女子美の中高大連携授業
古文漢文要らない
大学入試の科目(東大など科目数が多いケース)
文系でも統計などで数学は使うので、最低限の数学は必要。
理系でも現代文が読めて書けなければ話にならないので、現国は必要。
グローバル社会の中で、英語はどの分野に行くにも当然必要。
文系の人でも、理科的思考はある程度経験した方がいい。
理系の人でも、世界の地理や歴史の基本的なことは、たしなみとして知らなければ恥ずかしい。
ところで、古文、漢文、大学入試にある意義はなんでしょうか?
東大なんか、理系の2次でも古文、漢文ありますが、その後の人生でほぼ何にも役に立ちません。
ここから改革してほしいです。
皆さんどう思われますか?
東洋にあっては、学問とは「学問思弁行」の略であり、それは「道理に縁り、道理を対して、道とともにある、道の体現者になること、さらには、聖王の治を復興すること」を意味したという。その背景には、善美を尽くして、絶対に泰平な理想社会があったとのユートピア論を前提に、この泰平天国はやがて循環をめぐって必然的に到来するとした、中国古来の人々の期待感があった。そして彼らはこの天意に従う慎みと努力を尽くしさえすれば、やがて泰平の幸福を享受できるとの理解であった。これが古代の学問観であり、それは泰平を意欲する天意をいかに人間生活に実現するかにつき研究—というよりも修養か—することだとされた。
そうした思想・思潮が日本にも伝承され、「学問の目的は、人格の陶冶」とのテーゼに結実したのではないかと思われるのである。それは学問論における認識構造の分析として、たしかに科学理論における社会や歴史といった伝統からの非拘束性とは異質なものだ。しかしながら、われわれの認識は、歴史的・社会的・文化的な範疇において成立し、その共同体的圏内において共通するという意味での健全性ごとき共通理解を構築する。そこから醸成される「機微」のような成分は、この国の人間によりなされる所為である限り、文系のみならず理系の研究にも多分に包摂されているのではないかと思われるのである。したがって、本件もまた、そうした「本質認識」乃至「全体認識」を踏まえた視座から、もっと議論がなされるべきであると思われる。
(誤)
そこから醸成される「機微」のような成分は、この国の人間によりなされる所為である限り、文系のみならず理系の研究にも多分に包摂されているのではないかと思われるのである。したがって、本件もまた、そうした「本質認識」乃至「全体認識」を踏まえた視座から、もっと議論がなされるべきであると思われる。
(正)
そこから醸成される「機微」のような成分は、この国の社会にある人間によりなされる所為である限り、文系のみならず理系の研究にも多分に包摂されているのではないかと思われるのである。したがって、本件もまた、そうした「本質認識」乃至「全体認識」を踏まえた視座から、もっと議論が深められるべきであると思われる。
その「黄文雄」とは、何者だろうか。その昔、書店の店頭で見受けた、今でいう百田某のような本を書いていた人物であろうか。いずれにせよ、私は自らの考える東洋における学問論のほんのさわりをご紹介したに過ぎず、その是非につきとくに述べてはいない。したがって、その人物が何を語ろうと、とりたて感想はない。ただ、そうした考え方が日本にも大きな影響を及ぼし、私たちの知的骨格になっていると考えられるということである。
他方で、それがわれわれの社会を情緒的なものにもした。その結果、たとえば「市民法の論理」も、フランスの如く国民自身によって勝ち取り育むとの土壌から育成された論理的厳格性はなく、権威ある雲の上の存在たる「天意」に依存し従う慎みとの努力さえ尽くせば、やがて「泰平天国」が到来するとの法物神崇拝的権威主義を暴露する。また、それは法学上だけでなく、文・理を問わずこの国のあらゆる学問にも見受けられる傾向ではないか、と思われるのである。
しかしながら、欧州におけるキリスト教倫理の如く文化的歯止めを有しないこの国においては、あるいはそうした思潮が理系研究の暴走を抑制する内在的制約の働きを為すのではないか、と期待される。したがって、その人文科学的表現たる古文や漢文の知見が理系を担う諸賢にも必須の素養であると私は訴える。
文系数学に関しては、ベクトルが抜けてデータの扱いとかが入ってきて実用性が増したので、これを捨てるのは駄目だろうという雰囲気が醸成されれば良いのですが。また、数学の歴史とかも教えたら良いのにとも思います。




































