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【3605248】戦後70年。日本の辿ってきた道を振り返ってみませんか?

投稿者: 戦前の日本は何だったのか?   (ID:MblJosoUNxM) 投稿日時:2014年 12月 11日 09:03

来年は終戦後70年。戦後の日本は一人も戦死者を公式には出していない。(朝鮮戦争時の機雷掃海艇爆沈はのぞく)


明治維新からわずか26年後に日清戦争。その10年後には日露戦争。満州事変が維新後63年。そして太平洋戦争で原爆を投下されアメリカに完敗したのが維新後77年。


明治維新後ひたすら近代化と軍国化に走り戦争を続けた日本は一体なんだったのか?  その逆にこの70年一回も戦争をやらずにこれたのはなぜか?


独立自尊にはコストもかかるし尊い人命も失われる。戦後日本は果たして戦前の日本よりましなのか? それとも戦前の方が凛としていたのか?その辺りを皆さんと語り合ってみたいと思います。

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  1. 【3605969】 投稿者: 天皇陛下  (ID:WH3KclSso7I) 投稿日時:2014年 12月 11日 23:06

    戦前の日本人がアホだったのだろう。
    明治維新後日本が一切の戦力を持たず戦争に関与しないと決めていたら日本は百数十年間も戦争のない平和な国だったはずだ。
    いまよりもっと発展した社会になっていたに違いない。
    一切の戦力を持たないこと、これが最大の防衛である。

  2. 【3605988】 投稿者: ん?  (ID:gYtNclrHIKM) 投稿日時:2014年 12月 11日 23:30

    動機さん?

  3. 【3606018】 投稿者: 戦前からの工作員コミンテルが日本国憲法を創立?????  (ID:RF.njQIwTTU) 投稿日時:2014年 12月 12日 00:09

    ハーバート・ノーマンと鈴木安蔵。
    一般には聞きなれない名前ですが、日本にとっては重要な人物です。

    ハーバート・ノーマンは日本で生まれたカナダ人です。
    戦前にイギリスに留学してコミンテルンに入り、
    それ以後はコミンテルンの秘密工作員としてカナダ外務省に入ります。
    1940年には日本のカナダ大使館に勤め、この時に鈴木安蔵と知り合います。
    真珠湾攻撃と共に交換船でアメリカに帰りました。

    1945年8月30日、ノーマンは日本の専門家としてマッカーサーと共にバターン号で厚木に来ました。
    東京に来たノーマンは鈴木安蔵を探し出します。

    つい最近、九条の会や護憲派が鈴木安蔵の映画「日本の青空」というものを作って、
    「あの憲法はアメリカが作ったものではない。民主的な日本人の総意が反映しているんだ」
    という宣伝をしました。

    しかし、騙されてはいけない。鈴木安蔵はコミンテルンの同志で、
    日本では治安維持法適用第一号の京大学連事件で検挙された憲法学者です。
    鈴木は戦後、ノーマンが憲法草案作りが始まることを見越して、
    東京帝国大学教授の高野岩三郎と共に憲法研究会を結成させました。
    この憲法研究会は1945年12月26日に政府の改正草案より一カ月も早く憲法草案要綱を発表します。
    これを
    「日本人が自発的に日本人の総意を反映している民主的な憲法草案をマッカーサーに突きつけた」
    として宣伝しましたが、
    鈴木安蔵の憲法研究会自体がノーマンのコミンテルン工作組織でした。
    鈴木安蔵の草案を元にケーディスらが日本国憲法の最終草案を作っただけです。

    特にノーマンが終始こだわったのが憲法一条でした。
    憲法第1条で、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」 というのがGHQの案でした。
    しかし、ソ連の意を受けたノーマンが動いて極東委員会から修正案を出させ、
    「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」としたのです。
    この時ノーマンはワシントンに出張し極東委員会に勤務していました。

    ノーマンがこれを挿入することにこだわったのは、
    1920年代以来のスターリンの対日戦略だったからです。
    天皇を制度にして国民の総意を口実にいつでも天皇制度を廃止できるようにしておくためです。

    ちなみに高野岩三郎はGHQの下でNHK初代会長となり、天皇制廃止を主張し続けた人物です。

    1952年、アメリカ上院司法委員会の報告でノーマンはソ連のスパイと指摘され、
    1957年、ノーマンは赴任先のエジプトのカイロで謎の投身自殺をした。・・・


    転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」






    資本主義の危機が世界規模で広がっていた時期の1917年10月、ロシア革命が発端になって、共産主義による世界革命はヨーロッパ各国に広まり成功するものと期待されていた。
    その期待を強固にものにしようと作られた世界的な共産主義組織がコミンテルンであり、1919年3月にレーニンによって作られた。

    1990年代後半から進んだVENONA文書
    http://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-70489-0
    http://www.nsa.gov/public_info/declass/venona/index.shtml
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8E%E3%83%8A
    の精査により、戦後、日本を占領していたGHQ内にコミンテルンが入り込んで少なくとも昭和23年までのGHQはコミンテルン・コネクションが大数を占めGHQを動かしていたという事が明らかになっている。




