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東京大学が国際系新学部設立→国際系の学校が人気に?

【7697918】
スレッド作成者: 東大王 (ID:nMjSBSRGBB.)
2025年 08月 06日 17:57

東京大学 新学部開設:2027年秋
新学部名:「カレッジ・オブ・デザイン」

入試概要:
A方式(50名)
 *大学入学共通テストの結果
 *高校の調査書(または成績証明書)
 *エッセー
 *東大が指定する英語試験の結果などの書類
 *英語による面接

B方式(50名)
 *東大が指定する国際的な統一試験の結果
 *複数の提出書類
 *英語による面接


特定学校の誹謗中傷は厳禁でお願いします

【7710857】 投稿者: meta視点から   (ID:JizwtreLRyg)
投稿日時:2025年 09月 16日 15:58

海外大学進学を「流出」と捉える視点は、根本的に浅い。

エデュでは、海外大進学を「人材流出」と嘆く声がある。あるいは、起業の現場を知らぬ人々が「アングラ大の方が起業には向いている」などと軽々しく口にする。しかし、それは表層をなぞるだけの言葉に過ぎない。

海外大に進むことは、むしろ大いなる財産だ。日本では決して出会えない、世界の頂点に立つ知性やグローバルな起業家、未来を牽引する人材たちが醸し出す空気に触れ、それを吸い込み、呼吸する経験。それは、国内に閉じた教育環境では絶対に得られないものだ。

問題は、その後にある。海外で培った知性が、ただ日本を離れて定住し、やがて国籍すら捨てていく例もある。アカデミー賞を複数回受賞した世界的メーキャップアーティストであり現代美術家のカズ・ヒロがそうだ。彼は「過去に日本人であった」という経歴さえ拒絶した。

一方で中国は、全く逆の回路を築いてきた。いわゆる「海亀」として帰国し、海外で得た知を国家に還元させる仕組みである。そこでは海外大を経てMagnificent Sevenの一流企業に就職した者でさえ、最終的に祖国に戻り、知を本国に接続するエコシステムが実際に機能している。IT、AI、ロボティクスだけでなく、現代アートや伝統芸能に至るまで国家が惜しみなく投資し、循環の網目を張り巡らせている。だからこそ、起業家たちはアメリカではなく自国を舞台に選ぶ。

決定的な差は明白だ。国家が「グローバル知性の価値」をどれほど精確に見極め、予算と制度を投じ、受け皿を設計できるかどうか。中国はそれを現実にした。だから知は流出せず、循環を生み出す。

東大新学部の挑戦は「ガラケー」に終わるのか。それとも「ウォークマン」のように時代のエポックを刻むのか。あるいは、やがてiPodに駆逐されたウォークマンの轍を辿るのか。いずれにせよ、その命運はひとえに、そこから巣立つ若者をいかに国家のリソースとして接続し還流させるかにかかっている。知性は、投資と接続を前提にして初めて国益へと変わるのだから。

海外大進学の増加はむしろ希望だ。それを「流出」と呼ぶか「循環」と呼ぶかは、国家の構え次第である。願わくば、未来の知性が二度と「カズ・ヒロ」として孤独に漂泊せず、「海亀」として還る港を見出せるように。日本がその港であり続けられるか否か、それこそが東大新学部という実験の真の賭け所である。

そして忘れてはならない。接続力とは単なる人的ネットワークではない。予算、制度、評価、報酬、文化。。。あらゆる資源を総動員して知を迎え入れ、循環させる構造のことである。「海亀」はその典型で現実に機能し得るという成功例。日本はまだそこに至っておらず、多くの才能が接続を失い、ただ漂い続けている。

教育や大学の議論を、進学先や学校ブランドの優劣に矮小化することは無意味だ。論じるべきは、学びを循環させる構造であり、その制度設計である。これを欠いたままでは、どれほど海外進学者が増えても、外国人を受け入れても、それは「流出」にしかならない。逆に設計さえ整えば、それは「循環」となり、国益そのものに直結する。

