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東京大学が国際系新学部設立→国際系の学校が人気に?

【7697918】
スレッド作成者: 東大王 (ID:nMjSBSRGBB.)
2025年 08月 06日 17:57

東京大学 新学部開設:2027年秋
新学部名:「カレッジ・オブ・デザイン」

入試概要:
A方式(50名)
 *大学入学共通テストの結果
 *高校の調査書(または成績証明書)
 *エッセー
 *東大が指定する英語試験の結果などの書類
 *英語による面接

B方式(50名)
 *東大が指定する国際的な統一試験の結果
 *複数の提出書類
 *英語による面接


特定学校の誹謗中傷は厳禁でお願いします

【7707313】 投稿者: meta視点から   (ID:1NBdrfnlRkE)
投稿日時:2025年 09月 07日 04:09

今日、知人の先輩女子社長に連れられて、飲みに行ったお初のスペインバル。

めちゃくちゃ料理が美味しくお酒の種類も豊富。即お気に入りに登録です。

お店の女子トイレの壁にゴヤの「着衣のマハ」と「裸のマハ」が並んで貼られていました。

ご存知の通り、この二枚は単なる衣装の有無の対比ではなく、人間存在の二面性や、見せ方と本質の関係性を鋭く突きつけてきます。外見を着飾ることで多様性を演出するのか、それとも衣を剥いで本質を露わにするのか。。。ゴヤはそこを問うている。

さらに嬉しかったのは、メニューに「エルカンダド・ペドロヒメネス」があったこと。スペイン最古のシェリーボデガのひとつ、バルデスピノ社の逸品です。

飲む干し葡萄とでも言うべき圧倒的甘さで、以前は家のセラーに常備していたくらい好きだったのですが、糖尿になってからしばらく封印していたのです。久々に出会って思わずオーダー。

あれ?鍵がない!
昔はキャップに鍵が付いていたんです。美味しすぎて盗まれるから「エルカンダド=錠前」と呼ばれた所以。ところが今は鍵なしのシンプルなキャップになっていて、そこに時の流れを感じた。

私自身も30代で糖尿病になり、甘さを素直に楽しめなくなった。鍵を外したのは酒瓶だけではなく、自分の身体もまたそうなのだと改めて。

結局「鍵付きの外形を重視するのか」「中身の本質に向き合うのか」という問いは、ゴヤのマハと同じ構図に収斂する気がした。

インター校の開校数や外資の進出を数え上げて「教育のグローバル化だ」と言うのは、まさに“着衣のマハ”や“鍵付きキャップ”の議論。

服や鍵の数を数えて満足しているに過ぎません。本当に問われるべきは“裸のマハ”や“葡萄そのもの”に迫ること。教育も同じで、制度や外形を並べるだけではなく、知や人材がどう本質的に変容するのかを問わなければならない。

その意味で、東大新学部が挑んでいるのは、服や鍵を替えることではなく、本質をどう露わにするか。
ゴヤのマハのように、外見と本質の緊張のあいだで揺れながらも、最終的に問われるのは「裸」で立ち現れる真の姿だ。
そして、エルカンダドの瓶から消えた小さな錠前のように、時代もまた、不要になった飾りを外しながら、核心へと近づいていくのでしょう。

【7707327】 投稿者: 西千葉   (ID:0oZWnAsRzZE)
投稿日時:2025年 09月 07日 06:46

本質の透徹でいえば、それを貫いた髙島野十郎の傑作を、東大医科学研が所蔵していますね。

【7707378】 投稿者: 日本の古びた社会の変革を望む   (ID:2lTughkqnd6)
投稿日時:2025年 09月 07日 10:30

全人格教育、リーダー教育、クリティカルシンキング、個性をのばす教育、探求学習、英米をはじめとした様々な教育機関で学ぶ子供が増えることが重要なんだよ。

ラグビー校のように、東大より歴史のある伝統校、中等教育からボーディングスクールで多様なバッググラウンドをもつ人々とグローバルな課題について議論し、解決策をみいだす教育やミネルバ大学のような世界の様々な拠点で学ぶ新たな取組をしている大学など、様々な選択肢があることが必要で、保護者や子どもたちはそれを選択していくことで、多様なバッググラウンドをもつ人材を輩出することが今の日本には必要なんだよ。

