今年入学した高1生が語る青春リアル
東京大学が国際系新学部設立→国際系の学校が人気に?
東京大学 新学部開設:2027年秋
新学部名:「カレッジ・オブ・デザイン」
入試概要:
A方式(50名)
*大学入学共通テストの結果
*高校の調査書(または成績証明書)
*エッセー
*東大が指定する英語試験の結果などの書類
*英語による面接
B方式(50名)
*東大が指定する国際的な統一試験の結果
*複数の提出書類
*英語による面接
特定学校の誹謗中傷は厳禁でお願いします
大学より、教員公募案内が出ていますね。
『東京大学より College of Design 教員公募のご案内』
フルカラーで英文、和文の併記。
「東京大学では、2027年に新たに設置する、UTokyo College of Design の専任教員(教授、准教授、講師、助教)を募集しています。詳しくは、下記の公募要領をご覧ください。」
https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400264193. pdf
両方(日本語部分と英語部分)読みました。
この公募要項は「UTokyo College of Design(COD)」の専任教員(Associate Professor / Lecturer / Project Associate Professor / Project Lecturer)の募集ですね。
英文部分では、日本語と同様に 採用人数(若干名)・応募資格(博士号または同等の業績、英語での指導・研究能力、異分野横断的研究への意欲など)・任期(5年、再任可)・着任時期(2027年4月〜2028年3月)・勤務地(本郷キャンパス)・待遇(年俸制、テニュアトラック的な要素もあり) が書かれています。
特徴的なのは、日本語でも英語でも「分野を特定しない」と明記されていて、CODの「Design」という語は工学的なデザインに限らず、社会・文化・科学を横断する「新しい価値創造のためのデザイン」を指していることです。
つまり、専攻や研究分野に縛られず「異なるバックグラウンドを持った学生に対して、国際的・学際的に教育できる人」を求めている。大学の「新学部」というより、大学院レベルに近い学際拠点の立ち上げに見えますね。
読んでみて、募集要項は「誰を雇うか」を超えて「大学をどう組み替えるか」を宣言する文書でしたね。
通り一遍の求人票ではない。読めるのは三つの再定義、教員の職能、学部という器、そして大学の言語。
第一に、教員像の再定義。
研究実績だけでは足りない。英語で授業を設計し、多国籍の学部生に伴走し、しかも全寮制という生活空間の手前で学生支援に関与する役割が明記されている。
これは講義者でも研究者でもなく、学習共同体の建築者を求めているということです。この時点で、日本の大学に長く根付いてきた「研究は研究科、教育は教養学部、学生生活は課外」という分業は崩れる。職能は統合され、責任は面で問われるのでしょう。
第二に、学部という器の再定義。
9月入学、全英語、全寮制という三点セットは、カリキュラムだけでなく時間割と暦と居住をも教育設計に組み込む意思表示でしょう。
暦が変わると、履修管理、成績確定、学内合同科目の接続、他学部との単位互換、人事評価のサイクルまで連動して揺れる。要項があえて学部専任を打ち出すのは、その揺れを既存組織の外付けユニットで吸収するのではなく、中核として受け止める決意の表現に見えました。
第三に、大学の言語の再定義。
教育言語としての英語化は、授業の媒介を置き換えるだけでは済まない、というより済ませない。
委員会運営、学内規程、学生ハンドブック、実験倫理、安全講習、ハラスメント対応、キャリア支援、広報。
真に英語で回すなら、大学の神経系ごと双語化が必要になる。募集要項が教員に求めるのは、教室の英語運用にとどまらず、医学的に表現するなら、その神経系へのブリッジ職能です。
ここを読み落とすと、英語授業の殻だけが残り、制度の中枢が日本語のままという二層構造が固定化される。
