今年入学した高1生が語る青春リアル
東京大学が国際系新学部設立→国際系の学校が人気に?
東京大学 新学部開設:2027年秋
新学部名:「カレッジ・オブ・デザイン」
入試概要:
A方式(50名)
*大学入学共通テストの結果
*高校の調査書(または成績証明書)
*エッセー
*東大が指定する英語試験の結果などの書類
*英語による面接
B方式(50名)
*東大が指定する国際的な統一試験の結果
*複数の提出書類
*英語による面接
特定学校の誹謗中傷は厳禁でお願いします
池澤夏樹を語るのに、生き残る人間の型などという凡庸な把握では、彼の文体も、編集者としての胆力も、あまりに簡単にすり抜けてしまう。
『一九四五年に生まれて』に描かれているのは、単なる個人史ではなく、戦後という決められなかった時代に生まれた者の宿命と、それでもなお言葉を携えながら進もうとする者の姿に見えた。
彼が示してきたのは、制度や枠組みに与するのではなく、自分の足元に意味を掘り起こす生き方だ。
ギリシャ、南太平洋、アジアの島々と旅しながら言語の力を信じ、それでも言葉を決して過信しない。
それは、表現者としての慎み、政治的な想像力でもある。
編集者としての彼もまた、枠の中に収まらないはみ出し者たちを掬い上げ、文学全集というフォーマットに新たな磁場を与えてきた。
そこに宿るのは、知の取捨ではなく、余白の思想。分類や優劣で何かを切り落とすのではなく、異なる声を共存させる編集感覚。
『日本語のために』で彼が試みたのは、雑多さの尊重だった。漢文も祝詞も、方言も、アイヌ語も、聖書も、日本語という系譜のなかで同じ地平に置かれ、読まれるべきだという立場。
その姿勢は、少数言語が次々と駆逐されていくこの時代に対する、明確なカウンターでもある。
そう考えると、いまエデュで語られている「英語」や「グローバル教育」といった文脈も、そもそも池澤が繰り返し語ってきた「言語に対する構え」と無関係ではないはずだ。AIが言語の意味や姿さえ根本から変えようとしているこの時代において、それはむしろ、直結して接続すべきテーマなのかもしれない。
言語とは、他者と繋がるための技術であると同時に、自分がどこから来て、何を感じているかを確かめるための装置でもある。
未来を生き抜く術が、英語のスコアやTOEFLの点数に還元されていくこの空気の中で、彼の言葉に立ち止まることには、まだ十分な意味があると思う。
軽薄な正しさにすり替えられがちな教育論の場で、言葉の運命について一度深く考えてみる。
このスレッドがそれを許す空気を持っているなら、書き込む理由はそれだけで十分だ。
偏差値があてにならなくなりつつ、誰も未来を知らないからこそ、探求、グローバル、メディカルと揃えた開智所沢や開智のような学校が日本一の志願者を集めたのでしょう。
今、大学合格実績をあげている広尾、三田国際などもグローバル、メディカル、サイエンスと揃えている。
また、同じく大学合格実績をあげている渋谷系もグローバル教育を掲げつつも、実は東大も医学部も海外大学も合格者数が多く、志願者の指向にあわせて対応できる学校になっている。
恐らく中高の経営層も保護者も、これからの時代どういう教育をするのが正しいのか、わからないけど選択肢を用意した、これらの学校が人気となっているのは事実であり、あとは英語重視か、探求学習重視か、などは子どもや保護者が選択していくということなのかな。
将来どうなるのか見極められない中、子どもたちの教育をどうするのが正しいのか。
一つの解として、広尾や渋幕のパンフレットにあるのか、
広尾のパンフレットは、日本企業と協力して、ロケットに搭載する人工衛星をつくった生徒たちが掲載されている。
彼らは英語やメディカルサイエンス等重視の教育の中でも、独自の取組で専門性を極めている。
しかも宇宙工学を学ぶには米国トップ大学へと思って、広尾からスタンフォード大学やUCLAに進学している。
渋幕も同様で、渋幕時代にロボットづくりに熱中して、ビジコンなどで認められ、海外の大学もいるロボットの大会にでて、米国トップ大学のロボット研究の高さを知りMITに進学している。
専門性を極めるには、東大ではなく、スタンフォード大学やMITに進学していく事例をみてもグローバル教育も探求学習も、どちらもきわめるというのが重要なのかも。
専門性をきわめる中でもっとも良い大学が米国の大学等にある場合もあるので、バランスも必要ではないか。
毎度のご返信ありがとうございます。
相変わらずの、現実的かつ視野の広いご指摘に唸りました。
こうして真っ当に向き合ってくださる方がいるのは、とてもありがたいことです。
荒らしが消え、健全な議論ができて嬉しい。
さて。
ご紹介のような、広尾や渋幕における「グローバル×専門性」の事例には確かに学ぶところがあります。
単に選択肢を用意しているにとどまらず、その複数の軸が生徒自身の中で結びつき、成果として顕在化している点は、非常に重要です。
グローバル教育と探究学習が、ただ併存しているだけなら、それはまだ学校の設計思想に過ぎません。
けれど、それらが個の文脈で融合し、具体的な進路決定や実践に繋がっているのであれば、それはもう教育成果として語るに足るでしょう。
ただ一方で、こうした事例があるからといって、「両方やればよい」という構図が常に成立するとは限らないのもまた事実です。
教育の現場では、汎用性と専門性、幅と深さのトレードオフは常に存在していて、全員がすべてをやり切れるわけではありません。
だからこそ「選択肢がある」ことと「選び取る主体性」は、切り離して語ってはならない。
グローバル教育も探究学習も、意味を持つのはそれをどこに置き、どう使ったかに依ると思うのです。
その子の文脈の中で、それがツールとして働いているか。あるいは、ただトレンドに乗って備えただけのものになっていないか。
極論すれば、MITであれ東大であれ、その人が何をしにそこへ行くのかが定まっていなければ、教育はただの高級な迷子の量産装置になりかねません。
何を選び、何を捨てたか。
そのプロセスにこそ、教育の本質が宿ると信じています。
このスレのテーマの東大に行くなら、ななし氏がいっていたように、サピックス等→御三家→鉄緑等→東大というのが、多くの人が選択するでしょう。
なぜならこのプロセスが一番東大合格が圧倒的に多いから。
御三家に通学する子どもが鉄緑にいって、東大入試対策の勉強以外は東大に合格してからやればいいと保護者のコメントをみてもわかる。
他方で、サピックスは塾生が大幅に減少し、男女御三家は志願者数が揃って減少している。つまり、このプロセスに懐疑的な人たちが増えているのではないか。
つまり、東大等の筆記試験のための勉強を続けていくことが本当に正しいのか?そうした教育を子どもたちに受けさせたいのか?というと、違うよねという保護者等が増えているということになるのでは。
では子どもにどういう教育を受けさせるのが良いのか?
中学受験板で、参加者が少ないこのスレが、なぜか閲覧数ではエデュのトップが続いている。保護者の関心が高いのか、アンチがチェックするためなのかはわからないけど。
サピックスの塾生減少は共働き家庭に合わなくなっているのはそのとおりでしょう。
でも御三家志願者は女子学院を除いて男女ともに2年連続志願者数減少している。男女ともに御三家の志願者数が減少しているのは理由があるのでは?




































