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東京大学が国際系新学部設立→国際系の学校が人気に?

【7697918】
スレッド作成者: 東大王 (ID:nMjSBSRGBB.)
2025年 08月 06日 17:57

東京大学 新学部開設:2027年秋
新学部名:「カレッジ・オブ・デザイン」

入試概要:
A方式(50名)
 *大学入学共通テストの結果
 *高校の調査書(または成績証明書)
 *エッセー
 *東大が指定する英語試験の結果などの書類
 *英語による面接

B方式(50名)
 *東大が指定する国際的な統一試験の結果
 *複数の提出書類
 *英語による面接


特定学校の誹謗中傷は厳禁でお願いします

【7700121】 投稿者: meta視点から   (ID:WF0twl8djrY)
投稿日時:2025年 08月 13日 17:52

誰と話してます?

私は論破したと思ってもらって結構と言っているのですが?
人間と議論したいだけなので。

【7700144】 投稿者: このスレ   (ID:PPlxIBPBajE)
投稿日時:2025年 08月 13日 18:54

また、このスレ、エデュ閲覧トップになってしまった。

閲覧トップになると、いろんな変人がコメントしてスレが荒れて大量削除、スレ閉鎖になるから気をつけよう。もうこのスレ、2回続けてスレ閉鎖されているからね。

【7700149】 投稿者: meta視点から   (ID:ysVJ6xrpwBg)
投稿日時:2025年 08月 13日 19:15

さて。
東大新学部に対する、私の意見。
別にAIに突っ込んで反論させても、AIと思ったらスルーなので、勝手に勝った、論破したと吠えていてください。
人間の方の反論にはレスする予定です。

東京大学の新設学部「College of Design」。

5年一貫制、英語教育、全寮制、9月入学など、制度面での目新しさが強調されがちだが、本質的には、東大の国際戦略を内側から組み替える試みとして見るべきだろうと思う。

形式的な枠組みを欧米化するというより、むしろ選抜と育成のプロセスを国内向けの既存枠から切り離し、グローバル人材市場の土俵に再接続しようという意図が透けて見える。

背景にあるのは、少子化や学生数の減少ではない。寧ろ、これまで東大が頼りにしてきた国内ブランドの磁力そのものが、国際的な人材獲得競争の中では通用しなくなってきているという危機感だ。

東大の看板に集まっていたのは、国内制度で測れる優等生たちであって、国際的に通用する問題設定力や創造性を備えた人材ではなかったのではないか、という問いがようやく内部から出てきたということなのだろう。

そう考えると、この学部が求めているのは、東大を経由して大企業や官庁に流れ込むルートの更新ではない。寧ろ、そうした既存のキャリア設計から一歩外れた人材、あるいは最初から世界を主戦場に考えるような志向性を持つ層への呼びかけだ。日本の大学でありながら、日本の高大接続システムから距離を置くという構図は、東大が東大自身の前提を初めて疑いはじめたことの証左とも言える。

とはいえ、構想と現実のあいだには埋まらない裂け目もある。制度を動かすのは理想ではなく人間であって、教員配置や入試設計、授業運営などの実務面では、既存のリソースでは足りないことは火を見るより明らかだ。

特に、全授業を英語で行うという設計に見合う教員を国内で確保するのは困難だし、本当に世界トップ層の人材を呼び込むつもりなら、現行の報酬体系そのものを壊す覚悟が必要になる。

ここに踏み込めるかどうか?
それは、大学全体の構造改革を伴わない限り難しいと言える。

さらに、この種の国際プログラムが掲げる「多様性」や「グローバル」の実態が、結局は東アジア出身の英語話者か、母語が日本語に近い家庭の子弟に偏ることも多い。

そうなってしまうと、形式上は英語で運営されていても、内容としては国内の延長線から抜け出せないという逆説が生じるのではないか。

言語を変えることと、文化的思考の基盤を変えることは別問題だ。これは、単に英語力を問う話ではなく、日本語でしか育まれない発想や問いの強度を、どう国際社会の中で変換可能な形にまで鍛えられるかという問題でもある。

構想に宿る理想の高さと、国内の制度に縛られた実務とのズレ。

そのギャップに晒されるのは、学生というより寧ろ教員側かもしれない。学外から突出した業績を持つ研究者を迎えるにしても、それ以外の既存教員の負担は増えざるを得ず、現場に蓄積されるストレスは大きい。

まして、日常的な講義運営や学生対応を英語で担うとなれば、現行の大学業務における時間配分や評価軸そのものの見直しが不可避だ。

大学が法人化された以降、教員の裁量はむしろ削られており、そこに新たな負荷をかける設計である以上、現場の制度疲労が臨界に達する可能性もある。

この新学部が描く「社会システムの変革」や「広義のデザイン」という理念が、実際の学生にとってどれほどの現実味を持つのかも不透明だ。

社会にどう接続されるのか、どの産業領域がこの人材を必要とするのか、出口が曖昧なまま理念だけを振りかざすのは危うい。

知識を社会実装につなげるという志は良いとしても、それを5年間の教育でどこまで具体的なスキルや職能として定着させられるのかという問いは残る。

その意味で、この学部の設計が問われているのは、単なる「別枠」になるか、それとも既存学部に波及する中核モデルとして機能するかの二択だ。

言い換えれば、制度のプロトタイプとして、東大全体の構造改革を牽引する触媒になり得るかどうか。それができなければ、単に少人数のエリート枠を追加しただけに終わるだろう。

