今年入学した高1生が語る青春リアル
東京大学が国際系新学部設立→国際系の学校が人気に?
東京大学 新学部開設:2027年秋
新学部名:「カレッジ・オブ・デザイン」
入試概要:
A方式(50名)
*大学入学共通テストの結果
*高校の調査書(または成績証明書)
*エッセー
*東大が指定する英語試験の結果などの書類
*英語による面接
B方式(50名)
*東大が指定する国際的な統一試験の結果
*複数の提出書類
*英語による面接
特定学校の誹謗中傷は厳禁でお願いします
続けてご返信、拝読しました。
おそらく、見ている風景の方向には齟齬はないのだと思います。ただ、その輪郭には、やや異なる陰影が宿っているように見えました。
確かに探究や推薦型入試への親和性が学校選びの軸になってきている。それは間違いありません。けれど、その理由を「先を見据える保護者が増えたから」と表するのは、やや性急な気がしています。
保護者が先を読むようになったのではなく、先を読まざるを得なくなったに近い。
そこにあるのは、むしろ不安の裏返し。その払拭です。偏差値の順位が意味を失い、学歴の型が崩れてきているからこそ、評価不能なものを評価しようとする力学が働いている。
言い換えれば、評価軸の移動ではなく、そもそも評価軸が見えなくなったことが、今の選択行動を駆動している。志向ではなく、空白による移動です。
出口実績より探究、偏差値より非認知、数値より物語。これは決して前向きな革新ではなく、正解の喪失。そしてその正解不在の時代に、子どもを預ける場所として何を信じられるのかという問いでもあります。
それを保護者たちが模索している。開智所沢が選ばれたのは、そうした空白への一つの応答だったのかもしれない。
方向としてはまったく同じです。けれど、その根底に流れているのは、前進の意志ではなく、土台の崩落への対応。
選ぶ力というより、選ばざるを得なかった状況こそが、今の変化の正体だと思います。
どこを信じるか、ではなく、何ならまだ壊れていないか。
今の保護者層は、その問いの前に立たされているように見えます。
「よりマシ」を選ぶゲーム盤は傾いていて、止まることができない。俯瞰で見れば、そんな状況ではないかと思います。
ご投稿、興味深く拝見しました。
変人や異端をどう扱えるかという視点は、日本の組織の限界を問ううえで避けて通れない問いです。
一つ、私の知人の例を紹介します。
彼は30代で三菱にヘッドハントされました。重工か電機かは伏せますが、外様としてはかなり異例の待遇だったようです。前職では、国の予算が絡む大規模プロジェクトを官庁・自治体・民間をまたいでまとめ、成功させた実績が評価されたと聞いています。
ただ、入社直後に新人研修へ合流し、そこで早くもズレが露呈します。
最終日、支店長主催の打ち上げがあり、彼も出席しました。が、翌朝、新人たちは出社前に支店長にお礼を伝えに行ったのに対し、彼は何もしなかった。形式的な挨拶に馴染まなかっただけなのですが、支店長から「新人でもできる礼儀ができないとは、やはり組織に馴染めない一匹狼か」と苦言を呈されたといいます。
しかし彼は、まさにその「組織に馴染めない一匹狼」ではないからこそ、引き抜かれた人材です。所与のルールに従うのではなく、ルールそのものを設計し、調整できる実務能力を買われていた。けれど、その前提はまったく共有されていなかった。
結果、入社4日で辞表を提出し、去りました。
「クソみたいな組織だった。あれじゃ外資には勝てない」と言い残して。
私自身はそこまで断じるつもりはありませんが、これはひとつの象徴的な事例ではあります。
形式への忠実と、能力への評価は、必ずしも両立しない。むしろしばしば、互いに相容れない価値軸としてぶつかる。
学閥、おべっか、下請け企業への高圧的態度。そうした構造の断片は、たった数日の出社でも垣間見えたと彼は語っていました。挨拶云々がなかったとしても、遅かれ早かれ辞める判断には至っただろうとも。
その後、彼は別企業に再びヘッドハントされ、現在は独立起業し、自らの裁量で事業を展開しています。
異端を受け入れるとは、単に許容することではありません。受け入れ側が、異端に感化される覚悟があるかどうかの問題です。そして、その覚悟が当時の三菱にはなかった、というだけのことかもしれません。