この要項は同時に、大学院偏重の研究駆動モデルに対して、学部フェーズを研究と社会接続の起点に引き戻す試みでもあるとみました。
国籍構成が偏れば研究テーマ、共同研究先、採択課題の地理が偏る。だから入口で多様性を担保し、居住と学修を束ねる場で混ざり方を設計する。
採用文面の素朴な一文の裏に、こうした配管図がはっきり透けて見えます。
当然、摩擦は生じるでしょう。
会計年度と学期暦のずれ。科研費や学内配分の評価サイクルと海外型学期の非同期、学際人材の審査を誰がどう評価するかという審査能力の問題。
英語で教える教員の校務負担と昇進査定の按分。寮という生活圏に関わることで生じる可視化されにくい労務とメンタルケアの配分。
この種の摩擦は、採用後に現場で教員個々の善意に回収させた瞬間に制度疲労へ転じるでしょう。
募集の段階で、役割記述に生活領域と制度領域の両方を織り込んでいるのは、負荷の所在を曖昧にしないための予防線にも見えました。
学際(学問分野をまたぐこと、interdisciplinary)を理念として掲げている以上は、それに相応しい姿勢や実践が求められる評価軸も作り直す必要があります。
従来の専門学会のジャーナル掲載と科研費が唯一の尺度になるならば、デザインや実装、フィールド連携、コホート形成といった可視化しにくいアウトカムが置き去りになってしまう。。。
要項は、教育設計と共同体運営を教員の主要業務に含めている。であれば、テニュアや昇任において、その成果を定常的に記録し、査読とは別の公的評価として組み込む設計が不可欠でありましょう。
ここを制度化できなければ、学際の名の下に個人の無償労働が積み上がるだけになってしまう。。。
人材流通の目線でも示唆は多いと感じました。
世界から採るなら、着任時の研究立ち上げ費、研究支援スタッフの配置、家族帯同の生活基盤、校務と研究の比率、寮務や新規科目開発に要する時間の見積もりを、採用交渉の一次情報として開示しなければならないでしょう。
要項が生活と教育を明示したのは、研究条件だけで交渉する旧来のやり方を改めるための前振りとみました。
つまりこの募集は、教員一人を採る話ではない。
大学の操作体系を変えるためのトリガーを仕込む行為です。
採用文の各行は、学内のどの配線をどの順番で付け替えるかという工程表になっている。読み手は、自分がどの配線に電流を流す人間として招かれているのかを、想像できるかどうかが問われるでしょう。
問いは簡明です。
英語という空気を入れるのか、呼吸圏そのものを広げるのか。
前者はただ、教室の換気をすれば済むハナシ。後者は大学の骨代謝に手を入れる大仕事になる。人体に準えるなら、骨は壊してはつくり、つくっては壊す微細な回転で強度を保つ。
制度も同じです。破壊と再生の循環を自前で回せる身体を持てるかどうか。募集要項が静かに試しているのは、大学がその身体になる覚悟を持てたのか、そして応募者がその循環の担い手になる意思を持っているのか、という一点です。
水面の波紋を追うのはたやすい。けれど岸を削る流れは、いつも静かなところで向きを変える。今回の数ページは、その向きが変わりつつあることを、文言の節々で知らせていました。
水面に映る大学の姿は、時に鏡、時に幻影でもあります。
募集要項というわずか数枚の文書に、制度の未来を見てしまうのは、読み手の過剰解釈かもしれない。けれど、そこにかすかに刻まれた行間を辿ると、大学という巨大な身体が、新しい呼吸の仕方を模索していることが見えてくる。
それはまだ確定した「形」ではなく、むしろ生成の只中にある「声」のようなもの。
声はいつも、届く先に応答を求める。呼びかけに耳を澄まし、受け止めた誰かが応答することで、初めて制度は動き始める。
この公募が問うているのは、制度に仕組まれた静かな呼び声を、誰が聞き分けるか。
そしてその応答を通じて、日本の大学がどのような輪郭を描き直すか。
meta視点から眺めれば、これは数頁の「求人票」ではなく、次の大学を共に設計するための、もっとも控えめで、しかしもっとも切実な招待状に見えました。
この静かな呼び声に応答する者が、次の大学のかたちを決定づけるのです。
