在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
子育て、受験、大学、教育その他の井戸端会議
私学の価値の両スレッドが機能不全に陥っていますので・・・・・のんびり何かを語る井戸端会議の場所を作りました。
体罰問題は「私学の価値ゼロ」で煮詰まったやり取りをしていますのでそちらでお願いします。
たらようさん、公立一貫さんに・・・・最近の鴨たちの様子について
冬鳥は全部そろいました。強風でさざ波が立つ中で元気に追いかけっこしています。川沿いにシラサギとアオサギの来る場所があるのですが・・・・・・周りに鴨も沢山来ますので餌の多い場所なんでしょう。
先日シラサギが小魚を捕まえる瞬間を見ました。早業で剣豪の一閃と言う感じです。
水面すれすれにシラサギのつがい?が飛んでいくのは実に優雅で見とれてしまいます。
そうそう、話題の映画「レ・ミゼラブル」見ました。外国文学は縁遠いので概略しか知りませんでしたが・・・・・泣かせる場面、感動の場面が沢山ありました。
娘(実は預かった子)の恋人が革命戦争の決戦前夜に・・・・・眠っている姿を見ながらジャン・バルジャンが歌うところなど娘を持つ父親ならぐっとくるところです。
そうか?・・・・・公立一貫さん同志社で合唱やってましたよね。釈迦に説法でした。歌も素晴らしいです。もっとも音楽万年2~3の私の耳ですが。ラッセル・クロウがあれだけ歌えるとは知りませんでした。
もしご覧になっていたら感想などお聞かせ下さい。
>如何に伝えるかが重要だということに気付いていく
「気づいていく」
痺れる表現。
そのためには、いちにもににも議論をくりかえしてめいいっぱい失敗を重ねることが何より栄養になるんだろうね。
それを見越して、
>母国語の授業スタイルをかえれば議論の能力は高まるのではないでしょうか。 20人ぐらいの少人数クラスで、円陣を組んでディスカッション方式で学んでいく。 授業の隅で静かに・・・という生徒が一人もいないようにする。
という方法が望まれるっていうのは大賛成。
そういえば呼称は忘れたけど学級会だかクラス会だかで昔結構活発にみんなで話し合った。
時にはどうーでもいい単なる話し合いで好き勝手言ってなんも結論がでなかったりもする時間だったけど、何もしないよりははるかにましで、まーそれなりに会話は楽しいなっていう記憶も残ってる。
それを実践レベルの議論の域に昇格?せしめるのが、2988937なのかもね。
プーさん
直ちに喰いついてこない生徒はいましたがさほど多くはなく、最後は殆ど全員が議論を交わすようになっていきました。その過程で大きな役割を果たしたのは教師と、生徒の中のオピニオンリーダー的な連中。教師は異なる方向性を持つ生徒が一度は自分の意見が持てるよう、色々な角度から、しかし自分の存在を見直す方向はブラさずに、論題を投げかけていく。教師の狙いが分かりかけて来たオピニオンリーダーたちは、自らは教師を乗り越えることを志向しながら、他者を議論に巻き込んでいくことの面白さにも目覚めて、当時の言葉で言えばオルグしていく(学生運動じゃないですが)。そんな感じでした。
おっしゃる通り、ごく自然なことだし、何歳からでもできそうでいて、実は大人もこれが出来ていない。調べてきたことを得意満面発表することが議論だと思い、鼻をくじかれると感情的になり、揚げ足取りに終始するか、議論から身を引いてしまうか。いずれにしても、各自が本当に言いたいことをぶつけ合い、少しでも良い方向に進めるよう一緒に考えていく場を形成する力=議論の能力がない。これを変えていくにはやはり中学生くらいからの教育の場で、本当に言いたいことをベースとした議論を実践し、能力を高めていくしかない、そのためには意見に対する感情移入を排除し、調べてきたことを発表するのが議論だという、現在の教育現場での捉え方を変えないといけないと感じます。
実は、教養の話題に続いて議論の能力を取り上げさせていただいたのは、両者の間に関係があると思っているからなのです。離陸さんが言われた、駒場の教養教育の意義というのも理解はできるのですが、どうもそれらを身に着けることと、私が思う教養人、教養溢れる人のイメージとはギャップがある。そのギャップとは何だろうと思って考えていたところ、そこに教養科目として学んだことの中から、本当に言いたいこと、自分の肉声となる意見を形成し、意見の議論を通じてそれを高め、身に着けていくという過程が見当たらない(離陸さんがそうおっしゃったわけではなく、私の受け止め方なので間違っていたら申し訳ありません)。
