今年入学した高1生が語る青春リアル
東京大学が国際系新学部設立→国際系の学校が人気に?
東京大学 新学部開設:2027年秋
新学部名:「カレッジ・オブ・デザイン」
入試概要:
A方式(50名)
*大学入学共通テストの結果
*高校の調査書(または成績証明書)
*エッセー
*東大が指定する英語試験の結果などの書類
*英語による面接
B方式(50名)
*東大が指定する国際的な統一試験の結果
*複数の提出書類
*英語による面接
特定学校の誹謗中傷は厳禁でお願いします
ここは中学受験板なので、もう少し現実論として、日本の中等教育においても、知識やその応用能力を評価する筆記試験のみの一般選抜入試対策をしているわけではもちろんない。
探求学習、グローバル教育、メディカルサイエンス、リベラルアーツ等、学校によって様々な特色がある。
クリティカルシンキングを一部学ぶ教育もある。
リーダー教育、起業家教育、全人格教育等、中等教育も大学も各学校ごとにアドミッションポリシー、カリキュラム、教育環境、特色を競いあい、入試もそれに合う学生を選抜するようにしていくのが良いのではないか。
そういう意味でも大学は、答のある知識やその応用能力のみの筆記試験による選抜ではなく、学力に加え、論文や面接、書類審査、学校の調査書等多面的に能力を評価する仕組みにしていくのは合理的だし、実際、大学は総合型選抜入試や学校推薦の割合を増やしている。
日本の中等教育においても、すでに多くの学校で「単なる筆記試験対策」にとどまらない教育が行われていることは、私も重要な点だと考えています。
探究学習やグローバル教育、リーダーシップ教育など、それぞれの学校が特色を打ち出し、アドミッションポリシーに沿って選抜と教育を設計している現状は、むしろ今後の大学教育のあり方とも密接に連動していくべきだと感じます。
その意味で、大学が学力一本ではない、より多面的な評価手法を導入していることは、非常に自然な流れで、歓迎すべきものと考えています。とくに「知識量やその応用」だけでは測れない、クリティカルシンキングや課題発見・解決力といった資質・能力をどう見抜き、どう育てるかという問いは、初等・中等・高等を問わず、今後の教育の根幹を成す課題の一つになると思います。
だからこそ、中等教育の変化や多様化が、大学側の教育とどのように接続していくのか。。。この点をもっと丁寧に議論し、制度設計と現場の実態とを結びつけていく必要があると思っています。
ご指摘いただいたように、大学入試改革の本質は、「受験制度をいかに変えるか」ではなく「どのような人物を社会に送り出すか」という出口の設計にこそある筈なのです。
そのために、入試という入り口もまた、問い方・選び方のバリエーションを持たねばならない。
こうした理念が単なる美辞麗句に終わらず、制度としてきちんと信頼に足る形で運用されること、その仕組みに対する国民的な理解や納得が醸成されることも、極めて重要だと考えます。
現場に根差したご意見を拝読しながら、あらためて制度と現実の接続の必要性を再認識しました。
ご指摘感謝申し上げます。
新学部の入試概要を見ると、アメリカの学部入試と同じような対策でいけるのかな?
しかし、アメリカの学部入試は、将来大学に多額の寄付金を送ってくれそうな人、というのを採点基準に取り込んでるらしいけど、日本ではそれは難しいだろうな。
やっぱ、共通テストの点数と英語テストでかなりな程度足切りして、エッセーと面接で、ヤバそうな受験生を少数落とす感じになるのかな。
どんなのが入学してするのか、興味深いね。
欧米型ミニ東大が成功するのか、お手並み拝見
ななしさん、示唆に富むご指摘、いつもありがとうございます。
今回の新学部の入試設計、確かに構造的には米国型のアドミッションに近づけてはいますが、制度の骨格とその運用がどこまで文化の違いを越えられるか、そこに本質的な難しさがあるように感じます。
米国型入試では、試験や評定という測定可能な指標に加え、受験生が所属してきたコミュニティに何を還元してきたか、どのような視点や問題意識を持ち、それをどう言語化できるかという、いわゆる「ナラティブな資質」が重視されますよね。
加えて、仰るように大学と将来的にどのような関係を築けるか(=寄付を含めた貢献可能性)という暗黙の評価軸もある。
ただし、この「ナラティブ評価」を日本の教育文化に接ぎ木しようとする際、二つの困難があると思います。
ひとつは、エッセイや面接を評価可能な素材として扱う制度的リテラシーが、まだ評価側に十分に蓄積されていないこと。これは、単なる採点技術というよりも、読むべきものを読む力、語られたものの背後を読む訓練の欠如という意味で。
もうひとつは、受験生側がそれに応答可能な語彙と自己認識をどう育んできたかという問題です。
高校教育における探究型学習の広がりはあるとはいえ、その言葉の鍛えられ方は非常に非対称的です。都市部・高所得層の教育環境で初めて成立するような言語実践が、選抜の基準に持ち込まれることのリスクもあります。
その上で、もしこの制度が「うまくいく」とすれば、それはミニ東大としてではなく、東大という場の一部を開いて、他の東大と異なるルールで知を編んでいく場所として定着していくときではないでしょうか。
つまり、誰が入るかによって何が問われるかの地平そのものが少しずつ更新されていく、そういう動態をこの新学部が担えるかどうか。
現時点ではまだ「異物」であって「実験」に近いですが、だからこそ、この異物が組織全体にどう作用していくのか。
見届ける価値はあるように思います。少なくとも、制度が「個」の語りを評価しようとすることの困難さと希望、その両方が露わになる場として。
あはは。
並べてみると確かにすごい価格差。
駄菓子と、ちょっとしたフルーツ1個と言う感じ?
