アートの才能を伸ばす女子教育
姉妹を女子校と共学校に通わせている方
女子を持つ保護者は女子校か共学校か迷う方も多いかと思います。
もちろん学校それぞれなところもあり、ひとくくりに論じることは出来ないですが、姉妹のうち1人を女子校、1人を共学校に通わせた方に感想を伺ってみたいです。
特定の学校の批判は本意ではないので、学校名は出さないで頂けると嬉しいです。
返信ありことうございます。
私の音楽の師は欧州のコンクール歴と経済的成功は日本でトップクラスなので、頂点に近い本物のプロからプロを名乗らないでほしいレベルまで、裏をふくめ、いろいろ聞き及んでおります。
ここで指摘したかったのは、決してプロを目指すのではないトップ校の生徒が、まあ玄人はだしの演奏をする、決してガリガリ東大入試対策ばかりやってるのではない、ということです。 準トップの私立では、ピアノなんか弾いている暇あったら勉強しろ、になる。あるレベルを超えると世界が変わってくる。
「該当するので」さんのピアノの例、とてもよく分かります。実際、偏差値帯の高いごく一部の学校では、受験対策に忙殺されるどころか、昼休みに生徒がベーゼンドルファーでショパンを弾きこなし、それが特別視されることもなく「いつものこと」として流れていくような光景が存在します。そして、その水準があまりにも高く、周囲の生徒も誰も驚かない。そうした学校に共通しているのは、文化的な活動が特別扱いされず、むしろ自然に共鳴・拡張されていく空気そのものです。
そして、これは学校が用意した教育の「水準」というよりは、「生徒集団の持ち寄る文化総量」のようなものです。たとえば演奏の話であれば、ピアノを弾ける生徒が毎学年複数いて、しかもその水準が素人離れしているのが前提になっているような集団は、もはや学校が教えていなくても音楽的な洗練が自然に起きる。そこに「ピアノの演奏水準」だけを切り取って評価をぶつけても、意味のない比較に終わるでしょう。
また、芸術領域ではご指摘の通り、制度も評価も不透明で、時に政治や経済とも切り離せません。ゆえに、真のプロか否かという議論は背景に多くの文脈を抱え込むものです。ただ、それゆえに、プロでもアマでもなく、「自分の生活の中で芸術的活動が自然にあること」そのものに価値があると感じます。そしてそれが、ある種の学校群では自然と発生している。
この点で中国はまったく別次元に進んでいます。広州や上海、香港を中心とした湾岸エリアでは、国主導で巨大美術館が次々と建てられ、世界的なアーティストの個展が開かれ、大作が国家によって購入されていく。芸術が政治に利用されている、のではなく、むしろ戦略的に育成・発信されている。文化が国の「顔」として明確にデザインされているのです。芸術活動は個人の表現ではあるものの、その後ろ盾として国家の戦略があり、審美眼のある富裕層と官の連携が市場と思想の両輪を回している。
そうした土壌で育つ学生たちは、芸術を遊びや副業としてではなく、国家を背負うレベルの知的活動と見なしている。その対極にあるのが、日本の一部の「勉強だけが大事」という狭義の受験文化ではないでしょうか。ピアノなんて弾いてる暇あったら問題集やれ、という空気の中で、文化の厚みはどう育つのか。学力も芸術も、どちらも高水準で共存できる環境こそが、次の時代の競争力を左右すると感じます。
女子校か共学かという話に戻るなら、こうした「文化資本の自然な共鳴」が生まれるような空間においては、性別による差異よりも、その学校が属する文脈自体が重要だと感じます。生徒の質、家庭の文化総量、そして学校の包容力。それらが合わさった環境の中でこそ、学力も表現も、混ざり合って豊かに広がっていくのだと思います。
>その水準があまりにも高く、周囲の生徒も誰も驚かない。そうした学校に共通しているのは、文化的な活動が特別扱いされず、むしろ自然に共鳴・拡張されていく空気そのものです。
>そして、これは学校が用意した教育の「水準」というよりは、「生徒集団の持ち寄る文化総量」のようなものです。
開成卒のピアニスト、カティンさんが同じようなことをインタビューで言っていました。
曰く、数学オリンピックやボードゲーム、ジャグリンなど、それぞれに熱中し、その道を究めている人が周りにたくさんいた。
小学校のころはピアノが弾けることを周囲に言いたくなかったが、特定分野に秀でている人ばかりの場所に身を置くことで、「自分はピアノなんだ」と客観視できるようになったと。
