女子美の中高大連携授業
「文系は刺し身のツマ」に
今後は、産業ニーズと合ってるかどうかが重要。
学士と高専卒が同じ括りに。
例えば、DMG森精機
卒業・学位_____初任給__想定初任年収
大学院卒(博士課程)475,000円_6,825,000円
大学院卒(修士課程)310,000円_4,650,000円
大学・高専専攻科卒_300,000円_4,000,000円
自然科学が志向したはずの客観的認識とイデオロギーと呼ばれる世界観や人生観とをいかに調整するかが、自然科学からの課題であったのではあるまいか。心ある自然科学者らは、それを理解していた。むろん、科学の世界から価値判断を伴うイデオロギー性を排除し、純粋な理論の構築を図るのも一つの方向性である。だが、実際には容易なものではない。そうすると、どこで境界線を引くのかが課題とならざるを得ない。はたして、経験知による価値判断や感性による状況認識まで、一思いに排除できるのか。そこに、かつての人間世界全般をフォローしていた宗教や民俗的知恵などによる知性=認識方法の意義につき、「時代遅れ」「非合理的」の如く簡単に切り捨てられない存在感の在処を抱くのである。無神論者たるこの私であってさえ。
もとよりイデオロギーを排除した純粋な理論なんてない。認識主観抜きの純粋客観なんてものはないのだ。
そこがポイントなのではなく、奇しくもこのスレ文に「産業ニーズと合ってるかが重要」とあるように、イデオロギーとしてプラグマティズムに従っているにも関わらず、自覚なしに「純粋」とか「客観」と勘違いしてることが問題。
「数弱」くんは自分が白旗挙げて逃げたことをレッドカードとあたかも自分が追い出したかのように逃げ口上かw
突き詰めれば、ゾウリムシに比べて、人間に何かいいことあるか?という問いだな。
これまた、「いいこと」とは、という定義や分類の話になってしまう。
ゾウリムシが外界の刺激を餌と危険に区別して感知し、何となく反応するのに対して、人間は五感をさらに細分化して定義し、複雑な反応をするが、それが「いいこと」かどうかは定義による。
だから、エピキュリアンなのか、ストア学派なのか、聞いたんだが。
換言すれば、意識とは「意識せられてあるところの存在」、いわば存在の一つの様態に他ならない。それの十分なる意味においては、歴史的・社会的現実存在を抜きにしては、思考できまい。この意味において、根源的意味においてもかかる現実存在との内的連関を離れて「独自なる純粋なる意識」としてはあり得ないと思われるのである。
もとより、この「歴史的」とは、独り人間の歴史のみならず、自然の歴史をも含めていう。なぜなら、現実的存在者の一つたる人間とは、現実には自然と人間自らとのそれぞれの歴史のうちに相互制約ならびに交互関係ともいうべき関わりにあると思われるからだ。かくして、この二つの歴史的は本来、分離され得るものではない。
ただ人間の有するイデオロギーとは帰するところ、「人間の歴史の歪められた解釈」あるいは「この歴史からの全然の抽象」のいずれかであるといえる。しかしながら、ヘーゲル的にいうならば両者の相違とは、人間の歴史は自己意識を有する自覚的存立としての有機体の自覚的発展過程であると思われるのである。
「太った豚になるよりやせたソクラテスになれ」ということかな、豚にとっての「いいこと」とは、たくさん食べて太り子孫を繁栄させることだが、ソクラテスにとっての「いいこと」とは、哲学し、己とは何かを探求することだ。
将来、科学技術が発達して、生産活動は全部、ロボットやAIが担うことになり、余暇が増えれば、たぶん、哲学が流行し、ソクラテスが増える。
それも元よりで、当然のことながら、そうした解釈の発展の一形態として、スレ主が「産業ニーズに合ってるか」という1つのカテゴリーを持ち出してるわけだから、その指標としての意味を考察してみようと言ってるわけだ。「文系」知識のニーズも踏まえ。
まずはスレ主が「理系人材」と「文系人材」の文系知識のレベルのベンチマークをどこに置くかも明らかにしないと。理系人材が旧帝レベルで文系人材がFランレベルなら、そもそも理系人材の文系知識のレベルの方が高いだろ。




































