今年入学した高1生が語る青春リアル
東京大学が国際系新学部設立→国際系の学校が人気に?
東京大学 新学部開設:2027年秋
新学部名:「カレッジ・オブ・デザイン」
入試概要:
A方式(50名)
*大学入学共通テストの結果
*高校の調査書(または成績証明書)
*エッセー
*東大が指定する英語試験の結果などの書類
*英語による面接
B方式(50名)
*東大が指定する国際的な統一試験の結果
*複数の提出書類
*英語による面接
特定学校の誹謗中傷は厳禁でお願いします
ありがとうございます。
まさに仰る通り。映像が巧みに感情を揺さぶるほど、逆に「そこに依拠せざるを得ない空虚さ」が際立つという逆説を私も感じます。
教育において真実を見抜く眼力とは、偏差値や出口保証の数字を超えて、教師や学校がどれほど自分たちの言葉で世界を語れているかを「聴き取る力」だと思います。それは、ムービーやパンフレットでは決して隠せない、本物の熱や誠実さの有無に尽きます。
冷静に考えれば、未来を切り拓いた教育の現場はいつの時代も「映える映像」から始まったのではなく、「この教師となら歩める」「ここでしか出会えない」という直感から始まったはずです。
知の磁場は、制作会社の編集室ではなく、生身の教員の声の震えや呼吸の間にこそ宿る。世界陸上で再び話題の織田裕二さんじゃないけれど、「事件は現場で起きてるんだ」ならぬ「知の邂逅は授業現場で起きている」。或いはミースならぬ「知の神は教室に宿る」。
だからこそ、ムービーに感涙してしまう親世代の心理を掲示板で敵を叩くエデュ民よろしく責めるのではなく、その背後に「確かな教育を見抜く手がかりが不足している」という現実を直視する必要性の啓蒙こそが求められるのかもしれませんね。
西千葉さん、成程濱田総長の著作に触れていただけるのは深いです。
『知の森が動く』が描いたのは、東大が既存の学問体系を守るだけではなく、自らを組み替えて「動く森」とならざるを得ない必然でしたよね。
森は静的な景観ではなく、絶えず光を求めて枝葉を伸ばし、倒木を養分として次の世代を育む。教育の本質を語るとき、福澤や戦火の少女たちの記憶と同じく、この「森の動き」という比喩もまた、深い共鳴をもたらします。
知の制度が硬直するのではなく、呼吸し、芽吹き、更新され続ける。新学部の設立も、その文脈の中で理解されるべきなのだろうと改めて感じます。
西千葉さん、確かに『駒場スタイル』と併せて読むことで、今回の流れが立体的に見えてきますね。あの本が描いていたのは、単なるカリキュラムや教育手法ではなく、「大学そのものがどう社会と呼吸するか」という問いでした。
ページを繰ると、研究の先端性や授業の工夫に加えて、「学生同士の出会い」「異分野との交差」「一緒に時間を過ごすことの価値」といった、人間の営みとしての学びが強調されている。日々の対話や共同作業の積み重ねが、やがて研究にも制度にも影響していく。その視点は、濱田総長の「知の森が動く」という比喩と響き合っています。森が動くのは、光合成や倒木や芽吹きといった営みの総体であり、個別の木ではなく「群」としての生命の働きだからです。
『駒場スタイル』が提示したのは、大学を「社会と断絶した学問の牙城」としてではなく、むしろ「社会の中に呼吸する知の共同体」としてとらえるまなざしだったと思います。研究者と学生が交わす何気ない会話が、やがて制度や政策にまで影響を与える。そのように、日常の学びと社会の器量が連続している。
だからこそ、新学部の設立もまた、単なる組織改編ではなく、「大学がいかにして呼吸を続けるか」という文脈の中で理解すべきなのだろうと感じます。
教員募集がJrec inに出てるけど、
https://jrecin.jst.go.jp/seek/SeekJorDetail?id=D125051640
分野は多岐にわたると書かれてはいるものの、「少なくとも2 年間のデザイン教育の実務経験」が応募要件となっている。
工業デザイナー、Webやゲームデザイナー、都市計画、建築っぽい。