カティンさんのコメント、非常に示唆的です。
YouTubeはあまり見ないのですが、私の推しアーティストと共演されていたことがあり、そのご縁で拝見したことがあります。
まさに、あの種の空間においては「何かに熱中すること」が、すでに「他と比較されないこと」と地続きになっている。
ピアノを弾けることを特別視されるのではなく、数学や将棋、映像編集に熱中している者が常に隣にいて、突出が並列されている。これが、「才能の自覚」を生む最初の条件なのだろうと思います。
そしてそれは、学校が制度的に「多様性を尊重します」と掲げたから起きるのではなく、もっと根源的な、集団が持ち寄る文化的な密度と温度の問題です。才能が孤立するのではなく、他の才能と自然に隣り合うとき、本人もそれを誇示せずとも引き受けられるようになる。
このとき、重要なのは才能の「種類」ではなく、その空間が「違いを比較に持ち込まない力学」を備えているかどうかだと思います。「ピアノをやっている子がいて驚いた」ではなく、「そういう人がいるのが前提」になっている空気。この差は非常に大きい。
これは、単なる「進学校か否か」という区分や、女子校・共学といった性別軸では語りきれないものです。私の母校、桜蔭でも強くこの空気感を感じていました。
むしろ、生徒集団が持ち寄る文化的・知的・感性的ストックの総量が、ある閾値を越えると自然発火的に起きる現象に近いとでも形容すれば、このニュアンスを言語化できている気がします。
ある水準を超えると、空気自体が変わる。比較より共鳴へと、空間の力学が反転するのです。
そして芸術や創造性がそこに自然に根を下ろすのは、そうした空気にこそ居場所があるからでしょう。
プロになるわけでもないのに、玄人はだしの演奏が当たり前にある。それが驚きではなく、誰かの生活の一部として淡々と存在している…。そうした集団は、もはや「学校」というより、ある種の「土壌」のような知的生態系になっている。
制度設計では到達できない次元が、たしかに存在する。そこでは、誰が何をやっているかが互いを脅かさず、むしろ互いの活動によって自分の輪郭が明確になっていく。
そういう空間が、ごく一部の学校にだけ、確かに生まれているように思います。
もやっとしていた私の思考が、お話を通じて明確に言語化できた気がしました。ありがとうございます。
ご返信ありがとうございます。
「よくある」という表現ですが、具体的にどの偏差値帯、どの学校群を指しておられるのか、定義が曖昧です。
もちろん、いわゆる御三家や渋渋・洗足・豊島岡・栄光・筑駒などの一部進学校においては、全体の中で数%レベルで受験に追われすぎずに探究活動に打ち込める生徒も存在します。しかし、それは「学校の文化として保証されている」わけではなく、あくまでその生徒の家庭環境・個人資質・塾との距離感・中高内でのポジションなど、複合的な要因に支えられて成立している事例がほとんどです。
もし「よくある」という認識が、たとえば中堅~上位校にかけての大多数の生徒に適用されるとするなら、それは相当バイアスのかかった主観か、特定のごく狭い観測範囲による印象に過ぎません。
特にこのエデュ中学受験板においては、そうした稀なケースを一般化して語ることは、受験生を持つご家庭の判断を誤らせるリスクがあります。ですから、議論を進めるのであれば、具体的な学校名、データ、実例を前提とした方が、建設的かつ有益ではないでしょうか。
私の場合は、そこそこ音楽は出来るつもりだったのが、ものすごいクラスメートが複数居て、れっとうかんに苛まれるようになりました。まあそれでも諦めずにいろいろやって、よかったとは思っていますが。
最大の衝撃は、高校入学してすぐに、大人しい女性がショパンの一番協奏曲のソロパートをほとんど完全に弾ききったことで、今考えても、15歳にしてアマチュアトップクラス、芸大などトップ大でなければどこのピアノ科にもすぐに合格する腕でした。
東大文一から某高3の大の法学部教授になっています。
当時、西や戸山など上位都立には、高3の秋まで、音楽だったり部活だったり映画づくりだったり、に熱中する文化がありました。浪人前提。あれも良かったのかなと思わないでなく、石原都政の締め付けで都立高校が進学実績で管理されるようになってどう変貌したのか興味があります。































