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【2946422】終戦から62年 日韓それぞれの引揚げ

投稿者: アキド   (ID:VkOSBO5VJrE) 投稿日時:2013年 04月 28日 00:42

終戦から62年 日韓それぞれの引揚げ

動画

同胞

レイプ

堕胎

人間は

負けない、くじけない、強い力がある

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  1. 【2946440】 投稿者: アキド  (ID:VkOSBO5VJrE) 投稿日時:2013年 04月 28日 01:11

    転載記事引用

    中央日報 latest news<イ・フンボム記者の時視各角>ヨーコが言わんとしたこと
    2007年01月24日12時39分
    [ⓒ 中央日報/中央日報日本語版]

    小説 竹の森遠く

    テーマも多様だ。自分も国も滅ぼす賭博の狂風に、良心を疑う代理翻訳、そして今度は民族主義感情の争いだ。小説中、日帝敗亡後、祖国に帰ろうとする日本女性を韓国人たちが性的暴行する場面が韓国人読者の怒りに触れたという。

    そこで雀は精米所に寄らずに本屋に飛んだ。2、3時間で読みきったが、最後のページをめくるまで、どうして問題になったのかわからなかった。むしろ悲しい場面に鼻の先がじいんと熱くなったほどだ。無性に疑問がわく。どうしてだ? 憤慨しなければならないらしいが…。

    『ヨーコ物語』は日帝時代、北朝鮮地域に住んだ12歳の日本人少女が見た戦争の惨状を記録したものだ。1945年7月29日、ヨーコが母と姉と一緒に咸境道(ハムギョンド)ナナム(清津)を脱出することから始まる。前半部は辛うじて避難列車に乗り込み、3人の母娘がソウルを経て釜山(プサン)にたどり着くまでに経験した緊張と恐怖を、後半部は日本に到着した後、同胞たちから受けた蔑視と冷遇に屈せず、勝ち抜く過程を描いている。

    問題の性的暴行シーンは2、3回出ては来るが、短く間接的に描写されていただけだった。「朝鮮人の男たち数人が女性を森に連れて行き『助けて』という日本語を聞いた」というふうだ。これらを読んで歴史を歪曲し、韓国人を侮辱すると憤慨するのは度が外れた被害意識の発露だというのが率直な心情だ。

    戦争とそれがもたらした混乱と暴力、狂気に露出した女性たちが感じなければならなかった恐怖という方がもっと近いはずだ。当時、そんな恐れを感じない韓国人女性がいなかったわけはないだろう。この本は反韓ではなく反戦小説だ。赤ん坊の死骸を列車の外にほうり出し、寒さに勝とうと死んだ軍人の服を脱がせては着て、飢えに苦しみゴミ箱をあさって食べ物を確保するなど、戦争が強要した生存の苦痛が小説のテーマだ。

    日本の出版社が出版を拒否したのも、戦争を起こした日本政府に対する強い批判からだ。ヨーコの母は入隊するという兄にこう叫ぶ。「我が国が戦争を起こそうと真珠湾を攻撃したのは決して立派なことではない。(…)夫や息子を失うより、むしろ我が国が負けるのを見る方がいいだろう」

    自分を「ぼろ人形」と冷やかした女学校の級友たちも、著者であるヨーコカワシマ・ワトキンスさんは依然として許せない心の傷として残っている。むしろ韓国と韓国人に対してはあちこちで愛情が垣間見える。特に兄の命を救ってくれて、生みの親のように接してくれた韓国人家族に感謝する心があふれている。

    今回の波紋の震源地は米国だ。いくら反戦メッセージがこめられていると言っても、この小説が米国で中学校教材として使われることは確かに無理があるようにみえる。アジア植民地の歴史を知らない米国の子供たちに、日本がともすれば戦争の被害者と映ることもあるからだ。在米韓国人たちの反発はその意味では正当だ。

