今年入学した高1生が語る青春リアル
東京大学が国際系新学部設立→国際系の学校が人気に?
東京大学 新学部開設:2027年秋
新学部名:「カレッジ・オブ・デザイン」
入試概要:
A方式(50名)
*大学入学共通テストの結果
*高校の調査書(または成績証明書)
*エッセー
*東大が指定する英語試験の結果などの書類
*英語による面接
B方式(50名)
*東大が指定する国際的な統一試験の結果
*複数の提出書類
*英語による面接
特定学校の誹謗中傷は厳禁でお願いします
「日本は役人やサラリーマンを量産している、米国は起業家を育てている」
そんな単純な二項対立では、10年後の世界をまともに描くことはできません。スタンフォードやMITの卒業生の多くは研究や技術職に就き、一部が起業へ進むのは、資金調達や市場規模といった社会制度の差によるものです。
大学そのものの本質的な目的は、日本も米国も変わりません。
実際、日本の大学からも研究に基づく新産業は次々に生まれています。海外教育を選ぶ層が存在するのも事実ですが、それは語学や資金の環境が整っているからこそ可能な選択肢で「日本の教育は劣っている」といった一刀両断の証明にはなり得ません。
10年後を見据えれば、国境を越えて学ぶ人材はさらに増えるでしょう。
その中で、日本の教育が本当に試されるのは、挑戦を支え、多様な進路を保証する制度を整えられるかどうかです。教育を「量産工場」「地域装置」といった言葉で片づけ続ける限り、その先の未来を構想する力は育たないままです。
国内の富裕層はボーディングスクールやインターナショナルスクール。
海外経験者等の子どもは帰国生が多いので、国際系の学校と大まかな棲み分けができている。帰国生が国内でもインターナショナルスクールにいったら日本人としてのアイデンティティがなく、無国籍状態になるよ。
“from Defense to War” defense から war へ、守りから攻めへ。
戦争省呼称を決めたトランプ大統領周りのきな臭さ〜
米国で同時に進行している出来事を一つに繋げて見ると、言葉の書き換えが政策と暴力の現実を先取りしているように見える。
Department of Defense を Department of War に置き換える大統領令、保守系活動家チャーリー・カーク氏の銃撃死、州兵の都市展開。。。これらは偶然の並列ではない。英語で読むとなお一層冷やりとする表現がある。
“from Defense to War”─defense から war へ、守りから攻めへという象徴的な言い換えが、政策の基調を塗り替えようとしている。
名称の改変は法律上の即時効力を持たない象徴に留まるが、象徴は現実を形作る。
歴史的には1947年の改革で「戦争省」は「国防総省」へと改められた。戦後の世界は言葉によって暴力の常態化を抑え、制度として防衛を選んだ。
今回の大統領令と、それを歓迎して「攻めに出る」「最大の殺傷力をもって」という言説を公然と用いる閣僚の発信は、その逆方向へ舵を切ることを狙う。
名称変更に伴うサイトや紋章、メールアドレス等の刷新に数十億円規模の費用が見積もられるとの報道もある。効率化や歳出抑制を謳う政権の下で、象徴の演出が巨額の物理的コストを伴うのは皮肉である。
外交面でも波紋は広がる。
中国の軍事パレードの直後の発表であること、その一方でトランプ大統領がポーランド領空侵犯について懐疑的な発言をしたことに対し、ポーランド側が異例の公開反論を行った点は見逃せない。
盟友が公然と米国の見解に反論する事態は、抑止連携の信頼を摩耗させる。言葉が好戦を示すだけでなく、同盟関係の信認を蝕み、誤認や偶発的衝突のリスクを高める。
国内政治と社会の裂け目は暴力の現実へと転換している。
保安や治安問題を口実に州兵や軍を国内展開する構えは、地方自治と民間の法執行権を圧迫する。あわせて、カーク氏の銃撃という政治的暴力は、言説が行為へと増幅される危険を示している。
報道では使用された銃弾や刻印に関する断片的な情報も流れ、犯行動機の単純化を警戒する向きもあるが、重要なのは暴力が政治空間に介在する事実そのものだ。
言葉が敵対を可視化し、敵対が暴力を正当化する悪循環が現実味を帯びている。
ここで問うべきは、「われわれはどう考え、どう動くべきか」である。