それでは大学受験までの知識集積的な学びに終始してしまい、教養ある人にはなれないのではないか、と考えました。平たく言うと、知識を身に着けていても、そこから本当に自分の言いたい意見を形成し議論の場に持ち込めず、議論の場では感情的な反応しかできない人、これこそが(裏からの言い方になりますが)教養ない人の典型なのではないか、そして残念ながら多くの日本人はこの陥穽にはまってるのではないか、という事です。
またしても結論がなく申し訳ありません。
>直ちに喰いついてこない生徒はいましたがさほど多くはなく、最後は殆ど全員が議論を交わすようになっていきました。その過程で大きな役割を果たしたのは教師と、生徒の中のオピニオンリーダー的な連中。教師は異なる方向性を持つ生徒が一度は自分の意見が持てるよう、色々な角度から、しかし自分の存在を見直す方向はブラさずに、論題を投げかけていく。教師の狙いが分かりかけて来たオピニオンリーダーたちは、自らは教師を乗り越えることを志向しながら、他者を議論に巻き込んでいくことの面白さにも目覚めて、当時の言葉で言えばオルグしていく(学生運動じゃないですが)。
その先生は偉いね。良い性格(目的意識がある。やり遂げる。目配りする。)の人だ。先生自身も若いころ相当頑張ったんだろうね。
その先生に習った40人?の生徒たちが、こんどは自分がその先生が果たした役割を果たして、それぞれの立場で3人でも10人でも孫生徒を作れればいいんだろうね。そうしないともったいない。
>これを変えていくにはやはり中学生くらいからの教育の場で、本当に言いたいことをベースとした議論を実践し、能力を高めていくしかない、そのためには意見に対する感情移入を排除し、調べてきたことを発表するのが議論だという、現在の教育現場での捉え方を変えないといけないと感じます。
議論の実践は中学生からなのかな。でもどうだろう。 「本当にいいたいことはどんどん言おうよ。」っていうのはもっと早い時期からがいいような気もするけど。「発語」と「発言」の違いはちゃんと教えたうえでね。
調べたことを発表するのは議論じゃない・・そうなんだ。違うんだ。でも調べたことを発表することも大事だよね。そうか、それはプレゼンテーションか。議論とプレゼンテーションを分けて考えればいいか。プレゼンしたことについて議論が交わせるっていうことはどこの世界でも必要になる発展形だよね。たとえ、なんちゃってであっても、そういうことを知る機会があるのと無いのとではどっちがいいかってことかな。
>実は、教養の話題に続いて議論の能力を取り上げさせていただいたのは、両者の間に関係があると思っているからなのです。離陸さんが言われた、駒場の教養教育の意義というのも理解はできるのですが、どうもそれらを身に着けることと、私が思う教養人、教養溢れる人のイメージとはギャップがある。そのギャップとは何だろうと思って考えていたところ、そこに教養科目として学んだことの中から、本当に言いたいこと、自分の肉声となる意見を形成し、意見の議論を通じてそれを高め、身に着けていくという過程が見当たらない(離陸さんがそうおっしゃったわけではなく、私の受け止め方なので間違っていたら申し訳ありません)。
わからないけど、離陸さんの議論の話は、ずっと進んだステージの話なんだと思うよ。すでに「過程」を経た人たちがテーブルについている感じ。
もっと手前の「その過程はどうなのよ」を掘り下げていけばギャップは埋まるかもよ。
プーさん、
議論の能力さん、
議論について話をするだけでも、どのような場での議論か、道のレベルの議論か、どの年代を対象にするか、時間軸をどの程度取るのか、対象の捉え方により議論の能力向上の具体的な話は異なりますね。
子供の教育では小学高学年から意識して学校外で少しばかりそのような場を工夫して作ろうとしたことを思い出しました。今では子供達は学校活動の中で(弁論会や創作も主体的に活用し)少しずつ育んでいると感じています。中高生の間は、知識の幅を広げること、論理的な思考が出来るようになることに専念することでよいと思っています。ここで知識というのは、決して数十分刻みで解くような試験問題のような断片的知識ではなく、国語なら幅広く多くの本を読む、英語なら英語の本を多読する、社会ならやはり歴史や社会の本を読んでみる、そして自分なりに主テーマについて考えて意見や感想を持つ。それらを他者と語ることが出来れば善し。議論の訓練という点では、まずファシリティター役の先生の力量が問われます。議論をする生徒も学年毎に訓練をしてレベルを上げる必要があるようにに思えます。近年の英国での学校教育ではそのあたりを意識した教育をしているようです。また家庭環境での伝承により能力を得る層もいます。議論の能力の具体的な開発手段は、上記の様々な捉え方により各人のパスがあるはずです。