牛をシマウマ模様に塗ったら虫刺されが半減する。そんな一見ユーモラスな研究が、今年のイグ・ノーベル賞で日本人チームに栄冠をもたらした。
ノーベル賞のパロディ版と言われ軽いニュースとして扱われがちだが「人を笑わせ、考えさせる」という選考基準の中には、実は科学の本質が宿っている。
ユーモラスに聞こえるが、これは「模様」というデザインが生命に与える影響を科学的に証明した成果でもあるのだ。
動物の模様は単なる美ではなく、進化や環境への適応として機能を担ってきた。それを人間が再現し、家畜の感染症予防という実用性に結びつけた点に、研究の深さがある。
愛知県農業総合試験場と京大の研究者たちが取り組んだのは、黒毛の牛に縞模様を施すという実験だった。
結果は予想以上に明瞭で、虫の付着数が半減した。笑いを誘う題材でありながら、家畜の感染症予防や持続可能な畜産への応用を見据えると、現実的な価値を帯びる。
この事例が私たちに突きつけるのは、研究の多様性が持つ力だ。従来の「役に立つ研究」と「笑える研究」を隔てる境界は、実はとても脆弱だ。
シマウマ模様の牛の背後にあるのは、生態学、動物行動学、農学、さらには模様の光学的効果を扱う物理学まで、多分野が交錯する視座である。思わぬ方向から光が差し込み、既存の発想を揺さぶる。
東大新学部に絡めれば、ここに示されたのは「デザインと科学の融合」がもたらす新しい知の形だろう。
東大総長がかつて「最先端の工学研究を社会に結びつけるにはデザインのアプローチが不可欠」と述べたが、この研究はまさにそれを体現している。
農学・生物学・芸術的感性が交差したところに、笑いと実用性の両方を生む発想が生まれる。制度や組織を整えること以上に、学問の偶発性をどう受け入れるかが問われるのも同様である。
イグ・ノーベル賞が示すのは「無駄に見えるものにこそ未来が潜む」という逆説だ。従来の学部区分や序列に縛られた研究体制では、この種の越境は生まれにくい。
東大が新学部を立ち上げる意味は、まさにその越境を制度の中に織り込むことにある。
シマウマ模様の牛がそうであったように、一見すると異端の発想が社会課題の解決に直結することがある。学問の「実用性」を数字で計ろうとする政策論は多いが、未来を決定づけるのは数値の外側にある異端の直感だ。
日本は19年連続でイグ・ノーベル賞を受賞している。これは単なるユーモアの連勝ではない。
寧ろ日本社会の研究者が、周縁にこそ本質が潜むと直感し続けてきた証左だともいえる。だが同時に、この知的資源をどう育て、どう社会に還流させるかについては、まだ十分な戦略がない。
「牛をシマウマに塗る」という行為を嗤うか、それとも未来の感染症対策の一歩と見るか。そこに社会の知性が試される。東大新学部が目指すべきは、まさにこの選択の地点に立ち続けることだろう。
笑いと真剣、遊びと実用、異端と王道。その境界を自由に行き来できる知の場を築けるかどうかが、世界の知性を惹きつける条件になる。
東大新学部は「シマウマ模様の牛」に学ぶべきだ。光と影の縞のあわいにこそ、新しい学問の地平が広がっているのだから。
宿舎規定に学生の意見を組み込む発想、とても大事だと思います。国際的に見ると、寮のあり方は「学部教育の延長」として位置づけられていて、単なる寝泊まりの場ではなく、学びと交流の拠点になっています。ラウンジをどう開放するかは、その象徴ですね。
通信環境を整え、海外大学との共同学習やディスカッションに自然につながる空間を設計できれば、授業で学ぶ知識と寮での経験がシームレスに結びつきます。日本の大学ではこうした「生活を通じた学び」のデザインが弱かったので、むしろ新学部が突破口になるべきでしょう。
学生自治と制度設計を結びつける実験場として、寮は格好の舞台です。宿舎のラウンジが閉じた空間で終わるのか、それとも外にひらかれた知の交差点となるのかで、新学部の「国際化の本気度」も測られるのではないでしょうか。
ここで中学受験や御三家の出願数を追いかけることは、国内市場の微細な揺らぎに過ぎない。東京の名門校が浮き沈みする様子を掲示板で論じる光景は、まるで波打ち際の砂を手に取り、その形の変化を議論しているかのようだ。市町村の四割が消えるという現実の前で、どの学校が増え、どの学校が減るかに一喜一憂するのは、根本的な構造を見落としている。
