今年入学した高1生が語る青春リアル
東京大学が国際系新学部設立→国際系の学校が人気に?
東京大学 新学部開設:2027年秋
新学部名:「カレッジ・オブ・デザイン」
入試概要:
A方式(50名)
*大学入学共通テストの結果
*高校の調査書(または成績証明書)
*エッセー
*東大が指定する英語試験の結果などの書類
*英語による面接
B方式(50名)
*東大が指定する国際的な統一試験の結果
*複数の提出書類
*英語による面接
特定学校の誹謗中傷は厳禁でお願いします
今の東大総長は工学部(麻布高校出身)だから、グローバル化推進、目指せ世界一、で進めてるけど、次の総長がもしも法学部の先生とかになったら、今の流れは大きく変わるかもですね。
そうなったら、大学教員にもワークライフバランスを、とか言うのかな?
理系研究者の端くれとしては、大学教員は競争にさらされてナンボ、という気はするなあ。
キツイけど。
総長の出身や専門によって東大の顔つきが変わる。。。
あるあるでしょうね。
今回のグローバル路線も、工学部的な視点で世界と戦う方向に舵を切っている印象、うん。確かにあります。
もし法学部や文系出身の総長になれば、公共性や制度設計重視に振れるでしょう。
そうなれば、教員の働き方や大学全体の文化も含めて、今とは違うバランスが模索されるかもしれません。
まあでも、理系の現場が過酷な競争環境であるのは間違いないし、そこからしか生まれない成果もある。ある程度のキツさは宿命という気がします。
問題は、それをどう他の分野と接続するか?ですよね。どこかが突出しすぎても歪むし、全部を均せば面白みがなくなる。
そのバランスをどう取るか?
難しいけれど、そこが大学としての真価が問われるトコロなんでしょうね。
>この種の国際プログラムが掲げる「多様性」や「グローバル」の実態が、結局は東アジア出身の英語話者か、母語が日本語に近い家庭の子弟に偏ることも多い。
>言語を変えることと、文化的思考の基盤を変えることは別問題
>学外から突出した業績を持つ研究者を迎えるにしても、それ以外の既存教員の負担は増えざるを得ず、現場に蓄積されるストレスは大きい。
>現行の大学業務における時間配分や評価軸そのものの見直しが不可避だ。
>この新学部が描く『社会システムの変革』や『広義のデザイン』という理念が、実際の学生にとってどれほどの現実味を持つのかも不透明だ。
>社会にどう接続されるのか、どの産業領域がこの人材を必要とするのか、出口が曖昧なまま理念だけを振りかざすのは危うい。
これらの引用は、誰の投稿?
というか、誰への反論?
ご丁寧な一連のご説明、拝読させて頂きました。
構想が理念だけでなく、制度設計や人材選考、教育哲学にまで踏み込んだものであること、そしてすでに一定の成果や手応えが見えつつある点には、確かに希望を感じさせられます。
国内外からの多数の応募、学外との協働を組み込んだカリキュラムなど、理想を描くだけではなく、それに向けて具体的に手を動かしている様子も伝わってきます。
ただ、その理想的な設計に共感しながらも、現場で感じるのは、理念と実務の間にある時間差や重力差です。特に、既存の教員や制度にとっては、変わったあとの評価軸は見えていても、変わるまでの手間や負荷の担い手が曖昧なままでは、前向きな巻き込みはなかなか起こりません。
アクティブラーニングやプロジェクト型授業は、単なる工夫ではなく、構想と設計、伴走力のすべてを求められる重たい仕事です。そして、そうした教育が労力に見合う形で制度的に評価されるには、やはり少なからぬ空白期間が生じるだろうことも、想像に難くありません。
「触媒」という言葉が印象的でしたが、それが意味ある媒介として機能するには、現場との間に確かな信頼が必要です。
私が印象に残っているのは、以前主催のワークショップで、元開成学園長の柳沢幸雄氏が、自らを「ファシリテーター」と呼びながら、実際には子どもたちの沈黙や逡巡すら肯定的に拾い上げ、内なる思考を言葉へと変えていく「錬金術師(アルケミスト)」のようであったことです。
教育とは、知識を移すことではなく、まだ名づけられていない思考を言葉へと変換し、対話に接続する営みである。。。その感触を彼は、場の力で体現していました。