    しかしこの本が韓国でも出版されてはいけなかったという理由はない。我々はものを知らなすぎるのではないか。もう、日本は加害者、韓国は被害者という等式の民族主義的集団呪術から脱する時が来ているのだ。どうして日本とサッカーをすれば何が何でも勝たなければならず、日本がうまく行けば気分を悪くしなければならないのかということだ。問題は『ヨーコイヤギ』ではなくイデオロギーになった「民族」概念の方だ。

    近代、我々の生存の萌芽を守ったのはまさに強い民族主義だったかもしれないが、今日の我々の課題は、19世紀以前には存在しなかった民族概念を守ることではなく、アジアの多くの国々と共存し、国民を超えて世界市民に発展することだ。

    そのためには少々都合が悪い部分があっても、こんな小説は笑って読んで済ますぐらいにならなければならないということだ


    笑えない、笑えない、
    事実は小説よりも奇なり
    だから

  2. 【2947247】 投稿者: アキド  (ID:VkOSBO5VJrE) 投稿日時:2013年 04月 28日 21:07

    「三船殉難事件」 転載記事
    昭和20年(1945)8月22日、北海道留萌沖の海上で樺太からの婦女子や老人を主とする引揚者を乗せた日本の引揚船3隻(小笠原丸、第二新興丸、泰東丸)が国籍不明の潜水艦による攻撃を受け、小笠原丸と泰東丸が沈没し、第二新興丸が大破したという、判明しているだけで1708名以上が犠牲となった事件

    まず、8月22日午前4時20分頃、逓信省の海底ケーブル敷設船小笠原丸が留萌沖の海上で国籍不明の潜水艦の雷撃により撃沈され乗員乗客638名が死亡。生存者はわずか61名でした。

    続いて午前5時13分頃、大泊からの引揚者約3400名を乗せていた特設砲艦第二新興丸が留萌沖北西33kmの海上で、同じく国籍不明の潜水艦の魚雷が右舷船倉に命中し、重油が漏れ出します。さらに浮上した2隻の潜水艦により銃撃を受けたため、応戦します。

    しかし、第二新興丸は船体に大きな損害を受けたものの機関に異常はなかったため留萌港に入港。船内で確認された遺体は229体。行方不明者も含めると400名近くが犠牲となりました。

    同日午前9時52分には、引揚者を乗せていた貨物船泰東丸が北海道留萌小平町沖西方25kmの海上において、浮上した国籍不明の潜水艦の砲撃を受けます。同船には武装設備がなかったため戦時国際法に則り白旗を掲げたのですが、潜水艦はこれを無視して砲撃を続けられて沈没。乗員乗客約780名中、667名が死亡しました。

  3. 【2947266】 投稿者: アキド  (ID:VkOSBO5VJrE) 投稿日時:2013年 04月 28日 21:32

    転載記事


    金 正極(キム・ジョングク)
      1920年3月4日生まれ ソ連国籍 ソ連サハリン州ユジノサハリンスク市在住

     樺太に行くまでの朝鮮での生活は大変でした。
    お父さんは農業をしていましたが、食べる物はありませんでした。
    戦争中でしたから、畑を耕しても全部供出させられてしまい、
    配給も満足に貰えませんでした。
    貧乏だったので、学校にも行けず、おじさんに漢字を教えてもらいました。
    名目は「募集」だけれども、「徴用」と同じ事でした。
    「募集」に来たのは、日本人の指令で来た朝鮮の役人でした。
    「今、世界は戦争をしているから、石炭を掘るために樺太に行かなければならない」と
    応じさせられたのです。行かなかったら警察に捕まるんですから。
    樺太での仕事は、炭坑で石炭を乗せたトロッコを押す仕事でした。
    1943年の11月に樺太に着いたので、2年間の徴用期間が終わらない内に
    戦争が終わったんです。
    その時は、日本が勝った方が良かったと思ったんです。
    朝鮮人も「皇国臣民」だといって、教育されていましたからね。


