女子美の中高大連携授業
直近20年で急激に伸びた学校の共通点? (聖光・渋渋・渋幕・洗足・浅野・早稲田)
2005年〜2025年の 20年で急激に伸びた学校として、東大合格者数が25名以上増えた中高一貫校を調べてみました。
2025年の東大合格者数 (2005年比)
聖光[95名] 46名増 (1.9倍)
渋渋[50名] 46名増 (12.5倍)
渋幕[75名] 37名増 (2.0倍)
洗足[28名] 28名増 (2005年 0名)
浅野[51名] 26名増 (2.0倍)
早稲田[30名] 25名増 (6.0倍)
これらの学校が伸びた共通の理由があったりするのでしょうか。詳しい方教えてください。よろしくお願いします。
全く違う。渋渋を貶める意図はない。
何度も書いていますが、親友の母校なので。
事実として言っているのは、英語環境の充実が帰国生という外部要因によってもたらされたに過ぎず、学校自体の教育設計や知の運用力が世界標準に達しているわけではない、ということ。
評価の対象は学校の知的構造で、特定校のブランドや知名度ではない。感情論で位置づけるのとは別の視座からの指摘ですよ。
国際系の学校が帰国生や留学生を通じた英語教育の環境に適していたのは事実。しかし、単に英語教育や英語を学ぶ環境が良いことだけではもちろんない。
それは国際系の学校が海外トップ大学や東大等に多数合格しているということだけではなく、ビジコンなどを通じて社会課題を克服するための取組や研究をするなど知の創出に向けた努力をしている点でも優れているということを君が知らないだけなんだよ。
努力の有無で優劣を語る時点で、射程が低い。努力など前提でしかなく、評価の基準にはならない。問うべきは、その努力がどこに届いたか、何を変えたか、何を創ったかでしょうに。
海外トップ大に入れている?
現実に何人を何年間で? 一人と十人、百人では意味が違う。だが一人でも、それがサム・アルトマンやイーロン・マスクのように世界を動かす存在なら、数では測れない。
未だ結果として現れていないなら、それはまだ途中ということだ。だが途中を誇る時点で、構造の見えないまま「がんばっている」に酔っている。努力を語る者ほど、成果を見ていない。
優れているとは、努力を積んでいることではない。努力が結果に転化し、現実の線を一本でも動かしていることだ。そこに到達していないなら、どれほど熱く語っても、ただの過程の美化でしかないよ。
横からごめんなさい
> 事実として言っているのは、英語環境の充実が帰国生という外部要因によってもたらされたに過ぎず、学校自体の教育設計や知の運用力が世界標準に達しているわけではない、ということ。
外部要因はその通りですが、その帰国生を活かした教育をしているのが差異化ポイントですね。
模擬国連という基盤を作り、海外の高校と協力したweb上での文化祭といった活躍できる舞台を用意するといった実行力は、他の学校と差をつけた要因であると考えます。
仰る通り。
帰国生という外部要因を活かして教育の舞台を設計した点は評価できます。模擬国連や国際協働型の文化祭など、実践の場を整えたこと自体は確かに先進的でした。そこに異論はありません。
ただし問題は、その枠組みが個人の国際性をどう育てるかという次元にとどまっている点です。模擬国連型の学びは、国際社会の議論様式を体得するには有効ですが、同時に英語を通して世界を再構成する知のデザインまでは踏み込めていない。
つまり、英語運用の次に来るはずの構想力の次元がまだ弱いということです。
帰国生が牽引した波を制度として受け止めることと、それを通じて学校全体の知的構造を再定義することは別の段階です。渋渋が先駆的であることは確かですが、世界標準というのは英語で学ぶことではなく、英語を媒介に新しい知を創出すること。そこに届くかどうかが次の論点になると思います。
国際標準は業務用のtermでは、業務対象について共通の定義が有りますが、文化や思想には定義が存在しません。
国籍、民族、人種の間では、前者は認識の差異は生じませんが、後者は認識の同一化は至難の業です。日本人対外人の括りだけではなさそうです。
仰ることはよく分かります。業務領域ではtermが明確に定義され、共通言語として機能しますが、文化や思想の領域にはそのような統一基準がありません。国籍や民族、人種が交差する場では、そもそも出発点の認識枠組みが異なるため、同一化を目指すこと自体が非現実的だというご指摘だと思います。
ただ、私が述べたかったのは、文化や思想を単一の基準に揃えるという話ではなく、異なる認識枠組みを接続するための知的操作そのものが教育の核心になるという点です。業務用のtermが対象領域の共通理解を築くように、学びの場では異質な視座を翻訳し、別の論理体系へ橋を架ける力が求められます。
国際標準という言葉が誤解を招きやすいのは確かですが、私が使った意味は、文化の均質化ではなく、異なる前提を扱える構造的な思考力を育てるという方向でした。日本人対外人という二項ではなく、複数の尺度が同時に立ち上がる環境でどのように知を再編成するか。英語はその媒介にすぎず、核心は認識の乗り換えを可能にする設計力だと考えています。
文化の差異が埋まらないことは前提として、その差異を扱うための技術こそが次の課題になるという意味で書きました。




































