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東京大学が国際系新学部設立→国際系の学校が人気に?

【7697918】
スレッド作成者: 東大王 (ID:nMjSBSRGBB.)
2025年 08月 06日 17:57

東京大学 新学部開設:2027年秋
新学部名:「カレッジ・オブ・デザイン」

入試概要:
A方式(50名)
 *大学入学共通テストの結果
 *高校の調査書(または成績証明書)
 *エッセー
 *東大が指定する英語試験の結果などの書類
 *英語による面接

B方式(50名)
 *東大が指定する国際的な統一試験の結果
 *複数の提出書類
 *英語による面接


特定学校の誹謗中傷は厳禁でお願いします

【7700407】 投稿者: 生き残るために   (ID:G2vpbaaohAc)
投稿日時:2025年 08月 14日 15:25

日本の製造業の歩みを俯瞰してみるといろいろなことがわかる。日本の製造業は労務費等コストの安い場所で、勤勉な労働者と技術教育をセットで移転し続けてきた。

まずは韓台シンガポール香港、次に中国、その次に東南アジア、現在は南アジア。

中韓台等への技術教育の移転はやがて本家の日本企業のライバルとなって、やがて日本企業は負けることとなる。

コストや労働者を求める旅は現在の南アジアの次はアフリカの最貧国までいくのか今後問われる。つまり最後アフリカ最貧国までいってもペイしないような生産性のない企業は潰れるということ。

日本の製造業は付加価値を高める努力よりも生産コストを減らせるところへ次々と移転していった。皮肉にもこうした日本企業が移転してきた国々は順番に経済力が向上して来た。労務費コストが限界に達するとまた次の国に生産移転する。

これが実は東大のグローバルサウスの留学生フェアを開催する国と同じで、中韓台等を除くのは日本企業への雇用を含めた戦略と考えられる。

つまり、東大のグローバルサウスからの留学生受け入れは日本企業の橋渡し的な人材の育成を期待しているのではないか。日本企業の就職でも、日本企業との取引先でも良く、そうした人材を期待しているのではないだろうか。

【7700414】 投稿者: meta視点から   (ID:/IzrXfbMULE)
投稿日時:2025年 08月 14日 16:05

丁寧なレス、ありがとうございます。
教育の話からAPI活用の実践まで、いずれも示唆に富んでいて、まさに今、私たちが踏み込もうとしている「何でもありで、何も定まっていない地平」が、リアリティを持って伝わってきました。

そして、マスターキートン 笑
実は私もその第1話「は」、覚えています。
保険金殺人かなんかでしたよね?
イア。。。ではなかったけれど、確かにギリシャの素朴な港町のような場所が舞台だったかと。
「問いを生み出す力」としての考古学、歴史、文化、そして人間理解。。。まさに今の文脈とも重なって、久々に見返したく。。。まではいかないですがナツいエモい感覚 笑

私の浦沢作品の印象、尻切れトンボ感。。。
『20世紀少年』『朝ドラ!』しかり、必ず途中でふっと熱量が切れてしまうのが惜しいなと感じていたのですが、いや、単に私が飽きてるだけ?でもマスターキートンの一話完結形式の濃密さはある意味良き、ですよね。でもこの作品も途中でマンガもアニメも見なくなっちゃいましたがw

で、現実のギリシャ。
これはもう、是非!です。
円安下でも比較的コストパフォーマンスが高く、なにより視界に飛び込んでくる風景の美しさが桁違い。どこも「絵葉書の中で生きているような」空間。

今、あらゆる意味で「人間とは何か」を問い直す時代にあって、ギリシャの土地と文化が醸す人類の知の原点のような雰囲気は、意外なほど深い響きを与えてくれます。

APIを使いこなしながら、AIと共に生きる道を開く。その一方で、古代の石畳や神殿に思いを馳せる。。。その両方が共存できる感覚こそが、これからの時代に求められているのかもしれませんね。

また、ぜひいろんな話を交わせたら嬉しいですw

【7700417】 投稿者: meta視点から   (ID:/IzrXfbMULE)
投稿日時:2025年 08月 14日 16:12

ぬらりひょんさん

味わい深いコメント、ありがとうございます。
坂本龍馬の「日本を今一度、洗濯いたし申候」。。。この一文をあらためて見直すたびに、言葉に魂を乗せるということの凄みを感じます。
まさに当時の制度なき国に、言葉が先に未来を召喚していたのだと。