ふと頭に浮かんだのは。
七年前、名古屋に#FR2のショップが出た頃の石川涼氏のインタビュー。私が#FR2を、そして彼を知ったのはまさに原宿でなく、名古屋の#FR2、ショップの前のベンチに、あのウサちゃんの女の子がちょこんと座っていたっけ。
#FR2はなぜ売れる?代表が「日本人の動向は無視する」理由
“世界にウケるには、日本を無視”
https://www.fashionsnap.com/article/ishikawaryo-fr2/
「日本は島国で人口もある程度いるので国内向けのビジネスで成立していたが、選択肢が圧倒的に増えた今、消費者を一つの方向に向かせるのは無理。服屋だけではなく、いろいろな産業にとって世界がライバルになった。昔のように、日本だけでは大きい商売はもうできない。日本から流行るものは出てこない。とにかくグローバル企業になっていかないと生き残れない」
「日本人はほとんど自分で取捨選択ができていない。誰かが評価していたり、世界で評価されて初めて"自分も欲しい"という状況になっている。だから世界にウケれば、日本人も買う」。
なんちゅーインパクト、かつ力のあるコトバで、かつ真実か。
彼は国内市場の動向を無視し、世界を基準に価値を測ることの重要性を語っていた。国内の目先の消費者や流行に縛られることなく、グローバルな視座で判断し、選ばれるものだけが残る環境をつくる。
結果として、日本の市場は後から評価するだけである。ファッションと教育は規模も分野も違えど、本質は同じである。国内の慣習や既得権に囚われたままでは、未来を拓く教育は存在し得ない。
御三家や東大の新学部に寄せられる過熱した関心は、まさに国内偏重の象徴だ。
教育の価値は、受験倍率や名声の変動ではなく、子どもがどこに生まれ、どのような社会を生き、どのような価値を生み出す力を身につけるかにかかっている。東京中心主義の幻想を超え、地方も含む社会全体の持続可能性を見据えた構造的視座こそ、教育議論に必要なものだ。
石川氏の姿勢が示すように、選ばれるものだけが意味を持つ。学校も同じで、どれだけ国際化や探究教育を掲げても、地域の人口構造や社会環境が崩れる中で独立して存続できるわけではない。目先の出願数や倍率の増減に心を奪われるなら、私たちは教育の本質を見誤る。国内の枠組みに閉じた議論は、未来を描く力を鈍らせるだけである。
教育もビジネスも、評価の尺度は国内だけでは決まらない。
世界を基準に思考し、持続可能な価値を生み出すこと。数字や序列ではなく、構造と可能性に目を向けること。国内のモブたちが浮かれる掲示板の喧騒の向こう側に、未来を選ぶ視座は存在する。見渡す限りの波紋の先にある深い海を、私たちは意識しなければならない。。。
7年を経て、未だ浮き沈みの激しいファッション業界に、しっかり#FR2は生きています。
やはりエデュは、お約束の偏差値や倍率の数字のコピペで群がり、議論はいつもの狭い渦に矮小化していく。予想通りの光景。日本がグローバルの舞台で凋落してきた要因の縮図を見ている気さえする。
東京の一部学校の志願者数や倍率を追うことに、どれほどの意味、そして価値があるだろう?
麻布、開成、桜蔭。。。数字の上下に一喜一憂するのは斜陽日本の都市市場の動きに過ぎず、日本の教育や社会の未来を映すものではない。「東大新学部ができたから国際系にシフトするか」といった問いも、所詮は数合わせを占うブックメーカーの様な野次馬に過ぎない。
問題は東京だけにあるのではない。地方を軽んじ、資源を一点に集中させる思考回路そのものが、日本の国力を削ぎ、教育の多様性を殺いできた。その視点を欠いたまま倍率や偏差値に囚われることは、未来の人材を見誤ることに他ならない。
教育と研究の価値は、市場やブランドの変動で測れるものではない。問いを立て、答えのない課題に挑む力。社会の実態を読み解く柔軟な知性。変化に応じて自らを更新する人材。そうしたものこそがイノベーションと変革を生む。
では、具体的に何をすべきか?
