今年入学した高1生が語る青春リアル
東京大学が国際系新学部設立→国際系の学校が人気に?
東京大学 新学部開設:2027年秋
新学部名:「カレッジ・オブ・デザイン」
入試概要:
A方式(50名)
*大学入学共通テストの結果
*高校の調査書(または成績証明書)
*エッセー
*東大が指定する英語試験の結果などの書類
*英語による面接
B方式(50名)
*東大が指定する国際的な統一試験の結果
*複数の提出書類
*英語による面接
特定学校の誹謗中傷は厳禁でお願いします
成果主義より年功序列に回帰、
という記事で
毎年新入社員の意識調査して36年目の今年ではじめて成果主義より年功序列を望む人がうわまわったという内容。
終身雇用を望む人も増加傾向とのこと。
企業は若手の育成で大変だ、成果主義や出世に関心が低く、年功序列や終身雇用に回帰する中、日本人は少子化で採用できなくなっていく。
優秀な外国人はこれではすぐにやめてしまうだろうし、年功序列や終身雇用を続けるのはリスクが高すぎる、というか、日本人を採用できなくなるので、大学と同様潰れていく。
結局、大学も企業も優秀な人材を受け入れていかないとならないので、東大新学部が成果を出せば、他大学はそれを真似ていくだろう。
そういう意味でも、東大の新学部や東大大学院の英語授業は成功モデルになってほしいところ。
日本の少子化のスピードは凄まじく、出生数で100万人割れで大騒ぎしたのが8年前。今や68万人とたった8年で30万人以上も減少した。
大学は今や半数以上定員割れで赤字。持続可能ではなくなっている。今後多くの大学が潰れていく。大学が潰れると地域社会は崩壊していく。地方の大学、自治体、企業等はインド等とMOUを締結して外国人受け入れに必死。
コメも供給不足が隠し続けた農林水産省の罪は重い。農家の70%以上が70歳以上なのだから、早晩コメ等をつくる人はほとんどいなくなる。
だから食料品等のインフレは今後も続く。
製造業等も同じで中小企業の多くの経営者は70歳以上。こちらも供給不足で食料品等と同様、インフレが続くだろう。
もはや日本は大学、企業、社会も抜本的に改革しないとインフレの津波で多くの家庭が破綻するかもしれない。
記事、拝見させて頂いた。情報感謝。
「年功序列回帰」を単なる若者の保守化と断じるのは早計だろう。
寧ろこれは、成果主義という名の人件費抑制策に対する冷静な拒絶と言っていい。日本の成果主義は往々にして、評価基準の曖昧さや経営側の恣意性を隠蔽する装置と化しているケースも少なくない。
限られたパイの奪い合いを強いられ、教育やナレッジ共有といった本来組織が担うべきコストまで個人に転嫁される構造に、若者は気付き始めているのだ。
震災やパンデミックを経験した世代は、制度的安心こそが持続可能な成長の土台だと悟った。彼らが求めるのは挑戦の否定ではなく、努力が確かに報われるという物語への回復である。いや、社会と個人の信頼関係との再接続というべきか。
高い初任給と低い生涯賃金上昇という現実を前に、若者にとって、年功序列はむしろ合理的選択肢とすら映る。
企業が直面する本質的課題は、制度の二項対立ではない。多様な人材が共存し、長期視点と挑戦を両立させる、新しい組織の物語を如何に構築するかだ。外国人材の流出リスクを嘆く前に、自らの評価制度の信頼性を問うべき時が来ている。
かつての年功序列が約束したのは、単なる安定ではなく、努力と時間の不可逆的な積算を社会が承認するという形而上の契約だった。
現代の若者が渇望するのも、そうした『時間の倫理的扱い』についての確約ではないだろうか?
少子化で大学が潰れる?たしかに事実ではあるけれど、その先を考えないと議論が浅くなる。
今の大学は「数が多すぎる」「定員割れが加速している」と騒がれる一方で、佐賀県武雄市のように、あえてこの時代に新設構想を進める自治体もある。
なぜか?