千葉大工学部のデザインコース+建築科っぽいような…。もしくは工学寄りの美大か専門学校。
かなーり、人を選ぶんじゃないかなぁ。はまらない人ははまらないかも。
何で消えるかね。
既にその話は私が触れている。
今更そんな浅い視座を語られても。
大学より、教員公募案内が出ていますね。
『東京大学より College of Design 教員公募のご案内』
フルカラーで英文、和文の併記。
「東京大学では、2027年に新たに設置する、UTokyo College of Design の専任教員(教授、准教授、講師、助教)を募集しています。詳しくは、下記の公募要領をご覧ください。」
https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400264193. pdf
リンクさせたい場合はpdfの前のスペース削除。
両方(日本語部分と英語部分)読みました。
この公募要項は「UTokyo College of Design(COD)」の専任教員(Associate Professor / Lecturer / Project Associate Professor / Project Lecturer)の募集ですね。
英文部分では、日本語と同様に 採用人数(若干名)・応募資格(博士号または同等の業績、英語での指導・研究能力、異分野横断的研究への意欲など)・任期(5年、再任可)・着任時期(2027年4月〜2028年3月)・勤務地(本郷キャンパス)・待遇(年俸制、テニュアトラック的な要素もあり) が書かれています。
特徴的なのは、日本語でも英語でも「分野を特定しない」と明記されていて、CODの「Design」という語は工学的なデザインに限らず、社会・文化・科学を横断する「新しい価値創造のためのデザイン」を指していることです。
つまり、専攻や研究分野に縛られず「異なるバックグラウンドを持った学生に対して、国際的・学際的に教育できる人」を求めている。大学の「新学部」というより、大学院レベルに近い学際拠点の立ち上げに見えますね。
読んでみて、募集要項は「誰を雇うか」を超えて「大学をどう組み替えるか」を宣言する文書でしたね。
通り一遍の求人票ではない。読めるのは三つの再定義、教員の職能、学部という器、そして大学の言語。
第一に、教員像の再定義。
研究実績だけでは足りない。英語で授業を設計し、多国籍の学部生に伴走し、しかも全寮制という生活空間の手前で学生支援に関与する役割が明記されている。
これは講義者でも研究者でもなく、学習共同体の建築者を求めているということです。この時点で、日本の大学に長く根付いてきた「研究は研究科、教育は教養学部、学生生活は課外」という分業は崩れる。職能は統合され、責任は面で問われるのでしょう。
第二に、学部という器の再定義。
9月入学、全英語、全寮制という三点セットは、カリキュラムだけでなく時間割と暦と居住をも教育設計に組み込む意思表示でしょう。
暦が変わると、履修管理、成績確定、学内合同科目の接続、他学部との単位互換、人事評価のサイクルまで連動して揺れる。要項があえて学部専任を打ち出すのは、その揺れを既存組織の外付けユニットで吸収するのではなく、中核として受け止める決意の表現に見えました。
第三に、大学の言語の再定義。
教育言語としての英語化は、授業の媒介を置き換えるだけでは済まない、というより済ませない。
委員会運営、学内規程、学生ハンドブック、実験倫理、安全講習、ハラスメント対応、キャリア支援、広報。
真に英語で回すなら、大学の神経系ごと双語化が必要になる。募集要項が教員に求めるのは、教室の英語運用にとどまらず、医学的に表現するなら、その神経系へのブリッジ職能です。
ここを読み落とすと、英語授業の殻だけが残り、制度の中枢が日本語のままという二層構造が固定化される。
この要項は同時に、大学院偏重の研究駆動モデルに対して、学部フェーズを研究と社会接続の起点に引き戻す試みでもあるとみました。