だからこそ、「教員をファシリテーターに」といった改革の方向性においても、その本質が単なる「支援役」や「運営者」ではなく、まだ言葉にならない素材を対話の中で生成する存在として構想されているかどうか、そこに大きな違いが生まれると感じます。これは、制度上の評価のあり方にも直結する重要な視点だと思います。
また、「多様性」や「グローバル」といった理念も、単に国籍や言語の違いを集めることで成立するのではなく、ぶつかり合う価値観や思考様式の中でこそ、本質的な学びが起きるという視座が必要ではないでしょうか。
言語支援の体制も含め、そうした摩擦の場を教育的価値へと昇華できる設計があってはじめて、理念は実装されるのだと思います。
出口の不透明さに対する懸念についても、「まだ存在しない社会」を創る構想だという理解はありますが、だからこそ、その社会を受け止める地ならしがどれほど伴っているかという視点も欠かせません。
大学の外にある受け入れる社会の準備なくして、新しい人材像が育っても、それが宙吊りになってしまう可能性は常にあります。
全体として、カレッジ・オブ・デザイン構想には、現代の大学教育に必要な多くの問いが含まれており、単なる制度変更ではなく、知の地形そのものに揺さぶりをかける野心を感じます。
が、その変革がやる気のある一部の教員だけに依存した形であれば、理想の持続性は脆くなります。理念を語る人と現場を支える人の歩幅を合わせる作業、そして、評価制度や文化の変革と並走する丁寧な設計と対話の積み重ねこそが、構想の本気度を裏打ちするものになると思っています。
そして私が願うのは、単なる知識の正解を越え、問いを生み出す力や意味を編み直す力を育む教育の実現です。
それは詩的知性とも呼びうる、人間だけに許された創造的な営みで、AIの時代だからこそ、より一層価値を持つものだと思います。
ななしさんの指摘、とても現実的で理解が深いです。
ランキング向上という国際競争の文脈で、英語の活用や海外優秀人材の獲得、給与・評価制度のグローバル化は避けて通れない課題ですし、その中で新設学部が一つの実験的挑戦として位置づけられていることも納得できます。
ただ、こうした「世界標準」への追随は、単なる数値競争に終わらず、「本質的に何を育てたいのか」という教育の根幹に対する問いを置き去りにしがちです。100名の小規模枠でペーパーテストでは測れない潜在能力をどう見極め、どう伸ばすかは非常に難しい命題で、同時に既存の教育文化や制度との間に必ず摩擦や時間差も生まれます。
ですから、ななしさんが言うように「取り敢えずやってみよう」という挑戦的姿勢は大切ですが、成功の鍵は単に数を増やすことや英語化だけでなく、現場の教員と学生が自らの考えを掘り下げ、言葉にし、対話を通じて深める、錬金術的な教育環境をどれだけ丁寧に設計・支援できるかにかかっていると思っています。
ランキング上位校が世界の優秀な研究者や大学院生を引き寄せるために、制度面のグローバルスタンダード化を急ぐのは理解できますが、教育の本質はそこにあるべき「問いを生み出す力」「意味を編み直す力」をどう育むかにこそあるのではないでしょうか。
だからこそ、この小さなカレッジ・オブ・デザインが「触媒」(@ペニントン教授さん)として機能し、大学全体に変化を波及させることに期待したいですし、その過程での丁寧な対話と制度整備の両輪が不可欠だと感じます。
失敗を恐れず挑戦しつつも、単なる「英語化」や「数値目標」ではない、もっと深い教育の未来像を見据えた実践になることを願っています。
元OB端くれとして 笑
非常に本質的なご指摘だと感じました。
東大がグローバルサウスに焦点を当てて人材を迎え入れようとしている動きは、表面的な国際化や多様性と言った、チープな演出ではなく、寧ろ知的世界秩序の再編という歴史的転換を先取りとなる、東大がグローバルサウスに焦点を当てて人材を迎え入れようとしている動きは、表面的な国際化や多様性といったチープな演出ではなく、知的世界秩序の再編という歴史的転換を先取りする、きわめて戦略的な一手と見るべきです。極めて戦略的な一手と見るべきです。
誰でも思いつきそうな、ありがちな一手?