教育機関は、知識の伝達に留まらず、問いを立て挑戦する機会を制度として保証すべきだ。地域や企業、海外とのネットワークを活かし、研究者や教員が現場の知見を子どもに還元する仕組みをつくる。地方の学校にも同等の学びの場を提供し、地域固有の課題を題材に子どもが自ら解決策を考えるプロジェクト型教育を広げる。大学や企業は人材の流動性を高め、学問と実務の往復を可能にすることで教育と社会の接点を増やす。
桜蔭OGとして言えば、教育の価値は数字やブランドに宿るのではない。
倍率、定員削減、東大合格者数。そうした数字に群がり、不毛な議論にもならぬ戯言と誹謗の応酬に延々と興じる様子を見ていると、どこか薄寒さすら覚える。桜蔭の空気の中で六年間を過ごした者にとって、そんな表層的な揺れに学校の価値を還元する視線こそ、むしろ狭く息苦しい。
桜蔭が育んできたもの。それは合格実績のために競争心を煽ることでも、ブランド維持のために倍率を操作することでもない。礼法も家庭科も、すべては「人としての基礎を徹底して磨く」という哲学の表れ。教養と規律、そして自由。その土台の上で、それぞれが自らの道を歩んでいく。まさにそれが桜蔭の本懐。
東大合格者数が増減しようが、偏差値が上下しようが、その根は揺らがない。外からは地味に見えるかもしれないが、内にいた者は知っている。桜蔭という場の強さは数値の動きには還元できない、と。
晁桜の同窓生にとって、この不毛な応酬はただ水面の細波にすぎない。その遥か下には、変わらぬ水脈が流れ続けている。その静けさと強靭さに、私たちは誇りを抱いている。
本当の強さと価値。それは世界を知り、問いを立て、変化の中で自らを更新していく力にこそある。
東京の数字、しかも私立中学の、特定学校の倍率などと言う、宇宙の中の砂塵の一粒に踊らされる事なく、地方、地域、制度、個々人の主体性を包括的に見据えること。
問いを立て続ける視座と、それに応える仕組みを築くこと。これが、日本の教育と社会が未来を失わないための唯一の道。
勿論、神は細部に宿り、巨大建造物が小さな傷から瓦解する様な視座を軽視するつもりはない。
が、このスレッドで語られてきた視座と議論の内容からすれば、特定校の倍率の数年の推移に捉われている様はあまりにかけ離れていると指摘したまで。
目の前の出願者数や倍率は、ほんの一瞬の指標にすぎない。その先に何を見据え、何を育むか?その問いだけが、静かにして、しかし確実に、残響する。
砂で描いた模様のように消える倍率や合格者数、けれど問いを刻む歩みは、決して消えない。
ほんの一瞬の数字に揺らぐことなく
奥で続く水脈を聴きとる耳こそが試されている。
追いつき型教育の只中から生まれた国際的な日本製品の数々は、誇ってよい歴史的成果だ。中東を疾走する日本車の姿は、単なる追随ではなく、独自の工夫と粘りの積み重ねが形となった象徴に他ならない。そしてタフネスやヘビーデューティという価値は、その日本のモノづくりの真髄たる副産物であり、アティテュードの結実でもある。この視点の欠如は、教育論議を語る上でも大きな損失だと思う。
少し無関係に聞こえるかもしれないが――。
先日、いつもの通り道の脇にある、狭い階段を登って入る喫茶店に入った。つまり、入店しない限り雰囲気が全く掴めないギャンブル。念のため食べログを確認すれば3.0台。普通なら却下案件。
が、その日は何かに誘われるように、セレンディピティに賭けてみた。
これが大正解だった。古い喫茶店の雰囲気の良さ、マスターの落ち着きのなさ(笑)、そして何より絶品のサンドイッチ。そのギャップと純粋な美味しさにやられた。個人的には4.0。もっと高くてもいい。
早速家に帰って再現。さすが料理上手の私(自画自賛)、8割までは寄せられた。が、全然違う。その2割の差が大きな違いを生み、味を左右する。付け焼き刃の試行錯誤ではどうしても埋まらない。そこには配合の妙や長年の試行錯誤が生んだ「時間の層」があった。
教育や社会の在り方にもこれは重なる。偏差値や出口の数字で「8割」までは追いかけられる。だが残りの「2割」に宿る経験と蓄積の厚みこそが、本質を形づくる。その2割を侮り、数値に還元してしまったとき、人も制度も味気なく薄っぺらになるのではないか。
教育とはまさに、その2割を抱え続ける営みだ。数字に映らない微妙な差異、時間の重なり、不可視の蓄積。それをどう継承し、次の世代に渡していくか。その問いを考えることが今の日本に最も必要だと思う。
数字では3.0と世間で評される喫茶店のサンドイッチが、実際には4.0の価値を持つように。出口や倍率に還元されることのない教育の営みも同じである。
誇るべき成果の記憶と、そこから次を問い直す姿勢。その両方をどう持てるか。あの喫茶店で学んだ小さな真理と重なった。
教育とは、数字を超えた「2割」の宇宙を抱える営み。その小さな違いを大切にできるか否かが、未来を大きく分ける。
再現の試行錯誤に散らかったキッチンを前に思う午後。平和だ。




































