今年入学した高1生が語る青春リアル
東京大学が国際系新学部設立→国際系の学校が人気に?
東京大学 新学部開設:2027年秋
新学部名:「カレッジ・オブ・デザイン」
入試概要:
A方式(50名)
*大学入学共通テストの結果
*高校の調査書(または成績証明書)
*エッセー
*東大が指定する英語試験の結果などの書類
*英語による面接
B方式(50名)
*東大が指定する国際的な統一試験の結果
*複数の提出書類
*英語による面接
特定学校の誹謗中傷は厳禁でお願いします
冷静に、何が合理的か、を考えて政治をやってほしいですね。
自分の支持者たちを満足させるだけではなくて。
ただ、多様性を受け入れることはなかなか大変なことは確かですね。
たとえば、ハラルの人たちと食事を共にするのは物足りないし、宗教色の薄い日本人から見ると、お祈りを欠かさない人たちは、ちょっと付き合いにくい気がする。
ではあるけれども、仕事するときは、それはそれとして、協力体制で頑張っていくのが合理的と思います。
ヒグマか。笑
一応ママなので、反射的にサピの「ピグマ」を思い出してしまった。
ピグマの語源は、もちろんピグマリオン効果。教育心理学における、あの有名な「期待の自己成就」の概念だ。教師や親が子どもに高い期待をかけることで、実際に子どもの学力や能力が引き出されるというやつ。
今の日本の子どもたちはかんたんにネットのフェイクや陰謀論に踊らされてしまう、と思ったら、踊っているのは親だったり。そんな親がかける期待は寧ろ子を間違った方向に導いてしまいますよね。
ここで喚いているガヤの方々が親でない事を祈るばかり。
さて。本題。
たとえ話としての意図はわかりますが、少しズレているように感じます。
今回私が言っているのは「可哀想だから外国人を擁護しよう」という感情論ではなく、むしろ現実主義(リアリズム)に立った国益ベースの視点です。
例えば、日本クルド友好協会の木下顕伸さんが語ったように、民間交流の積み重ねが国際的な信頼関係に繋がり、やがては資源外交や地域安定といった「日本にとっての戦略的利益」に結びつく。
これは「情にほだされた」結果ではなく、「計算された」選択です。
一方で、フェイクニュースや排外感情に流されて、真っ当な留学生や移民まで一括りに叩くのは、国益を損ねる非合理的な行動です。それは、ヒグマ駆除のように明確な危険に対する対処ではなく、誤情報に基づいて害獣扱いしてしまっている構図に近いのではないでしょうか。
「保守」を名乗るなら、まず冷静に事実を見極め、長期的な視野で国家の立ち位置を判断する。
私が問題にしているのは、そこを飛び越えて「外国人だから」「クルド人だから」と感情的に敵視する風潮そのものです。
本来の保守は、もっと静かで、もっと知的なものだった筈です。
えー、そうですか?