第一に、言葉の定義を見逃さないこと。メディアは Department of Defense → Department of War という英語表現をそのまま伝え、象徴の意味を曖昧にしない責務がある。
第二に、立法府による監視と透明性の回復が不可欠だ
省名の恒久変更や軍の国内展開には議会の承認と明確な法的根拠が必要であり、費用と運用の影響を公開した上で公開審議を求めるべきだ。
第三に、同盟国や国際社会は沈黙してはならない。
言葉の変化が同盟の信頼を損なう兆候を見せれば、外交ルートでの説明責任を追及し、誤認を防ぐための情報共有と冷却策を求めるべきだ。
第四に、市民社会とメディアは政治的暴力をいかなる理由でも正当化しない姿勢を堅持すること。
言説の過激化を抑える社会的規範を守ることが、最も基礎的な防衛である。
言葉は単なる記号ではない。
国家が自らの組織を「戦争」と名付ける時、その社会は戦争を想定した制度と慣習へと傾く。
守りに名を借りて攻めを正当化するならば、その先にあるのは同盟の亀裂と国内の分断、そして取り返しのつかない暴力の連鎖だ。
今必要なのは、衝動的な力の誇示に対する冷徹な検証で、言葉が世界を変えることを自覚したうえでの、市民的な拒否と制度的な抑止である。言葉を戦争に戻すことは容易だが、その代償を取り戻すことは難しい。
このきな臭さは妙なリアリティをもって我々に何かを突きつける。
このきな臭さは妙なリアリティをもって我々に何かを突きつける。
それは、まだ起きていない未来の戦争の足音が、言葉を媒介にすでにこちら側へと響き始めているという予感である。
このグローバルの大きな渦。
戦争という昭和の時代に置いてきた筈の負の遺産が、昭和100年である令和の世に再び息を始めたような緊張感の中で、東大も新学部があらたな産声をあげるのだ。
これが無関係で居られるはずもない。
トランプ大統領のもとで急速に台頭してきた潮流。。。言葉を攻撃に置き換え、象徴を現実化させる力学。。。の中で、東大新学部で議論されている「言語」「価値」「制度」の再設計は、単なる学問の実験ではなく、この世界線に独自のデザインを描く試みとなる。
言語の再設計は、国家や社会の行動様式を先取りする力を持つ。言葉が現実を規定するのと同じように、学問は新たな価値の地図を描く。ここで問われるのは、理念としての探求と、現実世界の暴力的潮流との対話である。
価値の再設計は、何を正義とし、何を正当化するかを問う営みである。グローバルの圧力が強まる時代において、抽象的な理想は単なる空論に留まらず、制度や文化の形を通じて現実に力を及ぼす。東大新学部の試みは、まさにその「抽象から具体への翻訳」を学問的に可視化する実験だ。
制度の再設計は、社会のルールと慣習を変える試みである。言葉と価値が新たな制度設計を導くとき、それは個人の行動規範だけでなく、国家間の緊張や国内政治の力学にも微妙に影響を与える。学問が生み出す制度モデルは、理想と現実をつなぐ橋である。
グローバルの暴力的現実と学問の静かな理性は、決して交わらないように見える。しかし、東大新学部の議論はその交差点に位置する。ここで生まれる知の産物は、単なる理論的成果ではなく、現実世界の言葉、価値、制度の変化と共振し得る可能性を秘めている。
この産声は、昭和の負の遺産が再び浮上する世界に対して、学問が示す小さくも確かな抗いである。言葉が戦争へと傾く瞬間、知は静かに防衛の役割を果たし、未来の選択肢を拓く。東大新学部は、その最前線に立つ。
しばらく見ていなかったので遅レスです
インター、ボーディング、国際系の中高、最近では数ありますからね。
いろいろなバックグラウンドのご家庭があるでしょう。
まあまあ数みてきましたけど、帰国の方は別にして、実際には理屈や志よりもなんとなーくの雰囲気で選ぶ家庭、多いですよ。狙える偏差値帯の中では、英語しっかりやってくれそうだし、共学だし、大学受験では海外も国内も両方対応してくれるし、みたいな。
新しい学校はがっつりマーケティングして設計されてますから、多くの家庭にとっては当然に魅力的なわけです。
最高峰以外の組織や製品は、志よりもマーケティングありきでデザインするのが確実と、個人的には考えています。志は後付けでよい。
そもそも親も、meta視点からさんレベルの頭脳の人は、滅多にいないですしね。
議論しようと思ったら、ここでいう雰囲気とやらを掘り下げてそれっぽくしなくちゃいけないわけですが、したところで意味がない。