国籍構成が偏れば研究テーマ、共同研究先、採択課題の地理が偏る。だから入口で多様性を担保し、居住と学修を束ねる場で混ざり方を設計する。
採用文面の素朴な一文の裏に、こうした配管図がはっきり透けて見えます。
当然、摩擦は生じるでしょう。
会計年度と学期暦のずれ。科研費や学内配分の評価サイクルと海外型学期の非同期、学際人材の審査を誰がどう評価するかという審査能力の問題。
英語で教える教員の校務負担と昇進査定の按分。寮という生活圏に関わることで生じる可視化されにくい労務とメンタルケアの配分。
この種の摩擦は、採用後に現場で教員個々の善意に回収させた瞬間に制度疲労へ転じるでしょう。
募集の段階で、役割記述に生活領域と制度領域の両方を織り込んでいるのは、負荷の所在を曖昧にしないための予防線にも見えました。
学際(学問分野をまたぐこと、interdisciplinary)を理念として掲げている以上は、それに相応しい姿勢や実践が求められる評価軸も作り直す必要があります。
従来の専門学会のジャーナル掲載と科研費が唯一の尺度になるならば、デザインや実装、フィールド連携、コホート形成といった可視化しにくいアウトカムが置き去りになってしまう。。。
要項は、教育設計と共同体運営を教員の主要業務に含めている。であれば、テニュアや昇任において、その成果を定常的に記録し、査読とは別の公的評価として組み込む設計が不可欠でありましょう。
ここを制度化できなければ、学際の名の下に個人の無償労働が積み上がるだけになってしまう。。。
人材流通の目線でも示唆は多いと感じました。
世界から採るなら、着任時の研究立ち上げ費、研究支援スタッフの配置、家族帯同の生活基盤、校務と研究の比率、寮務や新規科目開発に要する時間の見積もりを、採用交渉の一次情報として開示しなければならないでしょう。
要項が生活と教育を明示したのは、研究条件だけで交渉する旧来のやり方を改めるための前振りとみました。
つまりこの募集は、教員一人を採る話ではない。
大学の操作体系を変えるためのトリガーを仕込む行為です。
採用文の各行は、学内のどの配線をどの順番で付け替えるかという工程表になっている。読み手は、自分がどの配線に電流を流す人間として招かれているのかを、想像できるかどうかが問われるでしょう。
問いは簡明です。
英語という空気を入れるのか、呼吸圏そのものを広げるのか。
前者はただ、教室の換気をすれば済むハナシ。後者は大学の骨代謝に手を入れる大仕事になる。人体に準えるなら、骨は壊してはつくり、つくっては壊す微細な回転で強度を保つ。
制度も同じです。破壊と再生の循環を自前で回せる身体を持てるかどうか。募集要項が静かに試しているのは、大学がその身体になる覚悟を持てたのか、そして応募者がその循環の担い手になる意思を持っているのか、という一点です。
水面の波紋を追うのはたやすい。けれど岸を削る流れは、いつも静かなところで向きを変える。今回の数ページは、その向きが変わりつつあることを、文言の節々で知らせていました。
水面に映る大学の姿は、時に鏡、時に幻影でもあります。
募集要項というわずか数枚の文書に、制度の未来を見てしまうのは、読み手の過剰解釈かもしれない。けれど、そこにかすかに刻まれた行間を辿ると、大学という巨大な身体が、新しい呼吸の仕方を模索していることが見えてくる。
それはまだ確定した「形」ではなく、むしろ生成の只中にある「声」のようなもの。
声はいつも、届く先に応答を求める。呼びかけに耳を澄まし、受け止めた誰かが応答することで、初めて制度は動き始める。
この公募が問うているのは、制度に仕組まれた静かな呼び声を、誰が聞き分けるか。
そしてその応答を通じて、日本の大学がどのような輪郭を描き直すか。
meta視点から眺めれば、これは数頁の「求人票」ではなく、次の大学を共に設計するための、もっとも控えめで、しかしもっとも切実な招待状に見えました。
この静かな呼び声に応答する者が、次の大学のかたちを決定づけるのです。




































