在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
受験学力以外のもの
受験学力を上げるためにせっせと予備校通いして青春時代の貴重な時間を費やすことに意味があるんだろうか?
共通テストレベルで基準点が取れればもう受験勉強点取りレースはやめて、部活や運動、読書、趣味などに時間を使った方が将来有望な大人が出来るのではありませんか?
アメリカのようにAO入試で本人のやる気や将来性、適性見て入学させる方が良い人材選べるのでは・・・と思います。
次期学習指導要領に小中高校の教員や教育委員会職員にアンケートした結果、
これからの時代を生きる子どもたちにとって、小中高の段階的な学びは必要か
必要だ 82%
まぁ必要だ 17%
あわせて98%が探究教育に賛同。
探究的な学びを実践したいか
そう思う 76%
そう思うけど、自信がない 23%
探究学習で足りない点
教員の探究に関する知識 64%
教員自身の探究力 53%
教員の探究への意識 49%
以上
教育現場は探究学習の良さを認識しているが、教育自身に課題があると認識しているというのが現状ということか。
思ったより現場は圧倒的に探究に賛成しているが教員自ら課題を抱えているという認識がある。モデルケースや成功事例等、共有しながら探究学習の深化を進めていく必要がある。
うん。
寧ろこの結果。少し違う読み方をした方がいいと思う。
探究に98%が賛成というのは、教育としてはほぼ満場一致に近い数字ですが、同時に教員の知識不足64%、探究力不足53%というのはかなり深刻。
つまり理念には賛成だが、実行主体が準備できていないということに他なりません。
しかもこれは個人の努力で解決できる種類の問題ではない。
探究は教科知識の伝達と違って、問いの設定、仮説形成、試行錯誤の伴走etc。。。教員自身が研究的な経験を持っていないと指導が難しい領域。
従来型の教員養成や学校現場の仕組みのままでは、急に対応するのは無理がある。
更に言えば、現場の教員が自信がないと答えている点はむしろ健全ともいえます。本当に問題なのは、理解しないまま形だけ導入されるケース。探究の名のもとに、単なる調べ学習や発表会になってしまうリスクの方が現実には大きい。
つまりこのアンケートは、現場が探究に賛成しているというより、必要性は感じているが制度設計が追いついていないというシグナルと取るべきでしょうね。でないと浅いし、見誤りますよ。
モデルケースの共有だけでは足りず、教員の育成や評価制度まで含めて設計し直さないと、理念と現実のギャップは埋まらないでしょうね。
うん。さすが。
おっしゃる通りで、寧ろそこを聞かないと意味が薄いアンケートですね。
探究に賛成かと聞かれれば、理念として否定する教員は殆どいない筈。ただ現場で実際に問題になるのは、探究の時間をどこから捻出するのか?基礎学力とのバランスをどう取るのか?という点です。
特に小中段階では、読み書き計算といった基礎がまだ固まっていない中で探究を広げると、単なる調べ学習や発表ごっこに終わるリスクもある。
逆に基礎が十分にある場合は探究が効果的に機能する。このあたりはかなり現場感、臨場感のある論点です。
探究に賛成かどうかより、基礎学力との優先順位、時間配分、評価方法をどう考えるかを聞いた方が、現場の本音が見えるアンケートになったと思いますね。同意です。
今は小学生でもグループワークや自分で課題を見つけ、調べて発表する学習等が多く、従来の教員の話を黙って聞くような教育はしていない。
ただ、それが調べ学習やAIの活用で終わってしまっている子どもたちが多いのは事実。
次期学習指導要領は情報と探究を連携させて、探究学習を深化させるもの。教科も総合的な探究学習の時間等だけでなく、全教科を好奇心、探究心に基づく主体的な学びにしていく。
西千葉さんの指摘はまさに核心だと思います。
橋本先生の実践は、基礎か探究かという二項対立そのものを無効化してしまった例ですね。銀の匙を3年間読み続けるという、一見すると非効率の極みのような授業が、結果として論理力と表現力を鍛え、東大合格者数まで押し上げた。
この事実は、基礎と探究が対立概念ではないことを示している。
以前も書きましたが、そもそも灘の歴史そのものが象徴的ですよね。
旧制神戸一中不合格者の受け皿として始まった学校が、今や世界を牽引する人材を輩出する存在になった。。。
これは単なるエリート校の成功ではなく、教育が持つ反骨と創造の力の実例でしょう。
造り酒屋の意思から始まり、共同体の精神的資産として昇華された過程は、単なる資産の継承ではなく、価値の創造そのものだったと思っています。
橋本先生の授業は脱線に次ぐ脱線だったと語られますが、その脱線こそが本質だったのではないでしょうか。
教育は本来、最短距離で知識を獲得する営みではない。寧ろ横道に逸れ、関係のないように見える知識が結びつき、思考の地層が厚くなる過程こそが知性を形成する。その非効率の中からしか生まれない理解がある。
現在の探究ブームを見ると、どうしても形式としての探究が先行している印象を受けてしまう。
エデュの表層的ループ書き込みはまさにその範疇。
カリキュラム化され、評価指標が設定され、成果発表が求められる。。。しかし橋本先生の実践が示すのは、探究とは制度化された瞬間に本質を失う可能性を持つという逆説でしょう。
本来は、生徒の内側から生まれる問いに時間をかけて向き合う営みの筈。
灘の事例が興味深いのは、教育制度が資産階層の再生産という側面を持ちながらも、同時に質的変容を生み出す可能性を示した点。
共同体が生み出した教育的資産が、単なる序列維持ではなく、知の創造へと転化された。これは極めて稀ですが、だからこそ示唆に富む例だと思うのです。
今の探究教育を考えるとき、本当に問われているのは探究を導入するかどうかではなく、橋本武のような実践を許容できる教育文化を持てるかどうかだと思う。その覚悟を持てるかと言い換えてもいい。
制度としての探究ではなく、不可逆の学びの厚みをどう育てるか?
その問いこそが、現在の議論の中心にあるべきですよね。
ここで理解されているのは西千葉さんくらいですかね。




