    辛 相根(シン・サングン)
    1918年生まれ 1990年1月14日、ソ連サハリン州ホルムスク市より、妻の李 達任(イ・ダリム)と共に永住帰国  韓国国慶尚南道固城(コソン)郡在住

     私が「徴用」されたのは、21歳の時です。
    面(村)長から行くようにと、直接いわれました。
    父がいないので、私が「行きたくない」といったら、
    面の役人3人に、棒で力いっぱい殴られました。
    韓国に帰ることを考えて、今まで2人とも不利益を承知で、無国籍を通してきました
    この事でずいぶん厭味や北朝鮮かソ連の国籍を取るようにいわれました
    釜山に着いた時は、何ともいえない気分でした。
    死ぬのは韓国でと、思っていたからです。
    いくらソ連で年金を貰えても、やはり自分の国で暮らす方が良いと思います。

    鄭 然寿(チョン・ヨンス)
     1915年6月20日生まれ 無国籍 ソ連サハリン州ユジノサハリンスク市在住

    親戚の人に「徴用」が来たのですが、私は農業をしていたけど貧しかったので
    金儲けができると思い代わったんです。その時、私は29歳で子どもが3人いました。
    樺太の川上炭鉱へと回されましたが、契約の2年が過ぎたのに、そのまま働かされたんです。
    この世でひとりぼっちになったと思い、ロシア人の女性と結婚しました。
    この妻がものすごい酒飲みで、働いたお金をすべて使ってしまったのです。
     韓国に残した妻と3人の子どもたちは
    私が韓国を出た日を命日にして10年間法事をしたそうですよ。
    私の近所に住んでいた人が韓国に行って、釜山にいる長男に会ってわかったのです。
    ここで再婚したロシア人の妻は亡くなってしまい、一人娘は永住帰国してもいいといってくれています。

  4. 【2947279】 投稿者: アキド  (ID:VkOSBO5VJrE) 投稿日時:2013年 04月 28日 21:46

    朝鮮半島を日本が統治していた時代に
    日本人と同じく日本国籍を持つ朝鮮民族の人々も
    労働者として南樺太へ出稼ぎや徴用により移住していた
    (1939 年からの「募集」、1942 年からの「官斡旋」、1944 年からの「徴用」)
    第二次世界大戦で日本が敗戦するとソ連が南樺太を占領し
    米ソ引揚協定により樺太からの引き揚げ対象者は日本人に限定され
    引揚者の選択もソ連当局が行うこととされた

    樺太に留まった在樺コリアンは
    多くが朝鮮半島南部の出身であったが、
    当時の韓国が反共を国是として(赤狩り=例1950年「国民保導連盟事件」)
    ソ連と国交を持たなかったために
    帰郷は事実上不可能であった。

    一方でソ連の国籍取得や、
    ソ連と国交のある北朝鮮への帰郷や国籍取得は許されたため
    半島南部出身者でも北朝鮮籍となったものも存在する
    (無国籍状態のままの者も存在していた)。

  5. 【2949489】 投稿者: アキド  (ID:VkOSBO5VJrE) 投稿日時:2013年 04月 30日 22:45

    満州事変から日中戦争へとつながるその戦争が
    日本国家による謀略にもとづく侵略戦争であることも
    知らないまま、「天皇陛下の赤子」として、
    またお国の一大事にあたり、若き青春の血たぎるまま、
    お国のためにこの五尺の体を国家のために捧げようと
    関東軍独立守備隊に志願いたしました。
    任地は、中国山間の奥地で、始終灯油とローソクのみでの
    野戦生活でした。

    さらには第二次世界大戦では東南アジア各地を転戦し
    戦争では、いかなる手段を使おうとも国家のために尽くすこと
    になると信じるまま、多くの諸外国の人々を
    残虐の限りを尽くして、殺りくを行ってきました。

