今年入学した高1生が語る青春リアル
東京大学が国際系新学部設立→国際系の学校が人気に?
東京大学 新学部開設:2027年秋
新学部名:「カレッジ・オブ・デザイン」
入試概要:
A方式(50名)
*大学入学共通テストの結果
*高校の調査書(または成績証明書)
*エッセー
*東大が指定する英語試験の結果などの書類
*英語による面接
B方式(50名)
*東大が指定する国際的な統一試験の結果
*複数の提出書類
*英語による面接
特定学校の誹謗中傷は厳禁でお願いします
東大新学部はオックスフォードやケンブリッジなどの英国の教育の影響を受けて、講義形式ではなく、チュートリアルのような仕組みで学ぶのかな。
そうすると、教育は与えられたカリキュラム等を選択するものではなく、個人が学ぶことを学校はサポートするという仕組みに変わるね。
基本的には、日本の教育はカリキュラム等がある学校やコースを選択する自由しかなかった。例えば、探求学習重視の学校か、グローバル教育重視の学校か、インターコースか、サイエンスメディカルコースか、
しかしチュートリアルのようであればカリキュラム等というよりも、テーマ等は別として、自分の学びや問いを深める学習スタイルになるのかな。
東大OB2437人に聞いた東大卒の学歴は役にたっているか 4割がNOの理由は
という記事に、
現在の職種
専門職 4割
管理職 2割
技術職 1割
事務職 1割
東大は専門職を大規模に養成している教育機関であることがわかる。特定分野の専門人材が多い。
とのこと
東大卒のアンケートでは4割が専門職と回答。そのうち、
研究者、大学教員 約半数
会計士コンサルタント等 ビジネス専門職 1割強
医師 約1割
弁護士 1割弱
学校教員、塾講師 5%
とのこと。
東大は専門職を大規模に養成する機関となっており、起業家、経営層、投資家等を育成する機関となっていない。日本にはスタンフォードやMITなど起業家等を養成する大学がないのが致命的。
東大新学部さん、鋭い視点のご指摘ありがとうございます。
今回の新学部、英オックスブリッジ型のチュートリアル文化の匂いが確かに漂いますね。制度の表層には現れていなくても、深層の思想として教える側ではなく、学ぶ側に重心がある世界観が埋め込まれている気が確かにします。
日本の教育制度が長らく枠を選ぶ自由の範囲にとどまってきたのに対し、これは言うなれば、問いを持つ自由に踏み出す一歩なのかもしれません。もちろん、それはカリキュラムの不在や自由放任を意味するのではなく、学校側には、対話と伴走を通じて個を育てるという覚悟の有無を問われるスタイルです。
チュートリアル型の学びには、単に知識を深める以上に、何を問いとするかをめぐる自己との格闘がつきまとう。
そしてその過程を支える教師やメンターの存在は、教える人というより、共に歩く人のようなあり方を求められる。
果たして、東大という巨大な制度の中でそれがどこまで本気で機能するのか?
やはりまだ輪郭は見えませんが、誰かに教えられるのではなく、自ら学ぶことを選びとる力そのものが、入学後に問われる。
もしかすると、これまでの教育機関としての大学から、学びの環境装置としての大学への転生が、静かに始まっているのかもしれないと感じさせてくれます。
気づきを促して頂きありがとうございました。
東大は専門職を養成する機関。。。
そう断言されるときの、ある種の割り切りと諦念のような空気に、どこかうっすらとした寒さを感じます。
それは事実かもしれません。
しかし、事実だけで語れるのなら、教育に物語は要らなくなる。
研究者、大学教員、医師、弁護士、公認会計士。。。
それぞれに専門的な訓練を受け、制度の中で力を発揮する人材が確かに多く存在します。
けれど、その人たちは果たして、本当に専門を生きているのでしょうか?
制度を支える歯車になることと、制度そのものを組み替える知性を持つことは、似て非なるものです。
後者を生み出す場として、大学は本来、不可視の問いに耐えうる場所であった筈。
ところが、いま見えてくるのは、専門性の名を借りた従属性の体系。
知識を蓄積することで、自分の仕事を自動化し、安定させ、予測可能にしていく。
それは確かに生きやすくはなるでしょう。
が、その先は??
社会が大きく変化したとき、彼らの多くはその専門とやらと共に時代から置き去りにされていく。
東大卒でありながら学歴は役に立っていないと感じている四割の声には、おそらく、そうした時代との齟齬と、深い孤独が滲んでいる様に感じられてなりません。
学歴ではなく、知が立ち上がらなかったという実感。制度には居場所があっても、未来には手応えがなかったという、無音の痛み。
だからこそ、起業家や投資家を育てていないことを単に問題とするよりも、もっと根源的に問うべきなのは。。。
なぜ、自らの知を他者の文脈に貸し出すような人間ばかりが生まれるのか?
ということではないでしょうか。
スタンフォードやMITのような大学が日本に存在しないのではなく、そうした機能を、既存の大学に対して望む意志そのものが、失われていると言えませんか??
