在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
子育て、受験、大学、教育その他の井戸端会議
私学の価値の両スレッドが機能不全に陥っていますので・・・・・のんびり何かを語る井戸端会議の場所を作りました。
体罰問題は「私学の価値ゼロ」で煮詰まったやり取りをしていますのでそちらでお願いします。
たらようさん、公立一貫さんに・・・・最近の鴨たちの様子について
冬鳥は全部そろいました。強風でさざ波が立つ中で元気に追いかけっこしています。川沿いにシラサギとアオサギの来る場所があるのですが・・・・・・周りに鴨も沢山来ますので餌の多い場所なんでしょう。
先日シラサギが小魚を捕まえる瞬間を見ました。早業で剣豪の一閃と言う感じです。
水面すれすれにシラサギのつがい?が飛んでいくのは実に優雅で見とれてしまいます。
そうそう、話題の映画「レ・ミゼラブル」見ました。外国文学は縁遠いので概略しか知りませんでしたが・・・・・泣かせる場面、感動の場面が沢山ありました。
娘(実は預かった子)の恋人が革命戦争の決戦前夜に・・・・・眠っている姿を見ながらジャン・バルジャンが歌うところなど娘を持つ父親ならぐっとくるところです。
そうか?・・・・・公立一貫さん同志社で合唱やってましたよね。釈迦に説法でした。歌も素晴らしいです。もっとも音楽万年2~3の私の耳ですが。ラッセル・クロウがあれだけ歌えるとは知りませんでした。
もしご覧になっていたら感想などお聞かせ下さい。
昨日の【3012927】に関連しての勝手な思い付きですので、興味のない方はスルー下さい。
o 誕生時: 遺伝 (インプット前のフォーマットとして)
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o 幼児期: 才能 = 遺伝 x 環境(親子のコミュニケーション、家庭環境からのインプット)
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o 小学生期: 才能 = 遺伝 x 環境(学校での学びやコミュニティ社会からのインプット)
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o 中高学生期:能力 = 才能 x やる気(学びに対する)
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o 大学生期: 能力 = 才能 x やる気 (学び&アウトプットに対する)
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o 社会人: 成果= 能力 x 考え方 (自分の社会で望む方向と社会の要請の一致度)
幼児期の良好なコミュニケーションが子供の情緒や能力を高めるのに対して、
社会人の成果となると、才能に加え、「やる気」、そして「考え方」が要因として乗じられてきます。
この「考え方」の要因は、稲盛和夫氏著書”生き方”から、腑に落ちて引用したものですが、
この「考え方」というものを、少し定量的に考えいてみました。
「考え方」を、個人の考え方のベクトルを、社会の要請のベクトルと相対化して指標として考えます。、
個人の考え方= ベクトル p = |a| x ベクトルP
|a|はスカラーで、個人の想いの強さ、つまりスケール
ベクトルPは、単位ベクトルで個人の思いの方向性を意味する
上記の個人の考え方に対応する領域での社会における要請=ベクトルS = |b| x ベクトルs
|b|はスカラーで、個人の想いの強さ、つまりスケール
ベクトルsは、社会のニーズの方向性を意味する
「考え方」というのは、両社のベクトルの一致度とそれぞれのスケールの積で表される、
つまり、個人の考え方= ベクトル p と、その個人の考え方に対応する領域での社会における要請=ベクトルS の内積とする。
「考え方」=|a|・|b|・Conθ
θは個人の想いと社会要請ベクトル間の一致度を示す角度で、
両者が完全に一致(θ=0)なら Conθ=1となり、「考え方」は|a|・|b|となり、
両者がかみ合わず全く的外れ(θ=90°)であればConθ=0、考え方=0となり、成果=0(成果なし)
個人の考えが反社会的であれば(θ>=90°)Conθ=マイナス(-0 to -1) となり、考え方もマイナス、成果はマイナス(反社会的)となる。大抵は、0<θ<90°を考えればよい。