教育の本質とは、個々の栄光や肩書きではなく、学んだ知性を社会と国家に還元できるかどうかに尽きる。視座を欠いた言説は、議論ですらなく、ただ無機質なテキストの往復でしかない。

海外で得られる学びの価値を、日本がどう受け止めるか。制度と環境がそれを持続可能に循環させる仕組みを備えられるか。それこそが教育を国家戦略として成立させる鍵である。

そして。。。その答えを出せぬまま時間だけが過ぎれば、知は二度と還らぬ。だが、もし接続の回路を描き切ることができれば、その知は大河となって祖国を潤すだろう。東大新学部の挑戦とは、その分水嶺にこそ立っている。

【7710867】 投稿者: まだ、は、もう   (ID:3uIWIn.zqpI)
投稿日時:2025年 09月 16日 16:24

いわゆるAI-tongueを東大が排除するとすれば、帰責を避けるために、保護者以外は助言をしないでしょうね。いわゆる国際系高校の先生方も、悩ましい所ですね。

【7710884】 投稿者: meta視点から   (ID:JizwtreLRyg)
投稿日時:2025年 09月 16日 17:34

剽窃と違い、AIは使用自体に痕跡は残らない。
だからバレないと思い、浅はかな人間が多用し、賢くなったと錯覚する。

が、そんなものは面接ですぐ暴かれる。。。が、ガジェットが進化し、今や耳内に入れた金属片で骨振動により面接の指示を本人だけに聞かせることすら可能となるとそれすら怪しくなる。

一体人間はどこに向かっているのだろう。
昨日の削除騒動でも本当に思います。一番多く削除されているのが、一人のAIのみで書き込んでいるユーザーです。

どこまでいってもメッキはメッキ。

【7710913】 投稿者: まだ、は、もう   (ID:vyDXVQKdMHE)
投稿日時:2025年 09月 16日 18:52

面接官がAI-orientedでない、という保証まで要する将来などは、ちょっと面白いですね。それらの意味で、引き返せない途を東大は選んでしまった、とも言えそうです。

【7710915】 投稿者: meta視点から   (ID:JizwtreLRyg)
投稿日時:2025年 09月 16日 18:56

まあネットなどの回線を物理的に遮断するシールドルームでやるのが必須になるでしょうね。

現実に中国や海外は既にそうなっています。
電波妨害デバイスが試験会場の必須アイテムです。

【7710954】 投稿者: meta視点から   (ID:7st87S/kVXE)
投稿日時:2025年 09月 16日 21:15

日本の一部には、海外大進学を「人材流出」と嘆く声がある。或いは、自ら起業と全く無縁な人間が「アングラ大の方が起業には向いている」などと軽々しく口にする。しかし、それは余りに浅薄だ。

海外大に進むことは、むしろ大いなる財産である。日本では出会えない、世界の頂点に立つ知性や起業家、未来を牽引する人材たちが生み出す空気に触れ、それを吸い込み、呼吸する価値。それは国内に閉じたままでは決して得られない経験だ。

問題は、その後である。海外で培われた知性は、果たして「カズ・ヒロ」となるのか。カズ・ヒロとは、京都出身のメイクアップアーティストで、アカデミー賞を複数回受賞した世界的才能である。しかし彼は、日本での生きづらさを抱え、アメリカに渡り、国籍を離脱し、過去の日本人としてのアイデンティティさえ拒否した。日本に戻らず、自らの居場所を海外にしか見出せず、国益の外でその才を放つ者の象徴である。

現代美術家の草間彌生、李禹煥、村上隆、松山智一のような世界的才能も、日本という未熟で突出を異端としか評価できないシステムに弾かれた存在である。一方で、大谷翔平のような才能は評価はされたものの、日本が十分な環境や報酬を提供できなかったため、結果としてメジャーリーガーとしてアメリカで活躍せざるを得なかった。海外での活躍を無邪気に喜ぶだけでは視座が浅いのだ。そこには、日本の制度や国家の評価軸の欠如、加えて人材を接続する力の不足という根深い構造的問題が横たわっている。