大学が地方にとって「教育機関」以上の意味を持ち始めているからだ。
武雄アジア大学や県立大学の構想は、学生のため以上に、地域社会の持続可能性のための装置として位置づけられている。医療や雇用や人口定着と不可分に結びついているのだ。
三重県で立ち消えた県立大学構想と対比すれば、これはただの温度差ではなく、「大学」という制度に何を託すかという行政哲学の差ですらある。
だからこそ問うべきは、「大学が減るか否か」ではなく、「大学が何を担うべきか」という方向の問題だ。
もはや少子化によって若者が集まる場所は都市部の大手私大だけになる。そこに集中することで得られるものもあるが、失われるものも確実にある。地方の教育・福祉・労働市場とのリンクが切れていくことで、地域社会の崩壊は加速する。
ならば地方大学の役割は、教育の競争機関ではなく、地域存続の核としての「ハブ」へと再定義されるべきではないか?
逆に言えば、人口減を前提とした「選択と集中」の発想そのものが、都市と地方の二極化をさらに促進し、結果として国家全体の統治困難を加速させている可能性がある。
人口構造が大きく変わっていくこれからの時代、大学という制度もまた変質を求められている。
数が減ることは避けられない。しかし「潰れる」だけではない。形を変えて、生き残る。むしろ大学とは、そうした制度変容のための試金石なのかもしれない。
医療も、教育も、そして労働も、すべてが「人がいなくなること」を前提に設計され直されなければいけない。大学がどうなるかは、その最前線の問いなのだと思う。
日本一志願者の多い中学は、今まで栄東だったのだが、今年開智所沢、開智が栄東を抜いた。開校して2年目なのに、日本一になるには理由があるのだろう。
探求学習、グローバル、サイエンスメディカルという特徴を取り入れている。今はどういう教育を受けさせたいか、で中高を選ぶ保護者や子どもが増えている。
他方、男女御三家は志願者数が揃って減少、難関校の出願者が減少しているので安全指向といわれたが、直近では探求、サイエンス、メディカル、グローバルなどの特色を打ち出している学校が選ばれている。
大学入試が筆記試験の減少により、総合型選抜入試や学校推薦を狙いやすい学校が選ばれているのかもしれない。
開智所沢の志願者数が全国一になった背景には、明確なマーケティング戦略、そして受験環境そのものの地殻変動があると思う。
開校2年目という点を殊更強調する向きもあるが、今の首都圏中学受験においては、校歴の長さよりも出口戦略と教育設計の実利が問われている。首都圏模試センターや日能研などの分析を見ても、大学合格実績ではなく、探究活動や推薦型入試への親和性に焦点が移っている。
栄東や淑徳与野といった従来の大量受験校は、合格実績を量で示すモデルだった。一方、開智所沢は開校当初から、探究型学習、サイエンス・メディカル系の進路提示を前提に広報戦略を組んでいる。Z会やSAPIX系保護者層が意識している「総合型選抜に耐える力」を、カリキュラム設計の中で明示的に打ち出している。
これは、御三家を含めた既存の難関校が抱えるモデルの古さを、逆手に取ったとも言える。
御三家の志願者減少は安全志向と一括りにされがちだが、実際には中学受験における偏差値信仰そのものが、時代との接続性を失い始めている。
特に2020年代に入り、開成や桜蔭に進んでも、その先にある東大一本足打法だけでは立ち行かない現実が、保護者層の中に浸透しつつある。東大推薦の枠を巡る熾烈な競争、海外大学進学の一般化、そしてAI時代における非認知能力の比重——そうした流れを読み、10年後の社会に与えうる強い人材像を先取りしようとする視座が、家庭側に明確に立ち上がってきている。
