在籍生徒の9割が東京と神奈川の学校
春季講習に出れない場合
新4年です。春休みを利用して家族旅行に出ようと思っているのですが、
サピの春季講習とぶつかってしまいます。今回は家族全員の日程が合うし、
高学年になるとなかなかまとまった旅行に行くことも難しくなると思うので、
今のうちに行っておきたいと思っています。
サピからもらった予定表を見る限りは、算数は新しい単元がありますが、
あとからでも何とかなるかな・・・と思っているのですが。
春季講習を受けないと4月からの授業に支障がでるとか、
マンスリーや組み分けテストにも出てあとから困るといったことはありますか?
出なくても何とかなった、出なかったけど家庭でフォローした・・・などなどアドバイスありましたらお願いいたします。
大丈夫ですよ!
サピではスパイラルで何度も忘れた頃繰り返しで出てきますので多少新しい単元が出たところで・・・・まだ4年生ですし!!
欠席したところのフォローはご家庭で・・ないし自分でやってみてどうしてもわからないところは質問教室をどんどん使う!!
お子様のやる気さえあれば多少の欠席なんてまだまだ大丈夫ですよ!
ぜひぜひ今のうちにうんと楽しんでください!
ちなみに春季ではなく「春期」です♪
うちも不安に思いながらお休みし、旅行に行きました。
春期の欠席による影響は、夏休み明けの復習テストで、理科、社会にちょっと影響が出ました。それ以外は、まったく影響なかったです。
夏休みに分野別でちょっと復習しておけば、問題ないと思います。範囲も少なく、1日で復習できる量です。
それに比べて、旅行は子供もとても楽しかったようで、ずっと覚えていました。ちょっと地理的要素を取り入れて旅行しましたので、そのことのほうが、その後の勉強に役立ちました。
お金は? さんへ:
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> たしか 「テキスト渡しますので 引き落とします」
> と 以前言われ もったいないので 日程をずらしました
> テキスト放棄で 返金されることってあるのですか?
昨年の夏期講習お休みしました。
手続きをすれば返金してくれますよ。
ただ、テキストはもらえません。
春期講習も何日かどうしても出れないのでお休みするか、全額払ってテキストだけ頂くか考え中です。。。
「食べれる」「見れる」「出れる」
これらの言葉は、本来は助動詞の使い方として間違っている。正しくは、
「食べられる」「見られる」「出られる」
と言うべきだ。文法的に言えば、「れる」「られる」はいずれも(1)受け身(2)可能(3)尊敬(4)自発の意味を持つ助動詞である。これらの使い分けは、上に付く動詞の性質で決まる。動詞が五段活用・サ行変格活用のときは「れる」、それ以外では「られる」を使うのだ。
実際には少なくない人々が、
「食べれる」=可能
「食べられる」=受け身・尊敬
というように考えている。ところが、このような意味による使い分けは、本当は誤りなのだ。
しかし、「れる・られる」はたったひとつの助動詞で先に挙げた4つの意味を表しうるのである。聞き手の方は、話し手がどの意味で使ったのかをハッキリと確信できないことが生じやすい。ところが、「少なくない人々」の用法では、少なくとも「食べれる」と言った場合必ず「可能」であると確信できるのである。つまり、このような使い方をすれば、意思伝達という言葉の本来の目的により叶った、正確な伝え方ができることになる。すなわち、非常に合理的な変化であると言えるのだ。だとすれば、このような使い方をして何が悪かろう?
「ら」抜き言葉のすばらしい点は、本来の用法から「ら」抜き言葉に移行する時期に混乱を生じない点である。正しい用法を知っている人でも、「ら」抜き言葉を使われたからと言って互いの理解の食い違いは生じない。もちろん、「ら」抜き言葉推進派の人たちが「食べられる」が可能の意味で使われることも知ってなければならないのは当然だが。
文法的には、「食べれる」という言葉は「食べる」+「れる・られる」ではなく、別個の独立した「食べれる」という可能の意味を含んだ動詞だと解釈することができる。このような「可能動詞」を別に持っている動詞は多いが、中でも五段活用で可能動詞を別に持つ動詞では、「れる」を付けた正しい形ではもはや可能の意味に解せなくなっているものが多い。
「歩く」+「れる・られる」は「歩かれる」だが、「歩かれる」は尊敬の意味では使えても、可能は「歩ける」と言わないと通じない。
「作る」+「れる・られる」は「作られる」だが、「作られる」は受け身の意味では使えても、可能は「作れる」と言わないと通じない。
「しゃべれる」「掘れる」「切れる」なども同様である。
これらの言い回しはいわゆる「ら抜き言葉」ではない。「作る」「しゃべる」等は五段活用なので助動詞「れる」が付くのが正しい。しかしこの場合は、ら行五段活用+「れる」のうち、動詞の未然形の「ら」が落ちて、独自の可能動詞を形成している。助動詞「られる」を使うべきところに助動詞「れる」を使っているわけではない。しかし「ら抜き言葉」に似た原理で、可能動詞が作り出されてきたのである。
可能動詞は全く別物になっている場合もある。
行く→行ける(cf.行かれる)
運ぶ→運べる
歌う→歌える
受身や尊敬ではなく可能であることを明確に示したいという、使う人間の意志が表れてこのような言葉ができてきたのではないだろうか。このように考えると、「ら抜き言葉」が登場して蔓延しつつあるのも、言葉の進歩と歴史の必然であり、日本語が完成度を高めてゆく過程の一つであると思えてくるのである。




