もう一つ、重工の別の知人の話です。
彼は現在、日・英・伊3か国共同開発による次期戦闘機プロジェクトにアサインされ、イギリスで勤務しています。彼によると、MRJの開発ではFAA経験者などを高額報酬で雇ったものの、肝心の型式証明の実務ではほとんど役に立たなかったそうです。時間と資金だけが浪費された、と。
冷静に考えれば当然です。たとえば雇われた外国人技術者の中には、元ボンバルディアの技術者もいたようですが、三菱が本当に機体を「飛ばす」ようなことになれば競合となる立場です。本気で協力する動機などないのは明白でした。
その矛盾は当時から指摘されていたのに、見て見ぬふりで突き進んだ。結果は、当然の帰結だったとも言えます。
加えて、そんな働かない高給エンジニアを横目に、自分たちが、そのやる気もない外国人の10分の1の給料で働かされていると漏れている、既存社員の士気は大きく下がったそうです。
その一方で、ホンダジェットはなぜ飛んだのか。
ホンダは最初から、ボーイングやエアバスと競合しないビジネスジェットのニッチ市場を狙っていました。開発拠点を米国に置き、FAAと密に連携し、制度側の論理を先に学習した。日本で制度を変えようとするのではなく、制度に適合させながら「まず飛ばす」ための最適戦を取った。
制度に合わせて技術を縮めるのではなく、制度の外で飛ばしてそれを持ち帰る。ホンダは、日本の弱点を逆手に取ったのです。
正統と異端という構図を超えて、むしろこの対比こそに、もう一つの真実があるように思います。
ご返信、拝読しました。
けれど、勿体ない気がしました。
読書の醍醐味とは、まさにそこではないからです。
ピンと来ない、肌に合わない、どこが名作なのか分からない。。。そこからが読書の始まりで、終わりではない。
誰かが「いい」と言ったものを読んで、「うん、自分もいいと思う」、その応答はたしかに快い。けれど、浅い。それだけでは、自分の輪郭は掴めない。
寧ろ、本当の読書の推進力は、自分の感性が拒絶反応を起こした瞬間にこそ宿る。
「なぜ自分はこれを受け入れられないのか」「何に引っかかっているのか」「この読後感の気持ち悪さはどこから来るのか」
そうした違和や反発のなかにしか、自分の輪郭は立ち上がってこない。
りなくろさんが言っていた「他人に勧められた本はとりあえず買うようにしている」という姿勢は、単なる素直さや従順さではないと思います。
それは、他人の視点を通して自分の枠を超えていこうとする能動的な態度で、自我をより深く掘り、コントラストさせるための方法論でもある。
嫌悪から始まる読書、ズレや不快から生まれる思索。そういうノイズを入口にして、自分の輪郭を掴んでいくのが、乱読の本質だと思っています。
だから、「これは体質に合わない」と感じた瞬間にこそ、むしろ読むべき理由が立ち上がる。自分の感性に合うものしか読まないなら、それは単なる確認作業でしかなく、新しい風景とは出会えない。
読みながら何度も本を閉じたくなるような作品こそ、読後に何かが沈殿して残る。
自分の中の水面が、ほんのわずかに濁る。けれど、その濁りこそ、自らでは望んでも近づけないセレンディピティとの邂逅でもある。
読書という行為は、思考のための摂取であると同時に、思考を揺さぶるための撹乱でもある。
だから、自分の好みや体質を起点に読むというのは、たしかに一つの楽しみ方ではある。
けれど、それだけで読書を語ってしまうのは、あまりにも惜しい。
それは、新たな世界と自らの変容に出会うチャンスを、自分で狭めてしまうことでもあるのだから。
女子御三家に通学して、鉄緑に通塾している娘の保護者は、東大の筆記試験対策以外の学びは東大に合格してから学べば良いと信じていた。
ある日、娘の複数の友人が留学や長期休暇で海外へ出掛けている話をきく。なぜ留学や行き過ぎた英語教育をするのか?というのが、このスレの前々スレの問いだった。
ある人は東京一科国医で利確するのでスレ主のいうとおり、東大の筆記試験対策をすべきといい、
ある人は世界共通言語は英語であり、日本の少子化を見据えると東大英語入試以上の英語は学んでいかざるをえないという。
ある人は近々英語はAI等で代替されるだろうから英語を過度に学ぶ必要はないという。