総合型選抜や推薦入試は、今や国立大を含め年々拡大している。高校段階でのプレゼン力や課外活動、探究の積み上げは、入試の周縁ではなく中心に据えられつつある。となれば、当然ながら中学段階からその布石を打てる学校が評価される。
探究、論文、課題解決といった要素を、授業の中に自然に織り込める学校設計が、いま中学受験市場で「意味を持って」選ばれている。
志願者数の増減を、単なる人気やブームの話に矮小化すべきではない。今の中学受験は、かつての偏差値・実績・安定就職といった昭和型の回路では、すでに動いていない。
保護者も子どもも、思った以上に冷静で、社会構造の先を読もうとしている。目の前の点数よりも、その先の地図を手繰ろうとしている。その目線に、従来型の学校設計が追いつけなくなってきているだけの話かもしれない。
そして。。。
この変化は、静かに、だが確実に広がっている。
「どこに入るか」ではなく、「どこから育つか」。
選ばれる学校は、変わったのではない。
選ぶ目が、変わったのだ。
ご意見、拝見しました。
ただ、「少子化で異端を増やさざるを得ない」という言い回しには、いくつかの前提の飛躍があるように思えます。異端の出現と、許容とはまったく別の話です。
社会が異端を受け入れるかどうかは、人口の多寡ではなく、価値観と制度の設計次第です。人数が減るから自動的に許容が進むわけではない。
実際、戦後の日本は今よりはるかに人手不足でしたが、それは多様性の促進にはつながりませんでした。むしろ、異端を潰して均質性で乗り切ることが求められた時代です。
そもそも、人が減ったから個を尊重せざるを得ないという発想には、どこか他責的な諦念が漂います。それは本質的な社会変革ではなく、余儀なく変わる日本型の受動性にすぎない。そしてその先にあるのは、異端の活用ではなく、異端風の労働力の一時的搾取になりがちです。
異端を活かす社会とは、本来、認知・制度・文化の三点が合致して初めて成立するものです。構造がなければ、ただの偶発で終わる。人口減少の進行とは、本質的には別の議論です。
私の身近な例で言えば、かつては安定志向の象徴だった医学部にも、確実に変化が見え始めています。父、兄の母校、東大理IIIに入っても医師にならない、あるいは医師免許を持ちながら、金融やコンサル、起業に進む人もいる。マッキンゼーに行ったDr.穂澄氏のような例は、レアではあっても、もはや激レアではない。私の母校でも、二足のわらじで全く異なる分野に軸足を置く人は少なからずいました。
もちろん、こんな匿名掲示板の情報を誰もが信じるわけではないでしょう。けれども、信じなくて構わないのです。重要なのは、「知っていたかどうか」という事実の方にあります。
仮に眉唾で聞き流したとしても、数年後、実際に医学部から起業した人物に出会えば、その印象はまったく変わるはずです。既知か否か。そのわずかな空気の差が、受容性に差を生み、やがては空気そのものを変えていく。まさにバタフライエフェクトのように。
社会が変わるとは、決して法律が一夜で改正されるような瞬間ではなく、些細な違和感や逸脱が、幾重にも折り重なって空気を変え、やがて既成概念の地盤をゆっくりと侵食していく過程そのものを指すのかもしれません。
小さな違和が亀裂になり、やがてそれがダムを穿ち、崩す。
異端を許容する社会とは、誰かが旗を振ってつくるものではなく、そうした小さな「知っていた」の積み重ねの先にしか、現れてこないのだと思います。
異端が異端であり続けること。
それは、世界にとって不便で、社会にとって面倒で、しかし人間にとって、唯一まっとうなことかもしれない。
時に誤解され、ねじ曲げられ、消されることさえあるその輪郭に、それでも火が灯っているのなら、私たちはもう少しだけ、言葉を信じていい。
異端は、数ではない。
燃え尽きるその瞬間まで、自らでいられるかどうか、ただそれだけ。




































