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東京大学が国際系新学部設立→国際系の学校が人気に?

【7697918】
スレッド作成者: 東大王 (ID:nMjSBSRGBB.)
2025年 08月 06日 17:57

東京大学 新学部開設:2027年秋
新学部名:「カレッジ・オブ・デザイン」

入試概要:
A方式(50名)
 *大学入学共通テストの結果
 *高校の調査書(または成績証明書)
 *エッセー
 *東大が指定する英語試験の結果などの書類
 *英語による面接

B方式(50名)
 *東大が指定する国際的な統一試験の結果
 *複数の提出書類
 *英語による面接


特定学校の誹謗中傷は厳禁でお願いします

【7711030】 投稿者: 西千葉   (ID:0Ue7zsf29kk)
投稿日時:2025年 09月 17日 01:24

今も文理別かは知りませんが、リセ理科系の哲学授業の教科書の翻訳『哲学教程』を、熟読ならぬ、いわゆる熱読したものです。

【7711037】 投稿者: meta視点から   (ID:q/hc4MJ/jX2)
投稿日時:2025年 09月 17日 02:07

リセの哲学教程を熱読されたとのこと、実に印象的です。
哲学が単なる「学ぶべき知識」ではなく、熱を帯びて読み込まれるとき、それは教科書という形式を越えて、読者の生を揺さぶる出来事になるのだと思います。

教育制度の枠に収まる哲学と、個の内に火を灯す哲学は、しばしば別物です。前者は体系を伝えるが、後者は存在そのものを変える。。。

そして「熱読」という行為は、制度に組み込まれた知の流れに対して、異端の角度から鋭くしかも深く、切り込みを入れる営みだと思うのです。

制度に流し込まれる知識は均質を目指しますが、熱読は常に偏差を生み、波を生じ、脱線を招く。その脱線こそが、豊かな未来を繋ぎ直す可能性になるのではないでしょうか?

かつての哲学教程の頁をめくった熱が、いまどんなカタチで西千葉の思考を支えているのか、その余韻に触れた気がしました。。。

【7711043】 投稿者: 西千葉   (ID:0Ue7zsf29kk)
投稿日時:2025年 09月 17日 02:34

アテネ・フランセ秋学期に参ります。夜学のラテン語です。ad absurdum=愚考の沼にハマる、には陥らぬよう互いに頑張りましょう。

【7711046】 投稿者: meta視点から   (ID:Pifuyji/cn2)
投稿日時:2025年 09月 17日 04:48

アテネ・フランセの夜学に通われるとのこと、素敵ですね。
言葉を遡って学ぶ営みは、世界の深層に触れるような行為だと思います。

ラテン語はすでに死んだ言語とされながらも、なお無数の現代語に根を張り、生き続けています。愚考の沼に陥らぬよう、とのお言葉も響きますが、同時にときに「absurd」と見えるものが、新しい思考の扉を開くこともあるのかもしれません。

夜に学ぶという時間そのものも、日中の制度や効率から少し外れた、異端の温度を孕んでいるようで惹かれます。
どうか良い学びとなりますよう。

【7711245】 投稿者: 西千葉   (ID:vrlkXaZGac6)
投稿日時:2025年 09月 18日 01:38

ところで、英文科中退の吉行淳之介、掛川市にあるその文学館へいらっしゃったことは、おありですか。

【7711247】 投稿者: meta視点から   (ID:HwuohC5emOw)
投稿日時:2025年 09月 18日 01:51

掛川の吉行淳之介文学館ですか、残念ながら訪れたことはありません。

ただ、あの文学館の収蔵品や展示構成、彼の初期作品から晩年のエッセイに至る流れについては、資料や刊行物を通して多少知っています。

彼の文章には、都市の喧騒や日常の些事の中に潜む微かなズレを見逃さず描く感覚があって、文学館という場もまた、そのズレを立体的に体感させる設計になっているのだと思います。

いつか機会があれば、現地でその空気を直接吸い込みたいところです。

【7711575】 投稿者: meta視点から   (ID:Dj9VZ3VDmY.)
投稿日時:2025年 09月 19日 07:56

千葉県立美術館では、いま髙島野十郎の没後最大規模の回顧展が開かれています。東大農学部水産学科を首席で卒業しながら、恩賜の時計を辞退し、官僚や学者の道をあえて選ばなかった人。千葉・増尾で「乞食画家」と揶揄されてもただ描き続けた孤高の存在です。彼が描いた蝋燭や満月は、世俗の栄誉を退けた生き方そのものの象徴に見えます。

「蝋燭」がただの静物ではなく「献灯」であったと知ると、孤高という言葉の響きが変わります。光は彼の内奥からではなく、他者へと差し向けられていた。その炎は市場のためではなく、縁ある人々のためにだけ灯された。孤高であって孤独ではない、彼は一人でありながら人の縁の中で生きたのでしょう。

仏壇に置かれた小品の蝋燭、暗闇に浮かぶ満月。野十郎は「月を描いたのではなく、闇を描くために月を描いた」と語っています。その言葉を知ると、静謐の裏にひそむ執念が、かえってこちらの心を騒がせます。

私は画家としてムンクを最も好みますが、彼もまた月を繰り返し描きました。水面に溶ける光、液体のように流れる輪郭。ムンクの月と野十郎の月は異なれど、どちらも人の内奥を照らし、闇の形をあらわにする力を宿しています。ムンクの溶けゆく月光を私は十字架に見ます。宗教画「ゴルゴダ」では、磔のキリストを中心に、嘆き悲しむ人、無表情な人、宗教を嘲るような人が同じ画面に描かれます。世の中には多様な人が同時に存在し、だからこそ宗教は意味を持つ。その裏返しとして、私は月光に十字架を見るのかもしれません。