確かに、純然たる数字で比較すれば、年間50万円の東大と、1000万円規模も珍しくない米国の大学。桁が違いますね。
お得感は圧倒的ですが、ここで問われるべきは「何が価格差を生み出しているのか」、或いは「この価格差は何に対する対価なのか」というところかもしれませんねぇ。
米国の高額な学費は、大学が「教育サービス業」であるという明確な自覚のもと、教育環境・人的資源・進路支援・人的ネットワークまでを含めたトータルパッケージの提供に裏打ちされています。
キャンパスや研究設備も、いわば商品価値の一部ですね。日本でも校内を自転車でというのはありますが、アメリカだともう小さな町という規模だったり。
一方、東大をはじめとする日本の国公立大学では、「教育の公共財性」が今なお基本線です。国家がその一部を支えることで、知の機会均等を担保しようという前提がある。
ただし、だからといって「50万円の学費=950万円分の価値が削られている」とも言い切れませんし、むしろ、大学に何を求めるのかという目的意識によって、その価格と価値の関係は大きく変わってくる気がします。
或いは逆に、日本にあって高くつくのは、学費よりも、受験競争や進学過程における精神的・時間的コストなのかもしれません。
どちらが「得」かは、正直言ってそれほど単純な気はしません。
何に対してどのコストを支払っているのか、という問いからこそ見えてくるのかもしれませんね。
なぜ、いま東大がカレッジ・オブ・デザインを設置するのか?
そしてこの構想は、本当にひとつの新設学部にすぎないのか?
入試制度やカリキュラムの設計も重要だが、それ以上に見逃せないのは、大学とは何かという問いそのものが、静かに更新されようとしているということだと思う。
かつて大学は、知を体系化し、世代を超えて受け渡す場だった。
だが今は、知が効率の良い手段として消費される傾向が強まり、学ぶこと自体が目的ではなく、成果へ至るプロセスとして位置づけられがちになっている。
そうした流れのなかで、あえて「デザイン」という言葉を冠していることには意味があると思う。
それは設計や造形といった限定的な意味ではなく、社会の仕組みや制度の前提にまで遡って、それをどう組み替えられるかを考える枠組みとしてのデザインだ。
問いが制度をかたちづくり、制度が問いの在り方を変えていく。
その循環をどこまで意識的に組み込めるか。
もしこの学部が、そのような構造に自覚的であるならば、既存の学問領域の枠に収まらない、ひとつの知の実験装置になりうる。
大学とは、知識を教える場にとどまらず、社会のかたちをどう描き直せるかという問いに向き合う場所でもある。
そうした原点に立ち返ろうとしている動きにも見える。
ここ数十年、日本の大学制度は、形式を維持する一方で、実際の現場での応答力を失いつつある。
これに対して、制度を全面的に作り変えるのではなく、既存の中に異なる文法を差し込むことで揺さぶりをかけようとする今回の構想は、かなり踏み込んだ挑戦でもある。
これは成功するかどうかという話ではない。
生き残るための改革かどうかでもない。
むしろ本質的なのは、大学が大学であるとはどういうことかを、あらためて問う契機になるかどうかだ。
そしてもうひとつの焦点は、ここに集まる学生たちがどのような問いを抱え、どこから来るのか、という点にある。
誰が学ぶかということが、その場のかたちや意義そのものを変えていく。
それは選抜制度の設計以上に、大学という空間の意味を左右するものになるだろう。
だからこそ問うべきは、この学部が成功するかどうかではなく、ここによって何が問われ始めたのか、ということだ。
その問いに、私たちがどう向き合うのかが試されている。
この学部に、どんな問いを持つ学生が集まるべきか。
私たちはそこに、何を期待し、何を見届けるのか。
シンプルに言えば、ここに集約されると思う。
皆さんのお考えを伺いたい。
ペニントン教授による東大改革という側面が大きく感じる。
米国の起業家の半数以上は移民と言われる。東大改革も移民外国人教授による改革という側面がある。
なぜ移民が優れているのか?それは母国と日本の違いを良く知っているからという側面もある。
今回のケースでいえば、英国の教育と日本の教育の違いを良く知っている上、起業家でもあり、世界の様々な動きについて良く知っている。日本人ならプロダクトから入るのに、デザインからという発想は恐らくなく、気づいたとしも時間がかかっただろう。
こうした大学改革という視点でも、多様な視点や能力、バックグラウンドを有する人材が不可欠なのはわかるだろう。日本人には当たり前なことを問うことで改革する。移民の強さは、日本人の当たり前なことを素通りすることなく問う力があるからだろう。
日本も留学生や外国人高度人材等、米国のように移民を活用することの重要性を知った方がいい。




