或いは、東大が社会の上澄みを掬い取る場所である限り、その社会が変わらないうちは、大学もまた変わりようがないのかもしれません。
だとすれば、東大の未来は、社会の未来を超えていくことは永遠にない、ということにもなってしまいます。
それを受け入れるかどうかは、私たち次第。
たとえ、肩書きに意味がなくなった時代が来ようとも、夜中にふと目を覚ましたとき、何一つ外に説明できない問いを、まだ持っている人間がいる限り、
教育という営みは、どこかでひっそりと、生き残りつづけるのだと思います。
名もなき書架の一隅に、誰にも気づかれず、埃を被った一冊が、いつか誰かの脳の奥底で火を灯す。
そんな未来が、まだこの国に残されていることを、願ってやみません。
昨日の産経の記事
『ファーウェイ、中国で復活 スマホ出荷4年ぶり首位 米規制による危機的状況を克服』
2025/8/25 09:22
中国のスマートフォン市場で中国IT大手、華為技術(ファーウェイ)の復活が鮮明となっている。米調査会社IDCによると、2025年4~6月期の出荷台数は約4年ぶりに首位となった。米規制の影響で部品が調達できない危機的状況に陥ったが、中核技術の開発を加速し、外国に依存しない体制構築を進めたことが実を結んだ。
IDCによると、ファーウェイのシェアは18・1%で、20年10~12月期以来の首位となった。2位以下もvivo(ビボ)、OPPO(オッポ)、小米科技(シャオミ)と中国勢が続いた。米アップルは5位だった。
以上
ファーウェイが中国国内スマートフォン市場で約4年ぶりに出荷台数首位に返り咲いたというニュース。その事実を、単なる「中国製品のシェア争い」としてスルーするには惜しすぎる示唆がある。
なぜなら、この復活は、米国からの厳しい制裁と包囲網のなかで、核心技術の自前化を進め、なおかつ市場を奪い返した、という構造的な意味を持つからだ。
GoogleなしのOS、米製チップ不在のスマホ、それは正規の道から締め出されたあとに、既存のゲームを裏側から書き換えていくような執念の結晶である。
教育に話を戻したい。
日本では今、首都圏御三家の受験倍率が静かに落ちている。東大が新たに打ち出した国際・学際系の新学部にも、歓迎より戸惑いの声が目立つ。変化は起きている。けれど、そこにあるのは「変わること」への期待というより、「これまでのルールが通用しなくなってしまう」ことへの不安のほうだ。
社会が本当に変わるとき、それはルールの外からやってくる。中国のスマホ企業はその好例だ。制裁を受け、遮断され、土俵の外に追いやられたあとで、彼らは逆にその不自由を原動力に、土俵そのものを組み替えてしまった。自分たちでルールをつくる側に回るために。
翻って日本。偏差値教育に限界を感じながらも、なお、既存の正解の中でうまくやることから抜け出せない。脱偏差値、探究、グローバル。。。どれも正しい言葉のように見えて、その多くは新しさを語るための古い語彙にとどまっている。
だからこそ、東大の新学部も未だ、出口の見えない先進的コンセプトでしかなく、その設計思想をリアルな行動に翻訳できる土壌が整っているようには見えない。
問題は、「何を学ばせるか」以前に、「どんな環境でなら、学びが変異していくのか」という視点の欠如だ。
ファーウェイにとっての制裁がそうであったように、逆境はときに最良の教師となる。だが日本の教育は、逆境の手前で、ことごとく子どもを守ってしまう。「失敗してはいけない」「落ちてはいけない」「間違ってはいけない」、そうした空気のなかで、本物の想像力や執念が育つとは思えない。
言い換えれば、「ファーウェイ的な才覚」がこの国で芽吹く余白は、あまりに乏しい。
だからこそ、問われるのは単なる制度改編ではない。どんなルール外に放り出されても、自ら新しい競技場を設計し直せるような、そんな人材を社会が本当に求めているのかという根本の姿勢だ。
中国企業が見せつけたのは、正面突破ではなく、別の道を自ら掘り当てて突き進む力だった。ならば日本はどうか。変化のかたちだけをなぞって、相変わらず正しい入り口を探し続けていないか。
御三家に入れずとも、東大に届かずとも、あるいはその枠組み自体が揺らいでも、それでもなお、別の地図を自分で描こうとする気概がどれだけ残っているのか。
それこそが、今もっとも教育に問われていることのだと思う。
皆さまのやり取りから気付いた所ですが、いわゆる新学部のコンセプトに、米国教養大学院がある、との勘が働きました。ちょうど20年前に、東京四ッ谷の日米会話学院が、シカゴ大学認定のそれを開校しました。説明会には出たのですが、とにかく大量の文献購読とディスカッションを軸とするカリキュラムに、これは無理だ、と退きましたが、新学部は似ている気がします。おそらく、海外大学院との接続をも意識しているのでしょう。設立メンバーの意気込みの一つが窺えますね。




