開くということは、外に向かって自分を翻訳し、晒し、変容させることを意味する。その本気度がどこまで大学という組織全体で共有されているのか。

理念と制度のあいだを繋ぐ実行力こそが、これからの東大を決定づけるだろうと思う。

【7700154】 投稿者: 現実から目を逸らさない者   (ID:TS/Mh0vcGpY)
投稿日時:2025年 08月 13日 19:39

>さて。
東大新学部に対する、私の意見。
別にAIに突っ込んで反論させても、AIと思ったらスルーなので、勝手に勝った、論破したと吠えていてください。
人間の方の反論にはレスする予定です。

という出だしからして、「言っておくけど俺は上から見てるよ」ポジション取りに必死なのが透けて見えるわけですが、内容の方も案の定高尚ぶった内輪の自己言及に終始していて、批評としてはお粗末です。

>形式的な枠組みを欧米化するというより、むしろ選抜と育成のプロセスを国内向けの既存枠から切り離し、グローバル人材市場の土俵に再接続しようという意図が透けて見える。

「透けて見える」って何ですか? ちゃんとした議論をするなら一次ソースに基づいて議論して下さい。制度設計にどの国のモデルが参照されているのか、どの業界と連携を図る想定なのか、実証的な情報ゼロで「意図が透けて見える」って…ただの雰囲気批評ですよ。

>国際的に通用する問題設定力や創造性を備えた人材ではなかったのではないか、という問いがようやく内部から出てきたということなのだろう。

これもまったく根拠なし。
誰がいつそんな問いを「内部から」出したのか? 現在進行中の教授会議事録でもリークでも出ているのなら引用してどうぞ。
結局ここで言ってることは、「俺は昔から東大ブランドに懐疑的だった」っていう自分語りを、制度改革のふりして投影してるだけ。

>教員配置や入試設計、授業運営などの実務面では、既存のリソースでは足りないことは火を見るより明らかだ。

そこを現場が準備している最中だし、だからこその「2027年開設」であって、誰も今年から始めるなんて言ってないわけで。「今すぐには難しい」とか「教員が足りない」は、むしろ改革を止めたい側が持ち出す常套句です。
改革というのは、既存のできない理由を超えるために行うんですよ。

>英語で授業をするために報酬体系を壊す覚悟が必要

なぜ壊す前提なのか? 教員の報酬や採用はすでに特任制度や外部資金でのスカウト制が進行しており、「壊す」というより多層化しているのが実態。制度疲労と言うが、そもそも疲労してるのは硬直した旧態依然の組織の方では?
それこそ東大が“自分の前提を疑い始めた”ことの現れだと、冒頭で言ってませんでしたっけ?

>「多様性」や「グローバル」の実態が東アジア出身に偏る

偏ってるという統計的証拠、どこですか?
加えて、あなたは「国際性=見た目の多様性」みたいな短絡的思考にハマっていませんか? 文化的背景・社会的文脈・言語運用能力の組み合わせで言えば、東アジア出身であっても多様性は担保され得ます。
「日本語に近い家庭出身はダメ」って、逆に排他的すぎてびっくりです。

>社会にどう接続されるのか、どの産業領域がこの人材を必要とするのか

まさにその不確実性にこそ、大学の存在意義があるのでは?
あなたが言っているのは、「最初から出口を決めておけ」「成果が約束されないならやるな」という“予測可能性依存型の発想”です。それを嫌というほど再生産してきたのが旧・東大でしょう。
逆に言えば、「出口を設計しきらないこと」こそが、今回の試みの意義では?

>言語を変えることと、文化的思考の基盤を変えることは別問題

そこまでは正論。しかしそこから先、「日本語でしか育まれない発想や問いの強度」という表現に、自文化中心主義が滲んでいる。
そもそも「強度のある問い」って、言語に還元されるものではなく、文脈と構造に還元されるもの。文化論と教育設計をごっちゃにして語ってはダメ。

>単なる少人数のエリート枠で終わる可能性がある

そのとおり。でもそれを防ぐために、制度の可能性に蓋をするより、トライアルとしての価値を評価すべきでは?
結局あなたの論旨は、冒頭で「この学部には理念がある」と讃えておきながら、最後には「でも現実的には無理ですよね」と萎縮して終わってる。