    コミンテルンの対日工作は、大東亜戦争以前のロシアのシベリア出兵時から活発化しており、大正12年に発生した関東大震災の時に日本に来た各国の救援団に紛れ込んで日本に入り込んで来ている。
    はっきりしているのは、「国際労働者救援会」というNGOがそれであり、その他にも沢山東京に入って来て東京一遍に大きな秘密ネットワークを張り巡らした。
    それが勢力を延ばし、大正15年の時点でコミンテルンの秘密宣伝部が日本の新聞と雑誌の19のメディアを支配下においていたという事は資料的に明らかになっている。
    大正末期の日本が急速に治安維持法が無くてはならない状態になった理由には、こういった"急速な共産化"がはじまっていたからである。
    吉野作造の指導下で「東大新人会」が発足されるが、大正13~14年になってくると殆どマルクス主義団体となり、そこから尾崎秀実(おざきほつみ)
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%B4%8E%E7%A7%80%E5%AE%9F
    の様なコミンテルンのスパイや野坂参三
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%9D%82%E5%8F%82%E4%B8%89
    といった多数の日本共産党員が続々と出て、その卒業生が満鉄調査部や朝日新聞などに入り込んで行く事になる。
    これが、日本の歴史が大きくねじ曲げられていく第一歩になる。
    これを、治安維持法によってなんとか抑制しようとしたが、この法律はスパイ取り締まりには逆効果だった。



    この様に生まれた日本のコミンテルン支持者は、コミンテルンの指令に従って(大東亜戦争前の)日本政府の不拡大方針を妨害し様々な事変を意図的に泥沼化させ、蒋介石との和平工作を次々と裏工作により挫折させていった。
    この時期のコミンテルンは、モスクワたけでは無く、支那(中国)の延安を司令塔とした"チナミンテルン"という中国共産党の「東アジア共産革命」路線に基づく新しいネットワークを構築し、その影響が日本にも相当入り込んで来た。
    野坂参三がモスクワから延安に本拠を移したのもこの時期である。

  4. 【3607524】 投稿者: イエローピーマン  (ID:Kl7flhDy3mM) 投稿日時:2014年 12月 13日 12:44

    共産党躍進しそうですね
    共産党の正体を知らないというか知らされていない日本国民の多さに
    驚愕しております。
    弱者救済平和を愛するというお面の下にどんな本性が潜んでいるか
    皆様ここは中国ではありません
    自由に選択できる権利が日本国民に託されております。
    一度検索して調査してみることです。
    何が正しいか自分で選択できる自由な日本が永遠に続きますように



    志位和夫・日本共産党委員長の家系
    祖父は帝国陸軍中将 伯父は旧ソ連のスパイ
    「日本の侵略でアジアの2000万人が犠牲」「在日韓国人に参政権を」「慰安婦に賠償を」…共産・志位氏、民団で挨拶
     在日本大韓民国民団中央本部が15日に開いた第65周年光復節中央記念式で日本共産党の 志位和夫委員長が行ったあいさつは次のとおりです。 (韓国語で)こんにちは(拍手)。私は、日本共産党委員長の志位和夫です。(拍手)
     きょう、8月15日は、韓国のみなさんにとって日本帝国主義の支配から解放された喜ばしい 日であり、私は、心からのお祝いを申し上げるものです。(拍手)
     同時に、私は、この日にあたって、日本の侵略戦争と植民地支配によって犠牲になった 2000万人を超すアジアの人々と310万人の日本国民を追悼し、過ちを二度と繰り返さない 決意を新たにするものです。
     今年、2010年は、日本帝国主義が、韓国を「併合」してから100年目の年となります。 「韓国併合」は、日本軍による繰り返しの侵略、王妃の殺害、国王・政府要人への脅迫、 民衆の抵抗の軍事的圧殺によって実現されたものであり、「韓国併合条約」は、日本が 韓国に対して、軍事的強圧によって一方的におしつけた不法・不当な条約です。(拍手)
     私は、植民地支配によって、国を奪い、文化を奪い、言語を奪い、名前すら奪ったことを、 日本国民は忘れてはならないと思います。それを両国の共通の歴史認識とすることが、 未来にとって重要であると考えるものです。(拍手)
     私は、4年前に初めて韓国を訪問し、西大門刑務所歴史館で追悼の献花をおこない、 国会議長や与野党のリーダーと会談しました。そこで感じたのは、36年におよぶ植民地支配の 痛みの深さでした。同時に、私が、韓国のみなさんとの交流で強く実感したのは、21世紀の 未来にむけて、日本との本当の友好を願っているということでした。
     歴史は、消し去ったり、書き換えたりすることはできません。しかし、歴史に誠実にむきあう ことはできます。過去の誤りを真摯に認めてこそ、日本は未来に向かってアジア 諸国民との本当の友情を得ることができるというのが、私たちの確信です。(拍手)
     日本共産党は、戦前の時代から、日本帝国主義による朝鮮への植民地支配に反対し、 朝鮮独立のたたかいに連帯してたたかった政党として、日韓両国国民が、真の親愛の 情でむすばれた友好関係をうちたてるために、つぎの諸点で力をつくす決意です。
     第一は、日本の過去の侵略戦争や植民地支配を正当化するいかなる逆行も許さないことです。 また誤った歴史が残した傷跡をただすことです。 侵略戦争と植民地支配を美化する歴史教科書問題を解決し、新しい世代に歴史の真実を 伝えなければなりません。(拍手)
     旧日本軍による「従軍慰安婦」問題等について、日本政府は謝罪と補償をおこない、 問題の真の解決をはかるべきです。(拍手)
     第二は、北東アジアに平和的環境をつくりあげることです。 この地域には、なお緊張と紛争の要素が残されていますが、どんな問題でも「軍事対軍事」の 悪循環に陥ることなく、紛争の平和解決に徹するべきです。困難はあっても「6カ国協議」を 再開・成功させ、この枠組みを地域の平和機構に発展させることが大切だと考えます。 日本は憲法9条をもつ国として、こうした平和外交にこそ力をそそぐべきです。
     韓国民団のみなさんは、「真の光復は祖国の民主的平和的統一が実現する時だ」とのべて おられます。南北の平和的統一を促進する国際的環境をつくるうえで、日本は、過去の 植民地支配という歴史を考えても、その重要な一端を担うべきだと考えます。(拍手) 永住外国人への地方参政権の付与をすみやかに
     第三は、永住外国人、在日韓国人のみなさんへの地方参政権の付与を、一日も早く実現 することです。(拍手)
     わが党は、すでに1998年にそのための法案要綱を提案し、選挙権とともに被選挙権を 付与することを提案しています。各党と意見調整をはかり、一刻も早くこの懸案の課題を 実現させるために力をつくすことをお約束いたします。(拍手)
     (韓国語で)今後、韓国民団と日本共産党の交流が発展することを、心から願っております。 ありがとうございました。(拍手)(以上、抜粋)
    http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2010-08-16/2010081601_02_1.html