仰るように、彼らが創り上げた国民国家というフレームも、いまや大きな摩耗を見せつつある。
その意味で、現代は洗濯どころか、「繊維や染料、部品全てから織り直すフェーズ」に入っているのかもしれませんね。

「ガラガラポン」では確かに軽い。
せっかくなら私は、こんな言葉を試みてみたいです。

「風土の脱構築、記憶の再配線」

どこか哲学的で、それでいて実務的なにおいも残したい。単なるキャッチーさではなく、今あるものをいったん手放す勇気と、それでも再び織り直す意志を込めた言葉として、現代の「龍馬たち」に託せれば。

あたしも?いやいや30代はもう滅びゆく世代ですよ。未来は20代以下にかかっているし、私は彼らに期待しかありません。

言葉で始まり、言葉で更新されるこの国の未来。
私なりに、その一行一行を紡いでいけたらと思います。

また、思索の断片を交換できることを楽しみにしています。

【7700419】 投稿者: ぬらりひょん   (ID:Rxq62NXm5eQ)
投稿日時:2025年 08月 14日 16:32

>「風土の脱構築、記憶の再配線」


脱構築ときましたか!!
「風土の脱構築の後の記憶の再配線」
あるいは
「記憶の再配線としての風土の脱構築」
という意味ですね。
私なりの解釈ですが。

私には理解できるけど、他の人はどうかな??

【7700424】 投稿者: meta視点から   (ID:ZyWUTwvpQDs)
投稿日時:2025年 08月 14日 17:21

そもそもこのお盆の三重苦─酷暑・混雑、そして。。。何だ?
自分で言っておきながら、数が合っていない。三じゃなかったか?
こういう構文のズレに無性に愛おしさを感じてしまうのは、やはり私が人間だからだろう。

要するに、あの炎天下の中、わざわざ今さら大阪観光地巡りをしたのは、決してUSJや海遊館、ましてや万博が理由ではない。初動は、ある一枚のポスターだった。

大阪市街の片隅で見かけたそのビジュアルは、巨大なアンディ・ウォーホルの顔面が金属の台座の上に乗せられ、半ば宙に浮いたように佇んでいた。
台座は金属が溶けたように滴り、危うくも美しい。隣に立つ人物は、おそらく作者のカズ・ヒロ。

“Study:大阪関西国際芸術祭 2025 第2章:人・命への考察 リシェイプド・リアリティ ハイパーリアリズム 刻の50年”

この言葉たちが、一瞬で私を魅了した。

お隣の海遊館は、いわばついで。余白の整理。主眼はあくまで、天保山の大阪文化館で開催されていたこの展覧に、私の身体を投げ込むこと。

カズ・ヒロ。
特殊メイクの神としてハリウッドで確固たる地位を築き、オスカーを二度受賞した異才。
彼は「辻一弘」という名前を捨て、日本国籍も手放し、アメリカ市民となる道を選んだ。

「人間関係に悩んでいた」「日本にいたままでは個として生きられない」。。。そう語った彼の発言には、日本という共同体に対する決定的な絶望を読み取った人も多かっただろう。私もその一人。

だからこそ、今回の展示が持つ意味は、単なる「芸術祭への参加」では済まされなかった。

私にとっては、カズ・ヒロという才能と、日本という国、いや「場」あるいは「間」との再接続が可能なのか。。。という問いだったのだ。

思い返せば、2023年に流れてきたNHKアカデミアの告知。
彼の自宅スタジオからの生配信、受講者の質問にも答えると。
それまでメーキャップアーティストとしての彼しか知らなかった私が、彼の現代美術家という側面を知ったのもそのタイミング。だが一番の衝撃は。。。

「え、彼が日本人の質問を受けるの?」

という驚き。
あれほど痛烈に国籍を切り捨てた彼が、日本と再び交差しようとしている?
それは単なる帰還や和解ではなく、より精妙で危うい接触のように感じた。

今回の展示作品群は、生々しすぎるほどリアルな「顔」を通して、「人間とは何か」を問い直す構造を持っていた。
それは、「リアルすぎる」ことによって逆説的に「生の不確かさ」を浮かび上がらせる試みでもあるだろう。

時計好きでもある私が最も愛する時計が、カルティエのタンク。
フランセーズ、アメリカン、WG、YG、ダイヤあり、なしetc.様々持っているが、原点は「ウォーホル」。

本名アンドリュー・ウォーホラ(Andrew Warhola)