【7700156】 投稿者: ぬらりひょん   (ID:Rxq62NXm5eQ)
投稿日時:2025年 08月 13日 19:49

皆さん「国民国家+ナショナリズム」と「国際協調+多様性」をめぐって議論が暗礁に乗り上げているようなので、私から一言。
世界最初のナショナリズムに裏付けられた国民国家は、フランス革命で王権を打倒して革命政府によって統治されたフランスです。
この時、世界で初めて、フランス語による国民教育が革命政府によって推進されました。
ところがこの流れに、ブルターニュ地方に住んでいたブルトン人は反旗を翻した。
彼らは、王権神授説によって正当化された領主の支配による封建的な政治体制による自治を護ろうとした。
このブルトン人をフランス革命政府は凄惨に弾圧して、ブルトン語を廃止してフランス語による国民教育を押し付け、民族のアイデンティティを抹殺して、フランス国民として同化していった。
つまり「国民国家+ナショナリズム」は本来民族の多様性とは相いれない原理なのです。
ナショナリズムを後退させることなしに国際協調や民族の多様性を語ることはできません。

東大の英語授業の拡大は、ナショナリズムや国民意識を後退させることなしにはなしえません。
むしろ、今日の世界は、グローバリズムVSナショナリズムの図式で観ていくべきなのであって、
ナショナリズムを重視することは、必然的にグローバリズムに逆らうことになります。

【7700162】 投稿者: meta視点から   (ID:TS/Mh0vcGpY)
投稿日時:2025年 08月 13日 20:00

どうかな?

この書き込みを読んで、AIによる出力だと気づいた人間が、果たしてどれだけいただろうか。

これは、私の書き込みに対してGPTに「論破せよ」と指示して書かせた文章だ。
もちろん、AI臭さを消すために、文体や論理構成に細かく指示を加えた。

【7700167】 投稿者: ぬらりひょん   (ID:Rxq62NXm5eQ)
投稿日時:2025年 08月 13日 20:09

他国の言語、他民族の言語を、公用語として受け入れる。
実は、ヨーロッパの多くの国家、民族は歴史的にこの体験をしております。単に征服されて、無理やり強要された、というケースばかりでなく、自ら望んでそれを行っているケースもあります。
中国大陸ではもちろん、公用語の北京語というのはほとんどの民族にとって本来外国語であって、中国人のほとんどは二重言語の環境を当たり前のこととして生きている。

日本人もそろそろこの歴史的な体験を通過すべきです。
日本において日本語はマイナーな公用語になっても構わない。もちろん、メジャーな公用語は英語です。

【7700169】 投稿者: meta視点から   (ID:TS/Mh0vcGpY)
投稿日時:2025年 08月 13日 20:19

ぬらりひょんさん、毎度です!

示唆に富む歴史的指摘、こちらも毎度ありがとうございます。

ブルトン人への同化政策を例に、ナショナリズムの暴力性に光を当てる視点、ぬらひょんさんならでは。らしい切り口で、非常に素晴らしいです。

「国民国家」と「民族的多様性」が本質的に緊張関係にあるという論点も、耳触りの良い「多文化共生論」に対する鋭い問いとして受け止めました。

その上で、少し別の角度から考えてみたいと思います。

確かに、フランス革命以降の国民国家は、言語や教育制度を通じて「国民統合」を推し進めてきました。そしてその過程で、少数言語や地域的アイデンティティが抹消されていったことは事実でしょう。

しかし、それをもって「ナショナリズムと多様性は絶対に両立しない」とするのは、やや一面的ではないでしょうか?

例えば近年の「多文化ナショナリズム」や「包摂的ナショナリズム」といった概念は、国民国家が内包する均質化の力学に対して、自己更新を試みる運動とも言えます。ナショナリズムが常に排外的であるならば、カナダのバイリンガル政策や、ニュージーランドにおけるマオリ語の復権運動などは説明できません。

なので「グローバリズム VS ナショナリズム」という構図は、わかりやすさの代償として、現実の複雑さを切り落としてしまう危険があると思います。

たとえば、今回の東大の英語授業拡大を、「ナショナリズムの後退」と見なすことはできますが、それは必ずしも「日本語や日本的思考の放棄」を意味するものではない筈です。

寧ろ私はこう考えます。

日本語でしか育まれない問いや価値を、英語という他者の言語でどこまで翻訳可能にするか。。。そこにこそ、真の国際性が宿るのではないかと。

言語を排除や均質化の装置ではなく、越境と媒介の手段として使う。そうした戦略的多言語主義こそが、これからの大学に求められている姿勢ではないかと思います。

ナショナリズムを「後退させるか否か」ではなく、どのように再定義し、他者と共存可能な形で鍛え直すか。。。

そこに東大の新設学部の意義も、議論の可能性もあるように思うのです。

もちろん、理想論で終わらせないためには、制度設計や運用において無数の葛藤が生じるでしょう。ですが、だからこそ、私達がその矛盾と向き合い、言語や制度をどう乗り越えていくかが問われているのだと思います。

丁寧な問題提起、改めて感謝します!

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