているのでしょうから、彼らと同じ土俵に立って同じルールで戦うことを考えたのでは、そこに勝ち目はないのでしょう。
そう言った意味から、グローバル人材を育てることは大いに結構だと思いますが、日本人を欧米人にすることはないと私は思っています。
日本人の特性を生かしながら世界で戦える人材を是非育てていただきたいものです。
スポーツの世界においては体格に勝る外国人に勝つためには瞬発力や細かで素早い動きを磨くことが必要だと言われることがあるようですが、経済においても政治(外交)・行政においても世界と互角に戦うための「日本流」がきっとあるのだと私は思います。
その為には、これからを担う子ども達に対する教育のみならず、我われ育てる側の大人の意識改革も必要なのでしょう。
「ガラパゴス」などと揶揄されてしまう内向きな日本の産業。
こう言った状況を打破し、グローバル人材が活躍し得る社会を構築していかなければ、教育にかけたお金がまた無駄金、死に金になってしまうのでしょう。
そんな余裕はもはや日本にはないはずです。
日本には決断が迫られているということも認識しておかねばならないでしょう。
ということで、英語教育に固執したり、手前味噌の話をするばかりではなく、もっと大きな視点で日本の行く末を議論すべきじゃないかと思ったりもするのですが、
ただ、ここで話をしていても、ただの自己満足にしかならないということもわかってますから、、、(^^;
>君の考え、知識は、議論の中で了解を得られることができなければ、役に立たないだけではなく、そもそも真理ではない
このことを実体験から気づけるような青年期を送れるといいんだろうね。
今このスレで取り上げられている議論は交渉の場面などを想定しての話なんだろうから、一定の方向性が導かれない議論は役に立たない、ということも言えるのかな。議論が実を結ぶかどうかの分かれ目は、どうだろう、知やスキルにではなく議論する人間のマインドに拠るんではないかな? 知の了解を与えられるかどうかもマインドに拠る場面が多々あるような気がする。
グローバルな議論の場というのは、ヴァリエが豊富なので、
どこを想定していいのかいまひとつわからないのですが、
私も技術の前に、マインドかと思います。
「目的の欠如」と「均質性」が、日本人を議論下手にしている大きな要因かと。
基本的に、キリスト教がベースとなっている国では、
この世に自分が存在するのは、自分の持っている力を発見し、磨き、
世の中に還元するため。
もって生まれた能力に応じ、大きな貢献、小さな貢献、なんでもいいから、
誰かの役に立つことをしていかなくては、と考えます。
つまり勉強をするのは、世の中に貢献するための力を見つけ、磨くため。
勉強でもスポーツでも、なにかひとつでもできるのは素晴らしいこと。
という大前提が、まず叩き込まれています。
そして、自分もその他の人も無二の存在で、考え方も何もかも違っている。
なので感じたことを主張しなければ、伝えなければ、誰にも理解してもらえない。
必要としてもらえない。愛してもらえない。ここに存在する意味がない…。
となり、自分の思考をまとめる技術、それを伝える技術を身につける訓練を、
学校はもちろん日常生活でしていくわけです。幼少期からずっと。
(親の無償の愛は別枠)
我々が住むこの国は、ほとんど単一民族で、階層なんてあってないようなものだし、
世界基準でみれば、まだまだ一億3千万総中流。
幸か不幸か主張しなくても察してもらえる、
ぬくぬくと心地よいぬるま湯に、私たちはどっぷり浸かっている。
しかも違っていることは村八分につながり、出る杭は打たれるという
真逆の文化があったりする…。なんて分が悪い!
そのへんのマインドは180度転換する必要はないと思いますが、
外人仕様と日本人仕様に使い分けられないと、
いくら技術を磨いても、どうにも厳しい予感がします。
>この世に自分が存在するのは、自分の持っている力を発見し、磨き、世の中に還元するため。もって生まれた能力に応じ、大きな貢献、小さな貢献、なんでもいいから、誰かの役に立つことをしていかなくては、と考えます。つまり勉強をするのは、世の中に貢献するための力を見つけ、磨くため。勉強でもスポーツでも、なにかひとつでもできるのは素晴らしいこと。という大前提が、まず叩き込まれています。
大前提から入る。確かに日本には無いね。
>そして、自分もその他の人も無二の存在で、考え方も何もかも違っている。なので感じたことを主張しなければ、伝えなければ、誰にも理解してもらえない。必要としてもらえない。愛してもらえない。ここに存在する意味がない…。
強烈なマインドの誕生か。
>となり、自分の思考をまとめる技術、それを伝える技術を身につける訓練を、学校はもちろん日常生活でしていくわけです。幼少期からずっと。
だから板につくわけね。
納得。
さて、そういう方たちとの交渉で結果を出すための戦略(論点:議論)として、
>小中高の授業、学活等で、議論の能力をどれだけ伸ばせるかということが重点になると思います。
「外人さんたちにはあって自分たちには無いマインド」があることを先ず徹底して叩き込んで、
それを克服しなきゃどうにもならない・・という強烈なマインドが生まれれば、
どうだろう、いけるんじゃない。
私が提起したのに、充分な時間が取れず申し訳ありません。
マインドの問題、重要であることは間違いないのですが、それで日本人が議論の能力を欠いている現状に教育という 場で対処する処方箋を書くのは難しいように思います。
遺伝さんが言われたキリスト教的(おそらくプロテスタント的)マインドセットは、理解はできるのですが、むしろ私の実感としては、欧米人は全力を傾けて、他人の存在そのものを否定しても、自分の意見を通そうとする面が強い。ただし、相手もそういう存在であることは認め、それゆえ、議論を真剣勝負の場とし、それを有意義にしようとするという印象を持っています。こういうマインドを日本人が持ち得るか。おそらく無理でしょう。それがいいとも思えません。
私は、日本人が議論を苦手とするのは、議論することそのものが、自分本来とは違うもの、板に付かないもの、と感じてしまうことに起因しており、それは議論においては、感情をひたすら抑えて理性的に振舞わなければならないという強迫観念、及び、日本人の中では議論好きは賢しらな奴として嫌われるという点にそもそもの原因があるように感じます。後者は社会的な問題ですが、前者は個人の、マインドというより、感情を議論に繋げる技術の習得によってかなり変えることが可能だと感じています。
この点について、多く説明する時間的余裕がありませんが、さしあたり、以下リンクのアサーティブについてご参照願えればと思います。
http://www.ls.kagoshima-u.ac.jp/ronshu/ronshu1/66/v41n1ishikawa[削除しました]




