  5. 【3610828】 投稿者: 戦前の日本は何だったのか?  (ID:LIjOKbVs4c6) 投稿日時:2014年 12月 17日 08:58

    憲法改正も視野に入ってきたし戦前日本のどこが問題だったのか?


    では果たして戦後の日本はどうだったのか? 敗戦に伴い何が変わって何が変わらなかったのか? 憲法を変えるとしたらどこを変えるのか?


    そんなこんなを話し合えたらと思います。

  6. 【3626538】 投稿者: 長州ファイブ  (ID:XQ3nOyrwA22) 投稿日時:2015年 01月 05日 11:12

    長州藩の優秀さ5

    https://www.youtube.com/watch?v=Di1xWZhBt1g



    日本の分岐点

  7. 【3628270】 投稿者: 花燃ゆ  (ID:Zli5CgquccQ) 投稿日時:2015年 01月 07日 10:12

    1850年、萩。杉文(ふみ)は下級武士の娘。
    大好きな兄の吉田寅次郎(伊勢谷友介)は若き兵学者として期待を集めていたが、
    鎖国の日本の未来に危機感を募らせ禁書を手にした。

    吉田松陰は、長州毛利藩の藩校「明倫館」の軍学教授(兵学教授)である。

    播州赤穂浅野藩の大石良雄以下47人の赤穂浪士が1703年1月30日、深夜、主君・浅野内匠頭長矩の仇である高家吉良義央の屋敷に討ち入り、吉良義央および家人を殺害。
    長州毛利藩は、下級武士を預かり、切腹・斬首まで面倒を見た。
    赤穂藩は、流罪の身になった兵学者・山鹿素行を引き取り、その薫陶を受けたことで知られている。
    この山鹿流軍学は、幕末まで伝えられ、明倫館は、吉田松陰がその神髄を教えてきた。


    山鹿流軍学の本質は、「孫子の兵法」にある。
    孫子は孫武といい、中国古代・春秋時代の武将・軍事思想家である。
    「戦わずして勝つ」という戦略思想で有名である。

    今でもその教えは中華思想とともに共産党政権下で執行さえているといってよい。

    「何のために学問をするのか」という吉田松陰の言葉は、現代の日本民族に、「出世のためか」、「カネ儲けのためか」という問いを鋭い刃の如く突き付けている。「公のために生きるのか」それとも「私利私欲のために生きるのか」と。


    日本は、大東亜戦争(日中戦争、太平洋戦争など複合的戦争)に敗れてから、70周年を迎えた。これか
    ら先、国際社会の中で日本民族は、どう生きていくのか。取り敢えず「400年間戦争のない平和な時代を築く」には、どうすればよいのか。真剣にこのテーマに取り組んでいく必要がある。NHK大河ドラマ「花燃ゆ」は、これからの日本民族の生き方を問うているようだ。  

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