それに対して、英語は文系理系を問わず入試の配点が最も高く、英語を学ぶことが大学入試に直結するという。渋谷系や広尾など国際系の学校が台頭しているのをみればわかるだろうという。
グローバル教育、英語学習に対する考え方も保護者によって随分違っている。
仰るとおり、近年は保護者は偏差値より非認知能力、大人になっても生きていける能力を求めつつも、大学入試の動向も踏まえながら悩みつつ判断しているようにみえる。
結局、将来どうなるのか見極められる人はいないので、自分たちが信じた道に進むしかないんだろう。
この流れ、とても頷けるものが多かったです。
ただ、ひとつ視点を加えるなら、「異質な人材を受け入れられない日本企業」に問題があるのは確かだとしても、それ以前に、「異質な人材」が本当に異質なのかどうか、という問いも置いておく必要がある。
というのも、突出した若者や変わった視点を持つ人間が、変わっているとされてしまう時点で、それはすでに評価軸が硬直している証左なのです。
本来、社会や組織にとって有益な多様性が、変わり者という無機質で表層的な言葉に括られてしまう構造そのものが、問題の出発点なのではないかと。
起業や大学が異質な人材の受け皿になっているという意見には賛同します。けれど、それが逃げ場として機能しているのだとすれば、制度側の不全はまだ何も解決していないということでもある。
個人が突出することよりも、その突出がなぜ浮いて見えてしまうのか?
それを組織や社会の側が異物として処理してしまう、その評価系の側こそを問わなければ、起業や大学の自由も、ただの外部として機能し続けてしまう。
今の日本社会が本当に取り組むべきは、「異質な人材を活かす」ではなく、「異質を異質と見なさない感度」を取り戻すこと。
そして、あらかじめ規格化されていない言葉や発想や方法に対して、社会が耳を澄ませる構えを持てるかどうか、そこに尽きる気がします。
そうでなければいつまでも、見えていないのは彼らではなく、私たちの方だという事実すら、見落とされたままになってしまうのだから。
AIの時代になり、体系的な知識の習得やその応用より、課題設定能力、調査観察、仮説、検証、考察等、探求学習が重要になるだろう。
とは思う人もいるだろうけど、
実際、探求学習が始まると課題対応に忙殺されて英語や数学等学ぶ時間が減少するなどの悩みもでてこよう。
また、筆記試験から総合型選抜入試や学校推薦へという流れがあるものの、本当に筆記試験は減少して、総合型選抜入試や学校推薦が増えるのか?というと自信のない人もいよう。
今後は保護者や子どもたちの先をみる目と何を信じるか、グローバル教育か、探求学習か、メディカルサイエンスか、東大の筆記試験対策か、など、何を優先して学ぶべきかが重要な要素になってくるのだろうね。
ご返信、拝読しました。
この話題が繰り返し蒸し返されるのは、実のところ正しさの話ではなく、信じる力の話だからかもしれません。
英語教育を必要不可欠なものとする人々がいて、それに懐疑を抱く人々がいる。正反対の立場であっても、実はどちらも、見通せない未来に対して何かを賭けようとしている。違うのは、どこに資源を投下するかの判断基準だけであって、そこにある根源的な不安は同じです。
私個人としては、言語という汎用スキルの習熟にリソースを割くより、突出した専門性を一つでも持たせる方が、長期的には圧倒的にローリスクだと考えています。母語話者のスピードにも届かない言語に、過剰な時間と費用を投じるというのは、回収可能性の計算を逸した投資に見えるからです。
とはいえ、これは効率の話であって、教育における意思決定の大半が、効率ではなく「怖れ」から始まっているのもまた事実です。誰も未来を知らない。だから、誰かが選んだ道を見て安心し、そこに子を乗せてしまう。
そして、多くの選択は、最適解ではなく後悔の少なそうな道を選び取った結果であることもまた、しばしば忘れられる。
保護者の思考の差異があるとすれば、それは情報の差ではなく、どの段階で諦めが発動したか、というだけのことかもしれません。
目を凝らしても正解が見えないとき、人は何を信じるのか。
あるいは、何を信じたふりをして、その場をやり過ごすのか。
この国の教育の話は、常にそこから始まっているように思えます。




