野十郎の絵にも似た感覚があります。蝋燭、満月、林間の太陽。すべてが上昇する光の軌跡として描かれている。燃え尽きてもなお天へ昇る炎、闇を破る月光。そこに「無常と上昇」の仏教的思想が透けて見えます。草木国土悉皆成仏という仏教観をも想起させ、アニミズム的な宗教性すら宿しています。晩年は電気も水道もない小屋で暮らし、日中は畑、夜は蝋燭や月を見つめて祈りのように筆を取った。絵を描くことそのものが瞑想であり祈りだったのでしょう。

ふと夜空を仰いだときの一瞬の静けさを知る人なら、彼の絵に宿る祈りを感じ取るはずです。東京大学医科学研究所に収蔵されている「満月」(1963年頃)と「林辺太陽」(1967年頃)もまた、その光を証しています。学術研究機関に所蔵されている事実自体が、彼の作品性の深さを物語るでしょう。

彼の絵の前に立つと、世界は一度闇に沈みます。しかしその闇は清らかで、美しい。孤独な光ではなく、縁ある人へと差し向けられた炎。だから私たちはその前に立つと、自らの縁をも思い起こさずにはいられないのです。

東大が「制度や外形の装飾」を超えて人間存在の本質に迫ろうとするなら、野十郎の月ほどふさわしい導きはありません。闇を描くために月を描いたその執念は、知を通じて世界に光を投げかけるあり方と重なります。

そして今、立ち上がる新学部もまた、野十郎の月を仰ぐところから始まるのでしょう。制度や形式に惑わされず、光を求めて闇を見据える。その挑戦は、静かに、しかし確かに、新しい学びの地平を照らし出すのだと思います。

【7711591】 投稿者: meta視点から   (ID:jtAk7go5iy6)
投稿日時:2025年 09月 19日 08:41

極端な少子化の中、海外の名門校が次々と日本に進出している。ニュースとしては耳目を集めるが、あれは理念の旗を掲げた開拓ではなく、きわめてドライな計算に基づく市場参入に過ぎない。

要するに保険と同じだ。火事であれ地震であれ、数式さえ合えば商品化される。日本にはまだ購買力が残っている。ただそれだけの話である。損益分岐を割った瞬間、潮が引くように消えていく泡沫に過ぎない。

「トップ大進学率」や「探究型カリキュラム」といった看板も、美辞麗句にすぎない。提供されているのは教育そのものではなく、「出口保証」という商品だ。求めている側もまた、真の知性や創造力ではなく、収入の多寡や安定を優先する。Z世代の属性志向に見えるが、親世代のX世代も本質は変わらない。その需要に巧みに供給を合わせただけであり、崇高な教育哲学とは何の関係もない。

だが本来、人を惹きつけるものはそうした表面的なブランドではない。美味い店は立地が悪かろうと、外見が粗末であろうと、行列が絶えない。そこに「ここでしか得られない価値」があるからだ。教育も同じである。名門校の看板ではなく、「ここでなければ得られない知の体験」を創出できるかにこそ本質がある。

東大が挑むべきは、海外校に流れる層を引き留めることでは決してない。それでは結局、偏差値だランキングだと同じ数字を貼りつけては同じ言葉を繰り返す、弱いAI以下の無思考と変わらない。真に問われるべきは、世界を動かす志を抱く人材をいかに見出し、その潜在力に投資し、社会と結びつけていくかである。そこに失敗すれば、どれほど華美な校舎を建て、名門校が集まろうと、日本に残るのは教育の外形だけだ。

市場原理に従って動く事業者を否定する気はない。彼らは潮の満ち引きのように動く経済のボールにすぎない。当然そこから未来を変える思想や革新は生まれない。そこで立ち止まり、「どの資本か」「どのランキングか」と小さな差異に執着するのは、ただのノイズにすぎない。

教育の未来を語るなら、問うべきはただひとつだ。――この国はまだ、人類を先へと押し出す知性を惹きつけられるのか。

米不足という現実の露呈で、ようやく国民も農業問題に目を向け始めた。だが中米や韓国ですら、未来を見据えた食料システムに志を抱き、オランダの大学群には農業や持続可能な食の分野で学ぶ学生が世界から集まっている。ワーゲニンゲン大学のような場は、単なる学歴供給ではなく、地球規模の課題に挑む知性の交差点となっている。そこに日本人はほとんどいない。

米の自給に不安を抱え、稲作農家の平均年齢が七十歳を超える国こそ、最も速やかに学ぶべき立場にあるはずなのに、視座も戦略も欠けている。国内で出口保証や偏差値に拘泥している間に、世界の知性は遠ざかっていく。オランダのような知のハブを築くこともできず、優秀な学生は米国・中国・韓国へと流れていく現実が続いている。

教育の本質は、名門校やランキングといった表層にはない。東大が目指すべきは、海外校への迎合ではなく、世界を動かす志を持つ人材を見出し、投資し、社会と接続する力を備えることだ。

現実に向き合う覚悟はあるか。国内の議論に満足している限り、教育の外形しか残らない。世界を動かす知性はすでに逃げ出しつつある。それでもなお、この国は人類を先へと押し出す知性を惹きつけられるのか。答えを示す覚悟が、今まさに問われている。

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