或いは、中国のように「海亀」として帰還する道もある。中国では、海外大を経てMagnificent Sevenと呼ばれる一流企業に就職しても、最終的に祖国に戻り、その知を国家に還元する仕組みが整備されている。

決定的な差は、国家が「グローバル知性の価値」をどれほど正確に見極め、予算化し、投資する接続性を備えているかにある。中国はそれを実現した。だからこそ、彼らの知性は「頭脳流出」ではなく「頭脳循環」を生む。

東大新学部の挑戦は、「ガラケー」に終わるのか。それとも「ウォークマン」のような歴史的エポックを刻むのか。あるいはその先、iPodに取って代わられたウォークマンの轍を辿るのか。いずれにせよ鍵は、そこから巣立つ若者をいかに接続し、国家のリソースとして還流させるかにある。

知性は、投資と接続を前提にして初めて国益へと還元される。海外大進学の増加はむしろ希望である。それを「流出」と呼ぶか、「循環」と呼ぶかは、国家の構え次第だ。

願わくば、未来の知性が二度と「カズ・ヒロ」として孤独に漂泊せず、「海亀」として還るべき港を見いだせるように。日本がその港であり続けられるか否かこそ、東大新学部という実験の命運を握る一点である。

【7710957】 投稿者: meta視点から   (ID:7st87S/kVXE)
投稿日時:2025年 09月 16日 21:25

大阪市街の片隅で目にしたその光景は、まるで巨大なアンディ・ウォーホルの顔が金属の台座の上に載せられ、半ば宙に浮くように佇んでいるようだった。台座は、金属が溶け出したかのように滴り、危うくも美しい。隣に立つ人物は、おそらく作者のカズ・ヒロ。

“Study:大阪関西国際芸術祭 2025 第2章:人・命への考察 リシェイプド・リアリティ ハイパーリアリズム 刻の50年”

その文字列が、一瞬で私を捕らえた。

お隣の海遊館は、言わばついで。余白の整理にすぎない。主眼はあくまで、天保山の大阪文化館で開かれたこの展覧会に、私の身体を投げ込むことだった。

カズ・ヒロ。特殊メイクの神としてハリウッドで確固たる地位を築き、オスカーを二度手にした異才。彼は「辻一弘」という名前を捨て、日本国籍も手放し、アメリカ市民として生きる道を選んだ。

「人間関係に悩んでいた」「日本にいたままでは個として生きられない」——彼の言葉には、日本という共同体への決定的な絶望が透けて見えた。私も、その一人だ。

だからこそ、今回の展示には「芸術祭への参加」という枠を超えた意味があった。

私にとっては、カズ・ヒロという才能と、日本という国、いや「場」あるいは「間」との再接続が可能か——という問いだった。

思い返せば2023年、NHKアカデミアの告知が流れた。彼の自宅スタジオからの生配信で、受講者の質問に答えるという企画。メーキャップアーティストとしての彼しか知らなかった私にとって、彼が現代美術家としての顔を持つことを知った瞬間でもあった。しかし、衝撃はそれだけではなかった。

「え、彼が日本人の質問を受けるの?」

あれほど国籍を切り捨てた彼が、日本と再び交差するのだろうか。それは単なる帰還や和解ではなく、より精妙で危うい接触のように思えた。

展示作品群は、生々しすぎるほどのリアルな「顔」を通して、「人間とは何か」を問い直す構造を持っていた。それは、「リアルすぎる」ことによって逆説的に「生の不確かさ」を浮かび上がらせる試みでもある。

時計好きの私が愛するカルティエのタンク。その原点は、ウォーホル、すなわちアンドリュー・ウォーホラにある。

タンクを愛する「タンキスト」として知られる彼の言葉——
「タンクを巻くのは、時間を知るためじゃない。身に着ける最高の時計だからさ。その証拠に、僕はゼンマイさえも巻かないのだから」。

ポップアートの巨匠であり現代美術の先駆者の影響を、私が受けないわけがない。かくいう私も、腕に嵌めながら「なんて美しい造形だ」と惚れ惚れするだけで、時間は大概見ていない(笑)。