大学では、各大学が4-6年間で生徒が社会で通用する能力を身に付けるよう、カリキュラムを工夫しています。(例えば、慶応SFC、国際教養大学、東大、京大、大分アプローチが異なります)
私は、それらを一色単に扱い、
① 知識の幅を拡げる
② 論理的に深く思考する能力を身に着ける
③ 他者に自分の意見を理解してもらうためのストーリート説明能力
④ 意見や思考(言語も)異なる多様な人達との共感
議論の能力は、
* 課題を中心に縦串、横串(更に他の次元の軸)を想定し(①、②を教養に高める)
* 課題解決ルートを論理的に想い描き(②の力)
* それを要領を得て説明する(③、議論のアプローチ法の力)
* 他者との議論の中で必要に応じて軌道修正も行い(④の力)
* 自分の意見や細部に不要に拘らず、全体最適化を目指す(④の力)
で鍛えられる。
学生にとっての要は、意識して懸命に勉強することでしょう。
繰り返しで恐縮ですが、東大入学式総長式辞のポイントは、死に物狂いで勉強しろでした。
離陸さん
拝承しました。以前からレスを拝見していて思っていましたが、離陸さんと私は現状の捉え方がかなり違っているのだろうと思いますが、私の意識を上手くお伝えすることが出来ませんでした。再度考えを練ってみることにします。
議論の能力云々と言いながら自分の言葉でお伝えできなかった力不足はお恥ずかしい限りですが、つい最近まで東大も議論の能力を(東大は討議力と言っていますが)教養教育の最大の問題点と考えていたこと、念のためお伝えして一旦締めさせていただきたいと思います。
事の発端は、小宮山総長が日本人、特に若くて優秀な人ほど議論しようとしない、その結果議論の能力がないことに危機意識を持ったことです。これはネットなどでも頻繁に発信され、名言として残っているのでご存知かと思います。また、昨年のギャップイヤー資料にも出ていましたが、2008年の学生アンケートで、駒場終了時点で討議の力が伸びたという学生が2割しかいなかったこともあって、総長の意も受け、現在のKOMEXの前身であるKOMED教育GPで、教養教育における討議力強化策を議論・実施した経緯があります。高度化機構になる際に引き継がれなかったのですが、2011年春までは駒場教養教育改革の最大の軸は討議力強化だったことはどうか心にお留めください。
教育GPの成果の一部はKOMED HPにも残っているのでご興味あれば参照ください。教養教育開発機構、討議力でググれば出てきます。但し、GPの議論・実施はやや拙速で掘り下げ不足であったことは否めません。プロジェクトメンバーはほぼ全員皆駒場に残っているので、現状の問題意識を是非一度聴いていただければと思います。
それではしばらく失礼致します。
議論の能力なんて性格によるところ大ですからなあ、、。
教育でなんとかできるのかどうか。
まあ、中学受験塾の国語の授業では「自分の意見なんて問われてない!」と教育されるわけだが、まともな学校に行くと個性の強い同級生が居て、なんとか自分の意見を言える様になるんだな。
これは私立公立関係ない。
議論の能力さん
KOMED 教育GPの報告書の一部を読んでみました。
成程、議論の能力を向上するための手段を
場(仕組み)をつくる観点から考える (学校の視点)
vs.
個人(学生)の取組みの観点から考える (私の視点)
で捉えるという相違点があったようです。
こちらこそ、失礼しました。
結局、学校という場では、両者が〇の場合に、成果も〇になるのだと思います。
つまり、学生のうちに、よく勉強して個の能力を上げ、他者と議論をする経験を多く積み、力をつけていくイメージでしょうか。また、受け身の姿勢ではなく主体的な姿勢で臨むことは必要でしょう。議論は一人の力ではなく、参加者のレベルに依る集団の力に成否が大きく影響されますので、参加者全員に高い意識が求められます。その点、社会人として思うところはあります。




