裏づけのデータ取りできないし。
あとね、外コンだからしなやか系 とは言ってないです。国内の優秀な新卒人材の多くが外コンに行っちゃうからJTCやばいんじゃないの?的な話があったから、新卒じゃなくて、転職してもらえばいいじゃんということを言ったまで。
JTCって、傾向としてお堅いんですよ。何かと。少しでもしなやかな企業体質にしておかないと、優秀な人材は逃げちゃうし、こないよーという話。JTCの一部は、新卒の就職活動で、受けに行かずともスカウトが来たりもしますが(バリバリの理系じゃなくても。米国のようです)、見かけの報酬とワクワクうきうき度合いに差がありすぎて、やっぱり外コンってなっちゃうんですよね、、、、。
外コンは転勤リスクもない場合が多いしね。
いずれ私の話は議論ではなく雑談レベル。
meta視点からさんと対等に議論できる頭脳レベルも時間もない 笑
サーモン話、楽しく拝見しています。
エデュはギョーカイの人というか関係者というかは結構見てるから、届いていると思いますよー。こっそり参考にされるかもしれない 笑
凡人さん、ありがとうございます。
確かに「なんとなーくの雰囲気で選ぶ」というのはよく見かけますね。特にここ10年で新設インターや国際系中高が一気に増えて、選択肢そのものが広がった。となれば、理屈よりも「英語やってくれそう」「共学で雰囲気がいい」みたいな判断軸に流れるのは自然です。マーケティング設計のうまさも相まって、多くの家庭にとって手を伸ばしやすい選択肢になっているのは間違いないと思います。
一方で、雑に足し算すると、海外大学進学者がこの10年でざっくり2倍近くに増えているのは事実です。母数が増えたのは確かに「雰囲気で選んだ層」の広がりが大きい。ただしその先、トップ校まで突き抜けていくのは、依然として情報力と戦略を持つ家庭。分布でいうと「底上げ」と「先端突破」が同時進行しているイメージでしょうか。
JTCの話も、まあその通りで、確かに「お堅いままでは若手は振り向かない」ですね。転職市場で外コン育ちを中途で吸収する、という発想は筋が通っているし、既にそういう動きが見え始めてもいます。転勤リスクの有無やワクワク感の差も、地味に効いてきますよね。
そして最後に。
カンバック・サーモン計画に触れていただいて、正直すごく嬉しかったです。溜め息すら出ない、AI丸投げで、劣等感剥き出しの雑なレスばかりで、流石に辟易、読まれてすらいない前提で書いていたとは言え、こう堂々と脳は使いませんアピールをされ続けると、ヒトとしてダメージが。
リップサービスだとしても、初めてまともに返していただけた気がしました。ありがとうございます!
あといつも買いかぶっていただくのも、冗談や、寧ろ揶揄で誉め殺しの類いと分かっていても案外面映いです。
西千葉さんや凡人さんのような方が若干でも残っているのは本当にエデュの財産だと思います。
渋渋渋渋言ってるのとか、不毛な水掛け論のエンドレスリピート(最近では私も輪の中にいたりしますが)、無意味なフェイクの経歴や、出来もしないことをできると妄想しているヒト未満の方など。
およそメジャー掲示板では存在し得ない有象無象が、過疎故に、手練れに攻撃されない、特定や嘘が暴かれず、開放区で跋扈する様が異様で異様で。
まあ、本音の愚痴はここまで。今後も私に取って、一服の清涼剤的、知の交流ができれば幸いです。
レスありがとうございます。全然遅レスじゃないです。
改めて新学部名を見つめると、デザインの学苑、というところでしょうか。つまりここでは、学問的対象の精緻な分析よりも、対象を取り巻く環境を時間空間面で広域的に把握した上で、課題の発見とその解決のための技法を追究することを主眼とするように思われます。おそらく、課題の発見には創造性が求められると思います。例えば、近代日本で一般に読まれた哲学入門書を通覧して、そこに現れるの学問的業績と解説から、執筆者が意識していた読者の考え方の一連の変化を読み取り、そこから、近代日本人の思考の変容の行方を予測し、30年後の哲学入門書を仮作成して、その時が来たら読み比べる、という「デザイン」などが有り得るでしょうか。折角ですから皆さんも、本入試でのエッセイと面接準備のアイディアを、metaさんのように出し合ったら、スレッドに触れる入学希望者に面白がって貰えると考えます。




