そこから、ウォーホル→ダイアナ妃→吉田博の版画→インド、東南アジア、グランドキャニオン、ナイアガラ、レーニア山へ——という壮大な聖地巡礼の物語が展開される。私の人生に影響を与えた彼と、立体造形として邂逅できることの感動は、美術鑑賞の枠を超えていた。

美しい。彼の存在そのものが、佇まい、表情、ポージング、毛穴に至るまでアートだった。

写真撮影OKの展示で、全方位何百枚と撮ったが、どこを切り取っても、彼が画角に入るだけでアートになる。圧倒的な存在感。カズ・ヒロの超絶リアリティと造形美が支えている。

彼がなぜアンディをモチーフにしたのか。ファンでなくとも、彼の存在そのものにアートを見出す感覚に、自然とシンパシーを覚えてしまう。いや、アカデミー受賞者に対して、少々烏滸がましいのだが(笑)。

うん、来てよかった。2,500円はこの一作品だけで元が取れた、というお得感。

そして、この体験は私に、個人的記憶と深く重なる問いを突きつけた。

日本は、なぜこの才能を手放したのか。

カズ・ヒロだけではない。ノーベル賞を獲った研究者たちも、日本のアカデミズムから離れた。村上隆は国内で煙たがられ、李禹煥や草間彌生も、海外で評価されて初めて逆輸入された。この国は、いつから異物を扱えなくなったのか。

東大カレッジ・オブ・デザイン構想に希望を見出す一方で、「構想の先にある摩擦」「重力差」に繰り返し言及してきたのは、まさにこの構図への疑念ゆえだ。

理念は美しい。だが、その理念を支える現場の「手間」や「疲弊」は誰が引き受けるのか。理念を語る人と、現場で学生と向き合う人のあいだで、「顔」は見えているのか。

カズ・ヒロの作品は、まさに象徴的だった。顔がありすぎることは、逆にそれが仮面である可能性を孕む。「支援者」「ファシリテーター」「アルケミスト」——教育現場で使われる言葉も、しばしば「顔」を与えすぎ、本質を曇らせる。

展示室で私は思った。カズ・ヒロは本当に「日本を見限った」のか? 国籍を手放したことと、日本社会への絶望はイコールなのか?

むしろ彼は、誰よりも「顔」、つまり「人間を構成する記憶や苦悩や尊厳」を愛しすぎたがゆえに、あの国籍を手放さねばならなかったのではないか。

ならば、今回大阪で展示という形で現れたのは、芸術による一種の「再交渉」ではないかと思えてくる。

彼を日本が受け止めるのではない。日本が、ようやく顔を見てくれる場所になれるかどうかが試されているのだ。

だから私は、今回の東大構想にも、今の日本社会にも問いたい。

その「顔」を見る覚悟があるか。理念でも制度でもなく、その制度の中で傷つき、孤立し、耐えている「顔」を、真正面から受け止める覚悟があるか。

それができないまま、「多様性」「グローバル」「新しい才能の包摂」を語っても、すべてはまた「仮面」に過ぎない。日本はいつまで、このマスカレードに浮かれているつもりなのか。

私が大阪観光地巡りに至った本当の理由は、そこにある。そして、熱波の中で立ち尽くすことでしか受け取れない「問い」が、確かにそこにあった。

この国は、「顔」を直視する覚悟があるのか。それとも仮面のまま、次なる才能をまた見送るのか。

【7710993】 投稿者: meta視点から   (ID:/TMIUxqFGos)
投稿日時:2025年 09月 16日 23:09

日本社会の「安定」の正体は、突出した個を許さない構造にあると思う。

それはよく村社会的だと軽く扱われがちだけれど、実際にはもっと深く根を張っていて、制度や構造にまで組み込まれている。小学校から大学、会社に至るまで、協調性が評価の中心に置かれ、出過ぎた人間は煙たがられる。組織にとっては管理しにくいリスクと見なされてしまう。それはもはや価値観とか心理の話ではなく、社会全体に埋め込まれた設計思想みたいなものだ。だから、簡単には変わらない。