御三家のような伝統校で日本人男子だけ、女子だけで学び、知識やその応用、答えのある問題の演習訓練などで育っていく人材だけではなく、様々な教育、様々な考え方をもった人々が今の日本には必要なんだよ。

東大や御三家のような均質な学生だけしかいないことに危機感をもった学校、東大が新しい理念のもと、新しい教育をはじめようとしているのも、今の教育では世界の優秀な人材から選ばれなくなるという危機感からなんだよ。

実際、今までの御三家等の伝統校、東大等、日本企業は、日本人にも選ばれなくなっている。

男女御三家は2年連続出願者減少、筑駒、開成等は辞退者続出。

高校生から海外大学を目指す人々が増え、東大等を目指さなくなっている。

東大生等は外資系コンサルや外資系のIT系の企業等に殺到し、日本企業は選ばれなくなっている。

【7707383】 投稿者: meta視点から   (ID:y6r76Lx3/ks)
投稿日時:2025年 09月 07日 10:59

さすがの西千葉さんらしい着眼です。ちょうど千葉県立美術館で、野十郎の没後最大規模の回顧展が開かれていますよね。

東大農学部水産学科を首席で卒業し、恩賜の時計を辞退した髙島野十郎。官僚や学者の道をあえて選ばず、千葉・増尾で「乞食画家」と揶揄されながらも、ただ絵を描き続けた孤高の人です。彼が描いた蝋燭や満月は、世俗の栄誉を退けた生き方そのものの象徴に思えます。

彼の「蝋燭」が、ただの静物ではなく「献灯」であったことを知ると、孤高という言葉は少し違って聞こえます。光は彼の内奥からではなく、他者へと差し向けられていた。その炎は市場のためではなく、縁ある人々のためにだけ灯された。孤高であって孤独ではない。彼は一人でありながら、人の縁の中で生きたのでしょう。

仏壇の隣に飾られた蝋燭の小品や、暗闇に浮かぶ満月の絵。野十郎は「月を描いたのではなく、闇を描くために月を描いた」と語りました。その言葉を目にすると、静謐の中に潜む彼の執念が、かえってこちらの心を騒がせます。

私は画家としてムンクを最も好みますが、彼もまた月を繰り返し描きました。水面に溶けて広がる光、液体のように流れる輪郭。ムンクの月と野十郎の月は異なれど、どちらも人の内奥を照らし、闇の形をあらわにする力を宿しています。

ムンクの溶けて流れる月光は、私には十字架に見えます。彼の「ゴルゴダ」という絵では、磔のキリストが中心に描かれ、嘆く民衆や無表情な人々が溶けるように背景に描かれています。前面にはマグダラのマリアや母マリアを思わせる嘆く人もいます。宗教画でありながら、無宗教な人や宗教を嘲笑する人まで同時に描かれる。世の中にはさまざまな人が同時に存在し、だからこそ宗教は存在する意義と価値を持つ。宗教に無関係な月の絵に、私が十字架を見るのは、ゴルゴダの裏返しかもしれません。

野十郎の絵にも同じ感覚を覚えます。仏壇に置かれた蝋燭、暗闇に浮かぶ満月、林間の太陽。すべては上昇する光の軌跡として描かれています。燃え尽きてなお天へ昇る炎、闇を破る月光。そこに、彼が見出した仏教的な「無常と上昇」の思想が透けて見えるのです。

野十郎の作品はまた「草木国土悉皆成仏」という仏教思想をも想起させます。草や木、国土、すべてがことごとく成仏し、万物遍く仏性を有する。アニミズムのプリミティブな宗教観にも通じるこの宗教性が、絵に宿っています。晩年は電気・ガス・水道のない小屋で一人暮らし、日中は畑仕事に勤しみ、夜は月や蝋燭の明かりをみつめて瞑想と祈りの日々を送っていたと推察されます。絵を描くことそのものが、彼にとって瞑想で、祈りだったのかもしれません。