私はムスリムの知人が多く、ハラルフードのお店に買い出しに行くところから、実際にご自宅で料理を振る舞っていただくまで経験していますが、まったく「物足りない」と思ったことはないですね。
香辛料や食材の工夫で、むしろ新しい味覚の発見だと感じました。
もちろん、ムスリムの中にも信仰の度合いや習慣にはグラデーションがあるのは事実です。
お酒をたしなむ方もいれば、不浄な食材が触れた食器や鍋そのものを嫌う、非常に厳格な方もいる。
以前、その厳格なタイプの方に「鍋や皿まで不浄って、ちょっと極端では?」と尋ねたことがあるんですが、
「それではキミは、うんこを一度乗せた皿や、うんこを煮込んだ鍋を、洗えば普通に使えるか?」と返されて、うっ…と絶句しました。笑
それ以降、「ハラーム=不浄」という概念がようやく腑に落ちた気がします。
彼らにとっては、宗教的な禁忌は単なるルールではなく、感覚の問題でもあるんですね。
たしかに「多様性を受け入れるのは大変」と感じる瞬間もありますが、
そこで「理解する努力」や「尊重する視点」を放棄したら、合理性も協力体制も成り立たないのでは、と感じています。
現場レベルでは、案外そこが一番肝心だったりするんですよね。
いろいろな人達を、日本食のわりと良さげな店で接待したとき、イスラムとかヒンズーの宗教心の強い人たちは、ほとんど食事に手をつけなかったことがありました。
調理の際に禁忌の食材が使われていないことの保証がないから、という理由なのですが、接待する側としては、日本の食文化を否定された気持ちになり、残念に思いました。
しかし、考え方を変えて、我々が禁忌とするような食材、たとえば人肉を使ったエキスが入っているかもしれない料理には、僕らも箸をつけたいとは思わないですね。
そう考えれば、彼らが日本食に手を付けなかったことを理解することはできる。
残念ではあるけれども。
また、僕らは宗教人としての彼らと付き合っているわけではなく、有能な研究者、留学生として付き合っているわけです(僕は、とある、ななしの研究者です)。
国籍が違ったり宗教が違ったり文化が違ったりしていても、有能な人たちは受け入れて、ともに仕事をしていくのが合理的で、国益にも叶う(このフレーズ、ある種の人たちには響くんだな)、と思います。
保守の人たち、現実的な路線を人々にも示してほしいな、と思います。
個人的には、僕はリベラルではないと思ってます。
グローバル化の前、国内にはほぼ日本人しかいなかった時代は、文化の軋轢もなく、楽だっただろうな、と想像します。
しかし、グローバル化が進み、日本の相対的国力も衰えた今は、多様性を許容しないと現実的には立ち行かないだろうなと、考えています。
なので、消極的な、多様性賛成論者、かもしれません。
この方は偽悪を気取ってるのかもしれませんね。
毎回長文を書くエネルギーには感嘆しています。著書をものしてみれば? 既にあるのならご紹介ください。
あれこれ手を出さずに一つに絞れば後世に名を遺す人物になるでしょう。 誠にもったいない。こうしてギャラリーを楽しませる芸風があるのだから、瀬戸内寂聴や佐藤愛子のようになれますよ。 まだ遅くはありません。
非常に共感しました。そして、まさにそのようなスタンスこそが「保守本流」なのではないかと私は思っています。
実は私も、いわゆるリベラルではありません。むしろ自認としては「保守本流」。
にもかかわらず、何故だかリベラルと誤解されることが多くて、ちょっと苦笑してしまいますね 笑
というのも、「国益」や「合理性」といった視点で語ると、今の日本ではなぜか「リベラル」扱いされがちで。。。
でも本来、保守とは「変化を無理なく受け入れつつ、全体の安定を保つ」ことを旨とする思想であって、「現実に対応する力」こそが、保守の強みのはずなんですよね。
宗教的な食の禁忌についてのお話も、非常にリアルな経験ですね。
おっしゃる通り、禁忌というのはその文化における「絶対」であって、仮に我々が人肉や犬肉の可能性がある料理を勧められたら、笑顔で手を出せるかと言えば。。。まず無理です。人肉は流石になくとも、犬肉は現実にはあり得るわけで。
日本の食文化を否定されたような気持ちになる。。。という感情も自然なものですが、それを越えて「でも彼らは宗教的信念を貫いているだけなんだ」と理解される姿勢に、非常に懐の深さを感じました。
そして、「宗教人として付き合っているわけではなく、有能な研究者・留学生として接している」というご指摘、これもまさに合理的な視点です。
有能な人材をどう活かすか、そこに国籍や宗教が本質的な障壁になるべきではない筈です。
日本の未来にとって本当に必要な「保守」は、理性と現実主義に基づいて、多様性を柔軟に受け入れられる人たちではないかと、私も感じています。
声の大きい過激な排外主義者に保守の看板を奪われたままでは、長期的に国益を損なうだけですから。
で、私は参政党が大嫌いです 笑
神谷党首も輪を掛けてw




