いえいえ。
グローバルサウス。。。とりわけ南アジア・東南アジア諸国は、もはや「周縁」でも「成長市場」でもありません。
AI、生命科学、クリーンテック、宇宙産業といった次世代の基幹領域においては、彼らは自律的な知の担い手として、むしろ北側の旧中心を技術的・倫理的に凌駕しうる位置に立ちつつあるのですから。
こうした地域からの学生・研究者を迎えることは、単なるランキング向上の手段ではなく、日本という国がどの文明軸と未来を共にするのかという、極めて政治的かつ思想的な選択を示唆しています。
ここで重要なのは、それが一方向的な「人材獲得」や「囲い込み」であってはならないということです。
本質的に問われるべきは異なる世界観や知の体系を、日本社会が本当に迎え入れる準備ができているのかという我々の側の精神的成熟の度合いです。
形式的な受け入れではなく、異質な思考、異なる倫理、異なる歴史意識と真正面から交差し、摩擦を引き受け、そのなかで新たな共異性を構築していく胆力が問われている。
多様性とは、もはや「属性」の問題ではなく「異なる論理の共存可能性」という高度に知的かつ構造的な課題です。
包摂(inclusion)とは、異質なものを「同化」することではなく、自らが変わることを厭わず、むしろ自らの論理の可塑性を担保することです。その意味で多様性を受け入れるという行為は、知的な快挙であると同時に、倫理的・文化的な覚悟の表明でもあると言えるでしょう。
東大、ひいては日本の大学がこの挑戦にどう応えるか?
それは今後、単なる教育政策の次元を超えて、日本という国家の構えそのものを問うことになるでしょう。
少子化、経済縮小、そして長年依拠してきた同質性という幻想の破綻。。。
そうした不可逆の地殻変動のなかで、問われるのは誰を呼ぶかではなく、我々はどのような社会を共に構想しうるのかという未来形成に対する思想的意志です。
新学部構想とは、一つの高等教育機関の改革ではなく、知の未来に対する日本の責任を問う文明論的問いかけです。それが真に成功するかどうかは、カリキュラムや制度の完成度よりも、そこに関わる人々が、どれだけ世界と誠実に向き合い、自らの位置と論理を問い直せるかにかかっていると思います。
その意味で東大の試みは、グローバルサウスを受け入れるという外的方向よりも、我々はローカルとしていかに学ぶか、いかに開かれるかという内的方向の転換を迫るものです。
世界の周縁を自認することでしか見えない中心性を、あえて引き受ける。。。このパラドクスに耐える知性と倫理の構えこそが、いま日本の大学に求められているのだと感じます。
おっしゃる通り、構想には理念と実務の間で生じる様々な課題があると感じます。理想的な設計に共感する一方で、それを支える現場のことが気にかかるというのは、まさに保護者として自然な感情だと思います。
ただ、ペニントン教授のロンドン時代のご経験が、この構想の大きな土台になっていることがわかります。多様な背景を持つ学生が集まることで、「文化の異なる人は異なる考えをもたらしてくれる。それが最高のイノベーションにつながる」と語られていて、単に国籍や言語が違う学生を集めるだけでなく、その摩擦から生まれる学びこそが本質的だという、確固たる哲学があるように感じられます。
特に、強調されていた「スタジオライフ」という概念には、非常に期待できるのではないかと…これは、学生たちがチームでプロジェクトに取り組んだり、アイデアを交換したりする拠点であり、単なる教室ではないとのことです。まるでアーティストやデザイナーが使うアトリエのように、学生が日々集い、知的な交流を深める場になるようです。このような環境が、お話にあった柳沢先生のような「錬金術師」的な教育、つまり、まだ言葉にならない思考を対話の中で育む営みを可能にするのではないかと感じています。
先生方の負担についてご懸念されていましたが、今回の公募には世界中から700件もの応募があったそうで、これは、この新しい教育モデルに共感し、自らその「重たい仕事」を担おうと考える優秀な人材が、想像以上に多く存在することの証と思います。
東大の取り組みが実際に始まってからどうなるのか、という疑問もあるでしょう。
しかし、少なくとも、未来の東大生や、その親御さんたちは、この新しい試みに大きな期待を寄せているのではないでしょうか。
もちろん、理念と現実の差を埋めるには、時間も労力もかかるでしょう。
それでも、構想が単なる理想論で終わることなきように、具体的なアクションをもって課題に向き合おうとしていることには、何より心強さを感じます。




