タンクをこよなく愛する「タンキスト」として知られている彼の名言。

「タンクを巻くのは、時間を知るためじゃない。身に着ける最高の時計だからさ。その証拠に、僕はゼンマイさえも巻かないのだから」。

ポップアートの雄、現代アートの元祖と言っていい彼の影響を、現代アート好きの私が受けないわけがない。

かくいう私も、腕に嵌めながら「なんて美しい造形だろう」と惚れ惚れするだけで、大概時間を見ていない 笑

タンキストとしての彼から知ったタンクは、その後、同じタンキストのダイアナ妃と繋がり、彼女も好きになり、彼女の執務室に飾られた「吉田博」の版画に出会い、これもコレクションし、彼の版画からインド、東南アジア、グランドキャニオン、ナイアガラ、レーニア山に聖地巡り?するという壮大なストーリーにつながる。。。笑

私の人生に多大なる影響を及ぼした彼に、立体造形として邂逅できるのは、単なる美術鑑賞の枠を超えた感動がある。

ともかく美しい。
彼自体の存在が、佇まい、表情、ポージング。。。毛穴からもにじむアート。

写真撮影OKの展示で全方位何百枚と写真に収めたけれど、どこを撮っても、ピントがずれようが見切れようが、彼が画角に入るだけでアートになる。
圧倒的な存在感。それを支えるカズ・ヒロの超絶リアリティと造形美。

彼がなぜアンディをモチーフに選んだのか?ファンでなかったとしても、彼の存在そのものにアートを見いだす感覚は、烏滸がましくもシンパシーを感じてしまった。いや、アカデミー受賞者捕まえて本当に烏滸がましいが過ぎるw

うーん。来て良かった。¥2,500はこの一作品だけで元が取れたお買い得感。ご馳走様。

この体験を、私は個人的な記憶とどうしても重ねてしまう。

日本は、なぜこの才能を手放したのか?

カズ・ヒロだけではない。
ノーベル賞をとった研究者たちは皆、日本のアカデミズムから離れていった。
村上隆は国内の芸術文脈ではむしろ煙たがられ、李禹煥も草間彌生も、海外で評価されてようやく逆輸入された。

この国はいつから、こうも異物を扱えなくなったのだろう。

東大のカレッジ・オブ・デザイン構想に私は希望を見出しながらも、同時にその「構想の先にある摩擦」や「重力差」に繰り返し言及してきたのは、結局この構図への疑念があるからだ。

理念は響きがいい。
だが、理念を担う現場の「手間」や「疲弊」は、誰が引き受けるのか。
理念を語る人と、現場で学生と向き合う人とのあいだで、その「顔」は見えているのか。

カズ・ヒロの作品は、そういう意味でも象徴的だった。
顔がありすぎるということは、逆にそれが仮面である可能性を孕む。

「支援者」「ファシリテーター」「アルケミスト」。。。教育の場で使われるこれらの言葉にも、しばしば「顔」が与えられすぎて、本質が見失われてしまう瞬間がある。

展示室で、私はふと思った。
カズ・ヒロは本当に「日本を見限った」のだろうか?
日本国籍を捨てたことと、日本社会への絶望は、イコールだったのか?

むしろ彼は、誰よりも「顔」つまり「人間を構成する記憶や苦悩や尊厳」を愛しすぎたが故に、あの国籍を手放さねばならなかったのではないか?

そうであるならば、今回彼が大阪の熱波の中に展示という形で現れたことは、芸術による一種の「再交渉」なのではないかと思えてくる。

彼を日本が再び受け止めるのではない。
日本が、ようやく顔を見てくれる場所になれるかどうかを、試されている。

だから私は、今回の東大構想にも、今の日本社会にも、問いたい。

その「顔」を見る覚悟があるか?

理念ではなく、制度でもなく、その制度の中で傷ついたり、孤立したり、耐えている「顔」を、真正面から受け止める覚悟があるのか?

それができないまま、「多様性」「グローバル」「新しい才能の包摂」を語っても、すべてはまた「仮面」になるだけだろう。
日本はいつまでこのマスカレードに浮かれているつもりなのだろう。

私が大阪観光地巡りに至った本当の理由は、そこにあった。
そして、その熱波の中で立ち尽くすことでしか受け取れない「問い」が、確かにそこにあったのだ。

この国は、「顔」を直視する覚悟があるのか?
それとも、仮面のまま、次なる才能をまた見送るのか?