ふと夜空の月を見上げたことのある人なら、その一瞬の静けさを知っているでしょう。世界の喧騒から切り離され、呼吸と鼓動だけが確かに残る感覚。その静謐さはある種の祈りのようでもあります。野十郎は、その瞬間を絵に封じ込め続けました。

西千葉さんご紹介、東京大学医科学研究所に収蔵されている「満月」(1963年頃)と「林辺太陽」(1967年頃)の二点。学術研究機関に所蔵されている事実自体が、作品性の深さを物語っています。どちらも燃え尽きぬ光として画布に定着し、私たちの胸を静かに照らします。

彼の絵の前に立つと、世界は一度闇に沈みます。しかしその闇は、澄み切っていて、美しい。孤高の闇を照らす孤独な光ではなく、縁ある誰かに差し向けられた炎。だからこそ、その前に立つと、私たちは自らの縁をも思い起こさずにはいられないのだと思います。

東大が「制度や外形の装飾」を超えて、人間存在の本質にどう迫るかを自らに問うなら、野十郎の月ほどふさわしい導きはないでしょう。闇を描くために月を描いた彼の執念は、世界に光を投げかける知のあり方そのものと響き合います。

そして今、新たに立ち上がる東大新学部もまた、野十郎の月を仰ぐところから始まるのだと思います。

制度や言葉、形式に惑わされず、光を求めて闇を見据える。。。その挑戦は、静かに、しかし確かに、学びの地平を照らし出す。着衣のマハと裸のマハ、鍵付きのキャップと素顔の葡萄。

どんな装いを纏おうとも、最後に問われるのは中身の光。新学部の挑戦は、まさにその光を信じ、世界の闇に向けて差し向けられた炎なのです。

【7707408】 投稿者: 朝日新聞記事   (ID:EPt6lNiWoDg)
投稿日時:2025年 09月 07日 12:56

朝日新聞記事に、

聖光の工藤校長が、少子化の時代に

将来に結びつく教育を生徒や保護者が求める時代。公私立ともにカリキュラムを大胆に改革して高校は生きのびていくしかない。

と語っているように、危機感をもって日本の学校や大学は大胆に改革していかないと生きのびることはできないだろう。

聖光のように、最も上手くやっている校長ですら、こうした認識をもって学校教育の改革に取り組んでいる。

教育のグローバル化を通じて、教育方針、カリキュラム、教育環境など、競って改革することで生きのびることが可能となる。日本の大学や学校経営層がそうした覚悟をもって大胆に改革していくことが必要な時代となっている。

【7707424】 投稿者: meta視点から   (ID:laCgRdhQM2w)
投稿日時:2025年 09月 07日 13:52

「危機感を持って改革せよ」「カリキュラムを競って刷新せよ」。
成程、勇ましい。が、それは改革の名を借りた自己模倣に過ぎない。圧倒的に浅い。

仮に全校が一斉に「新しい制度」「目新しいカリキュラム」を掲げたとして。。。それはラグビー校やミネルバ大学のコピーでしかない。国内に知の循環回路を築くこととは何の関係もない。装飾を競い合うほどに、学びの実質は空洞化していくだけ。

極論すれば、その行き着く先は「全員が海外に流出し、全員が外国に帰化する」未来。既に中国はその段階を経験し、中高から外に出る流れが止まらず、国土に人材が残らない。だから彼らは「海亀」の回路を描き、海外で鍛えた知を祖国に還流させる仕組みを国家ぐるみで作った。予算も制度もそこに投じた。だからこそ、ITもAIも文化も、世界を席巻する厚みを持ち得たのです。