以上、考え方は、個人と社会にニーズの方向性の一致度Conθ、その方向(分野)での社会要請のスケール|s|と個人の思いのスケール|p|を乗じた指数として表わせる。
(結論)
大学生活では、やる気で能力を上げると同時に、この考え方を意識し始めて、社会に出たら、この考え方を強く意識して目標を持つことが大切、である。考え方は、社会要請との親和性、個人の想いとそれに対する社会の関連領域でのスケールの大きさに分解出来る。
離陸さん
いつもながらの精緻なご意見感恐れ入ります。
若干疑問に感じましました’のは、社会の要請というものが個人の思いから独立して存在しうるのかという点です。私には、よしんば社会の要請というものが個人から独立して存在するとしても、個人は能力と思いに基づいて切り取った形でしかそれを捉えられないし、逆に個人の能力、思いというものも、自分なりに切り取った社会からの要請を意識しつつ形成されてくるもののように思われます。
離陸さんが個人の発展段階をどこまで厳密に捉えてれているかよくわかりませんが、私はむしろ、社会の要請はもっと早く中高生の時期から意識されるもの、さらにいえば、小学生の時期から社会からのインプットを受けると同時に意識し、切り取り始めるものだと感じます。
連投失礼します。
付け加えますと、私は、少なくとも中高生段階では、社会の要請と自分の能力・思いの方向性との関係(離陸さんの言われるθ)を積極的に考えて行って貰いたい、それに基づいて大学では自己の社存在意義に対する思索が深めてもらいたいと思っています。現実としては、日本の中高生はそういった精神活動から切り離されているように感じており、それが現在の教育のあり方の最大の問題点の一つと考えています。
わたしは離陸さんや高校生親さんとは考え方が反対で、中高生のあいだには社会の要請とは無関係に自由な発想ができる環境をあたえることがたいせつだと思います。そしてひきつづき大学では、-180°<θ<=180° の多様な学生が育つことがのぞましいと考えます。
でなければ、社会の要請そのものが間違っているばあいに(これはしばしばおこります)、社会を変革していく力が不足します。まさにこれは現在の日本の問題ではないでしょうか?
以前に高校生親さんに聞き取りでお世話になった UCLA のビデオの冒頭を引用しておきます。
You're remembered by the rules you break.
Convention tells us, if it ain't broke, don't fix it.
Our conviction tells us, if you really wanna fix something, break conventions.
イワンのばかさん
ご無沙汰してます。私が社会の要請を個人が自分なりの切り取り方をするといった際には、社会の要請に擦り寄ることではなく、むしろ個人を中心において、社会を批判的に切り取るという点に重心をおいて考えています。社会の要請の前に、まず自分にとっての社会とは何なのか規定する精神の働きと言っても良いかと思います。
子供は小学生時期から、社会に対しても嫌なものは受け入れないという形で批判精神を持ち得ると考えます。そして中高生段階では、将来の進路を考えて行く中で、自分のものとして切り取った社会に対する思いを深めていくと同時に、一旦受け入れないことによって否定したものを変革できないかという思いをも育てていけるものだと感じています。自分の過去を振り返ると、こう言う精神の成長はとても自然なものだと感じ、社会から中高生時代を切り離すということにはやはり不自然さ、疑問を感じます。
社会から切り離された中高生活の果ての大学選択は、学力のみを基準として、入れるところに入ろうということになってしまい’勝ちと思いますし、そういう大学生にUCLAのメッセージは届かないのではないかと感じます。
高校生親さん
ご返事をいただきありがとうございました。わたしは高校生親さんのその前のコメントの趣旨を読み誤ったようですね。ご返事のとおりかと思います。
わかい人たちには、社会の要請そのものの正しさを問い直す、つまり離陸さんのおっしゃるベクトルSを未知数として取り扱いそれに解をあたえる、力までがもとめられると思います。




