【7700425】 投稿者: 東大の危機感   (ID:G2vpbaaohAc)
投稿日時:2025年 08月 14日 17:28

東大は前々総長時代に秋入学をぶちあげた大学。あの失敗で学び、慎重に改革を成し遂げている感じ。

前総長時代には学校推薦を導入。

現在の総長は東大工学系大学院の原則英語授業化、東大新学部の創設と着実に改革している。

大学は企業と違って中小企業のおっさん研究者が集まっている感じでガバナンスがききにくい。

だけど、東大工学系大学院の原則英語授業についても4割程度しか英語授業でなかったものを今年度6割、来年度8割に引き上げる等、学内の教員の反対があっても賛成する者が多数だったというように、英語授業にすることのメリット等を十分説明しながら学内調整をした経緯が記事から感じられた。

つまり、どの総長、研究者であっても東大は改革していく必要や危機感を持っているのではないか。改革については必要性については理解するものの、現場でできるのかどうか等の課題があったものと思われる。

新学部も理想は高いがどこまで実現できるかは未知数。ただ、従来学部も将来的には新学部が目指すべき方向性で改革していくことになるのではないか。その成否は新学部の実行力、成果にかかってくる。

【7700430】 投稿者: ななし   (ID:2YvYbDhRESg)
投稿日時:2025年 08月 14日 17:50

>ノーベル賞をとった研究者たちは皆、日本のアカデミズムから離れていった。

理由は単純に、待遇(給与、研究費)が圧倒的に違うから、と想像します。
たとえば、スイスの2番手の大学から教授を引き抜こうとしたら、5倍くらいの給与差があり、難しいことになったと聞きました。
スイスの1番手のETHの退職金は3億円くらいです。
そのスイスの大学の人たちは、有能な教授たちがMITやハーバードに引き抜かれることを警戒してます(つまり、それ以上の待遇が予想される)。

日本の物価が安いとはいえ、この待遇面の差はどうなのかな、と思います。
僕も、もしも、ノーベル賞を貰ったら、海外に行くと思います(可能性は低いですが)。

東大では、今後、教員間の待遇に差をつけていくようです。
しかし、ちょっと聞いた話では、高くても2-3000万程度らしいです。
大学ランキングトップ10に入るためには、給与ランキングでもトップ10に入らないと難しいだろうし、そのためには教授の給料を1億円くらいにはしないと難しい気がします。
そうなると教授給料の格差が10倍かぁ。
まあでも、大企業の社長の給与は数億円はくだらないんだから、名物教授の給与が3000万では安いよなあ。

世知辛い話だなあ。
まあでも、大学ランキングを上げる、というのは、そういうことなんだと思います。

【7700432】 投稿者: meta視点から   (ID:KjWo8qCU8N2)
投稿日時:2025年 08月 14日 18:03

生き残るためにさん

再びの深い視点の共有、ありがとうございます。
製造業の生態史とも言うべきその分析、含蓄に富んでいて思わず頷かされました。

まさに日本の「国策としての産業移転」が辿ってきた軌跡を、俯瞰して見ると、経済合理性と人材育成という表裏一体のドラマが浮き彫りになります。
教育と産業、そして労働力と市場という循環は、つねに「移す側の都合」と「移された側の進化」の交差点で動いてきたわけですが。。。

日本企業が、結果的に自らの後継者(時に対抗者)を育ててきたという皮肉を直視することこそ、次の段階に進む鍵なのかもしれません。

>中韓台等を除くのは日本企業への雇用を含めた戦略

このご指摘、鋭いです。おそらく東大新学部のグローバルサウス戦略の中にも、表向きのアカデミックな理念とは別の、人材供給網としての地政学的な設計図が存在するのでしょう。
それは、もはや知の交流という綺麗な物語では済まされない、日本というシステムの生存本能とも言えるのかもしれません。

ただ一方で、日本にとって彼らが人材である前に、人間であるという発想への転換ができなければ、いずれ今度は「彼らに見限られる側」になる気もしています。

そしてそのリスクは、教育のあり方や、アイデンティティの扱い方、社会の包摂力と直結するものです。
優秀な人材は、優遇される場所に向かう。扱い方を誤れば、日本の大学は、企業と同じく素通りされる道を辿るのかもしれません。

私が大阪芸術祭で心を揺さぶられたカズ・ヒロ氏も、まさに日本の「人材観」「制度観」に収まりきらず、国籍そのものを自らの意志で選び直した人でした。

東大の新学部が本当に新しい知の構築を掲げるなら、そこに集う未来の他者たちを、制度内の労働力としてだけでなく、共に世界を更新する創造の当事者として迎えられるか。
その思想的な転換が、いちばん根幹に問われている気がしています。

また刺激的な視点、楽しみにしています。

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