一方、日本の「改革論」はどうか。
危機感、大胆、競争。。。勇ましい言葉を並べるだけで、「知をどう還流させるか」という核心は一切描かれていない。制度をどう弄ろうが、結局は外資に人材が吸われ、起業家は海外を舞台に選ぶ。その構図が不変である限り「改革」はただのポーズに過ぎない。

問うべきは「改革するか否か」ではないのです。
得た知をどこに接続し、どう循環させるのか。その設計なしに改革を煽るのは、ウロボロスの蛇が自らの尾を喰らうのと同じ。自己消費の未来しか生みません。

東大新学部の挑戦も、この問いを避けては意味を失う。

制度の外形ではなく、知の流れを社会と国家にどう還流させるのか。そこに踏み込めるか否かが、真の分水嶺です。

と、何度も言っているのですが、エデュでは無限ループな同じ論調、ニュースや高校トップまでがその視座とは。

知を海外に捨てるのか、それとも循環させるのか。その問いに答えぬままでは、どんなスローガンも虚しく響くだけでしょう。

【7707441】 投稿者: 日本の古びた社会の変革を望む   (ID:PPlxIBPBajE)
投稿日時:2025年 09月 07日 14:42

国家や社会も学校や大学のように選ばれる時代となっている。

日本や日本社会に魅力がなければ、日本人の知は海外に流出していくだけ。

国内に多くの海外の教育機関が開校して、日本の学校や大学が保護者や生徒に選ばれる学校や大学に変革していく。

日本の教育ではなく、英米の教育を学ぶ人もいたり、帰国生のように、海外の教育機関で学んだりすることを通じて、日本は多様な考え方や人材を包摂する社会が構築される。

日本は多様な考え方やバッググラウンドをもつ人材が自由を享受できる社会を構築することが不可欠。

日本は独特な文化や社会があり、それが海外の優秀な人材を惹きつけている。ただ、言語や社会の閉鎖性が高く、日本の学校、大学、それぞれの組織がその閉鎖性を取り払い、多様な能力を活かしきる社会をつくれるかは、それぞれの学校や大学、企業等の改革の成果による。

富裕層中国人が日本を選ぶのは、中国の教育より、日本の教育の方が良いと考える教育移住、財産や表現の自由を享受できる社会、治安が良く就職先も豊富で、ある程度豊かな安定した社会等、様々な理由がある。

知は流出するだけでなく、流入もしている。選ばれる国家、社会になる必要がある。少なくとも日本人に選ばれる学校、大学に変革していく必要があり、そうした学校に留学生や帰国生が集まる。

ボーディングスクール、インターナショナルスクール、国際系の学校が日本人にも外国人にも選ばれているのは多様なバッググラウンドをもつ人材を包摂する組織であるという理由がある。

【7707454】 投稿者: 日本の古びた社会の変革を望む   (ID:PPlxIBPBajE)
投稿日時:2025年 09月 07日 15:20

大学や中等教育機関は、日本社会のゲートウェイといわれる。

海外の優秀な人材が日本文化に憧れ、東大等日本の大学で学ぶ。そして、日本の教育内容、教育環境、日本社会、日本文化等を身をもって体験する。

そこで日本が如何に閉鎖的な社会であるかを知る。それに耐えきれない人たちはまた海外へ流出する。日本が異質な能力を包摂する組織や社会になれば変わる。

つまり日本の中等教育機関、東大等の日本の大学などがみずから変革することでゲートウェイとしての機能を発揮できるか、そのためには日本人自体の考え方や教育内容等を抜本的に改革していく必要がある。

国内におけるボーディングスクール、インターナショナルスクール、国際系の学校等がそうした閉鎖的な日本人の考え方を変えていく。教育のグローバル化は大きな影響を与えうる。

東大工学系大学院の原則英語授業化や東大新学部の創設を通じて、東大は日本社会のゲートウェイとしての機能を発揮し、優秀な人材を日本社会に還元していく機能を果たしうるか?、そこにいる日本人は多様な能力や考え方の人たちを包摂することができるのか?が問われることとなる。

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