入学後の不安が安心へ明誠の宿泊研修
受験する学校選び
以前は偏差値表や大学合格実績を頼りにできるだけ偏差値や大学合格実績の良い難関校を目指すご家庭が多かったのですが、現在はお子さんの性格や目指す将来像に適した学校を目指すご家庭が顕著になっています。
探究型の学び、グローバル教育、STEAM教育、リベラルアーツ等の教育内容
面倒見が良く、イベントが多くて楽しそうな学校等の教育環境等で選ぶご家庭が増えています。
社会や大学受験等が大きく変化する中、どのような学校を受験するのが良いのか、情報共有しませんか。
個人や職業への価値判断を重ねても、制度の良し悪しは評価できません。
問うべきなのは、公的研究投資がどのような社会的リターンを生み、どのようなガバナンスで配分すべきかです。そこを離れた時点で、政策論ではなく感情論になっています。
だから、英語も話せない、東大でもない人たちが英語論を語ると、居酒屋でくだを巻く酔っ払いの雑談みたいになるのです。
現実を知らないから。
私は実際に英語で海外ジョブを受注しています。その立場から言えば、英語の価値は上がるどころか相対的に下がっています。
なぜか。世界では英語ができること自体が差別化にならないからです。
シーメンスとアライアンスを組んだ時、ドイツ本国から来たスタッフは現場のスタッフ、エンジニアを含めて全員が英語を使い、ほぼ全員がフランス語、中国語などを加えた3言語以上を使える人間でした。母国語と英語という私レベルはたった1人だけ。
日本では英語がスタートラインと言いますが、そのスタートライン自体が世界とは全く違います。
しかも私は、日本人がグローバルで通用する英語を身につける難しさも身をもって知っています。英検だTOEICだと言っているレベルとは次元が違う。
その一方で、AIはリアルタイム翻訳も文字起こしも実用段階に入りました。あと数年もすれば、英語が苦手でも国際会議で議論できる環境が当たり前になります。
そういう時代に、英語だけを競争力、前提条件だと語っていること自体が、完全にAI前夜の発想です。
これから価値を持つのは、英語を話せる人ではありません。AIを使ってでも世界に提供する価値を生み出せる人です。
英語はゴールでもスタートラインでもない。単なる通信プロトコルです。そのプロトコルの価値は、AIによって急速にコモディティ化しています。そこが見えていないから、いまだに英語神話から抜け出せないのです。
英語が苦手でドイツ語に逃げたのに、英語できるアピールは不思議ですね?
ドイツ語はどうなったのでしょうか?
投稿者: Margaux (ID:KDH5p1wW6Wk)
投稿日時:2025年 12月 17日 11:02
私自身、理III志望時に二次英語の難易度を避け、ドイツ語を選択しました。結果として合格はしませんでしたが、
全然おかしくないですよ。
ビジネスの全ては明かしていませんし、既にデザイン会社でトヨタ系の企業と取引口座があることもここで書いています。
中国でシーメンスと組んでジョブを受注した話も何度もしていますし、
投稿者: Margaux (ID:lur8E6F6AZY)
投稿日時:2025年 10月 31日 20:56
〜以前シーメンスとアライアンスを組み、アリババの自動運転トラックのセンシングで中国とも関わりかけた(結果立ち消えたが)、中欧を齧った立場で明確に否定したい。
とも書いています。
その際にはアリババから工場見学に招待いただきましたし、その裏にいた「中国本体」、共産党と思しき方とも接触しています。
まあもう少しヒントを出すと、ミリ波、マイクロウェーブ関係とまでは言っておきましょうか。
残念でした。
全く違いますね。
東大二次英語で満点は難しいですが、二次ドイツ語は中学レベルで可能という戦略です。
残念でした。
ま、中学レベルは言い過ぎかも知れませんが、私の場合、1年の片手間学習で英語二次のアベレージを超えたので差し替えただけのお話です。
英語を巡る議論を見ていると、不思議なことに気付く。
英語は必要か不要か。英検は何級必要か。東大生でも足りない。いやAIが代替する。どれも間違いではない。しかし、その議論自体が既に1世代古い。
技術は、人間が苦手なことから順番に代替してきた。計算は電卓へ、記憶は検索エンジンへ、翻訳は生成AIへ。そして今、リアルタイム翻訳や要約、議事録作成まで実用段階に入っている。
英語というスキルが消えるわけではない。しかし、英語そのものが競争優位になる時代は確実に終わりへ向かっている。
実際に海外で仕事をすると、それはよく分かる。英語は共通言語に過ぎない。その先に専門性があり、構想力があり、交渉力があり、実装力がある。英語だけでは誰も評価しない。
日本では、英語を話せればグローバル人材という幻想が今も残る。しかし世界を見れば、英語に加えて複数の言語を操る人は珍しくない。英語は武器ではなく前提条件に近い。いや、前提条件ですらなくなろうとしている。これは英語を話せる人間が感じる肌感。AIによるコモディティ化が進み、英語が使える相対的アドバンテージは急速にに減衰している。
それが感じられていないことで、逆説的にエデュ民の英語スキルがエンボスされると言う皮肉。
では、子どもに何を学ばせればいいのか。
この問いも、おそらく間違っている。
親は未来を知っているという前提で教育を語る。しかし、ポストシンギュラリティを生きる子どもたちは、親が経験した社会とは全く異なる世界を生きる可能性が高い。
AIが研究し、設計し、翻訳し、プログラムを書き、診断し、交渉まで支援する時代に、今の価値観でスキルを決め打ちすることは、本当に子どものためになるのだろうか。
親が善意で与えた最適解が、20年後には最も時代遅れな足かせになっているかもしれない。
ここに教育のパラドクスがある。
未来を予測して教育しようとするほど、その教育は過去への最適化になってしまう。
だから私は、特定のスキルを教え込むことよりも、未知を楽しみ、学び直し続け、自分の前提を疑える人間になることの方がはるかに重要だと思う。
英語を学ぶなという話ではない。プログラミングを学ぶなという話でもない。
問題は、それをゴールにした瞬間、その教育は時代に取り残されるということだ。
私たち親世代にできることは、未来を教えることではない。
未来が予測不能であることを受け入れ、その世界でも学び続けられる土台だけを残すことなのかもしれない。






