西欧の例を見ると、たとえばフランスのエリート教育(グランゼコール)や、アメリカのポスドク制度では、序列の根拠が年齢ではなく、実績で柔軟に組み替わる仕組みがある。日本でも年功序列が崩れたように見えるけれど、それは新自由主義的なコストカットと非正規雇用の拡大とセットで進んだもので、若手が自由に抜擢される場が広がったわけではない。

本質的な問題は、若者が抜擢されないことそのものよりも、異端が評価される回路がないという点にある。新しいものを生むのは、いつの時代も、常識の枠からはみ出した変わり者であって、順当に育った優等生ではない。でも、日本では年長者の顔を潰さないかたちでしか若手は評価されず、組織の中で突出すること自体がはじめから許容されていない。

明治維新や戦後の復興期に若者が表舞台に出られたのは、既存の秩序が一度壊れたからであって、普段は排除されている突出が、壊れた隙間から一時的に流入したというだけの話。今の日本は、秩序自体は生き残っているのに、機能だけが止まっているという、もっと厄介な状況にある。

都知事選で有名になった安野夫妻が際立って見えるのも、制度の内側で評価されているというより、制度の外にいるからこそ、という印象がある。ちな、奥様であるりなくろさんは中高大、すべてかぶっている上に、さらに重なりもあって、かつ昭和歌謡マニアという共通点もあって(つねにねむいというとこも一緒w)、推したいポイントですが、引いて見れば、制度の中で評価されていない限り、どれだけ魅力があっても社会全体を変える力にはなりにくいのが現実だと思っています。

突出を許す社会とは、突出を持ち上げる社会のことじゃない。大事なのは、異端が制度の中をちゃんと通過できる構造があるかどうか。それがなければ、突出も結局、外に弾き出されるだけになる。いまの日本に欠けているのは、実力主義ではなく、異端を制度に取り込む回路そのものだと思う。

その意味で、りなくろさん(安野里奈)さんが工学部から文学部に転部したのは、ひとつの異端の軌跡としての一例かもしれない。きっかけになったのは、ミランダ・ジュライの『いちばんここに似合う人』という本だったそうだ。バルガス=リョサのノーベル賞講演を聞いて、それが転部の決定打になったとも語っている。

彼女は中学時代から『デセプション・ポイント』に夢中で、自由研究(中3が1年かけて書く卒業論文みたいなの)をアメリカ大統領選について書いたという。*ちな、一方でちょい下の私はというと、その年、NHKで再放送されていた『映像の世紀』に衝撃を受け、「アウシュヴィッツはなぜ工場だったのか?20世紀における死のマネジメントと労働倫理の終焉」という自由研究を書いていた(今考えてもイタ過ぎる。。拗らせすぎやw)最後の最後に、世界に出すんだ、うん、英語にしようと、全編英文で翻訳し、英語の先生に「やる気は伝わるが、誰も添削できません」と困らせたのは今でも少し申し訳なく思っている、ちなみにもうさすがに捨てたが、後に振り返ると、文法や単語のミスだらけで、あれを数十枚読まされ、間違いだらけで意味も不明、そりゃ誰も直せないわw先生、本当に申し訳ない。。。)

里奈さんの本題に戻って、高校では「他人に勧められた本はとりあえず買うようにしている」という友人の言葉を今も覚えていて、そんな大人になろうと心に決めたというエピソードも印象的だった。こうした感性と、文理を横断してきた経験が、いまの彼女をつくっているのだとすれば、突出を潰すか讃えるかではなく、個がどこに逸れていっても拾い上げられるような構造を、制度側が持てるかどうか。そこにもっと目を向ける必要があるように思う。

ある日ふと、別のホームに降りてしまった誰かが、そのまま行き先を変えて戻ってこない…そんな脱線すら、どこかでつながっていると信じられる社会。異端とは、いつもそうやって世界の形を少しだけ書き換えてきたのだ。そんな異端(あたしもおそらく該当w)が許容される社会、案外それは八百万の神のいた昔の日本の社会に近いものなのかもしれない。

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