    戦後52年余、絶えず私の心の中の動かしがたい事実として
    残虐な戦争の歴史をぬぐい去ることができません。
    わたし自身も戦闘で、傷痍軍人となりました。

    自らの人生を振り返り、深い反省のうえにたって
    今後決して、おろかしい戦争を繰り返すことのないよう
    戦争の語り部として、こん身の努力を続けています。

    最も訴えたいことは、「戦争こそ最大の差別である」と言うこと

    ひとたび戦地に送られれば、何人も鬼畜に変わってしまいます。
    まさに殺されるか、殺すかのいずれかの極限に立たされます。
    人間らしい心は完全に破壊され、相手を殺すこと以外に
    自らが生きのびることが出来ないのです。


    かつて中国を侵略した旧日本軍は、中国人民に対して
    いわゆる『三光作戦』なるものを下しました。
    『三光』とは
    「奪いつくす」「殺しつくす」「焼きつくす」ことであり
    中国人兵士はもとより、老人、女性、子供達をも残虐なる殺害を行い
    蛮行の限りを実行して来ました。
    こうした蛮行は、当然のこととして、すべての日本軍兵士が行って来たのです
    しかしながら、その当時、その場に置かれた兵士の状況と
    極限の中での心情をだれが責めることが出来るでしょうか。

    この身で体験した残虐の極みである戦争を、
    これからの世代に断じて、繰り返させてはならないと
    強くつよく訴えるものであります。

    旧日本軍が中国で行って来た、残虐の数々が、勇気ある人々の懺悔、告白をもとに
    「中国帰還者連絡会」において出版されていることを知り、
    私自身もかつて日中戦争体験者として、戦後五十年余りの今日、
    自らの犯して来た行為を振り返るとき、身の毛がよだつ思いがよみがえり
    慚愧の念で一杯であります。

    その懺悔と再び過ちを犯さないために
    教育を通じて、戦争のない真の平和と
    人権の確立に取り組んでおります。

    今なお世界では、戦禍によって、多くの尊い命が
    文化が失われています。
    戦争こそ人間として、最も大切な「生存の権利」すらも奪う
    最大の人権侵害であり、最大の差別と言うゆえんであります。

    国連では、二次世界大戦の深い反省の中から生まれた
    「世界人権宣言」を更に具体化するため、1995年
    「人権教育のための国連十年」が世界160カ国余によって決議され
    戦争を未然に防止し、平和を実現するには、各国が教育の徹底を図り
    世界の国々が相互の信頼と対話による紛争の解決を図ることを目的と
    しています

    引用文書

  6. 【2949510】 投稿者: アキド  (ID:VkOSBO5VJrE) 投稿日時:2013年 04月 30日 22:56

    子どもたちが猛吹雪のなか凍りついた線路の上で母を父を呼ぶ
    「必死な声」今の私たちに聞こえますか想像できますか?
    大人の身勝手で子供たちにあのような声
    地獄の叫び声を叫ばせてはいけないのです。

    戦後60年を迎える今年、改めて戦争と平和をまとめるという記事を読み
    早速私の海外での悲惨な体験を書かせていただきました。

    10歳足らずの子供心にも忘れられない体験でした。
    今あのようにして引き上げてきた方たちは
    どんな生活をしておられるのか興味のあるところです。

    冬の訪れの早い国境では8月にはとうもろこしのひげが伸び
    コスモスが咲き乱れ、秋風がさわさわと吹き子供なりに
    異郷の寂しさを感じる町カイネが生まれ故郷、
    今の長春・・・・新京が子供心を謳歌した私のまちでした。
    私の父は戦争体験と引き上げ時の
    苦労がたたり若くして亡くなりました。
    必死で連れ帰った妹も引き上げ後すぐなくなりました。

    平和な日本人町も人々も、ソ連軍参戦という一夜のニュースで
    てんやわんやの、買占め、物取り、女、子供の外出禁止、
    私たちは右往左往何も手につかない生活だったと思います。
    平和な生活も国境警備隊の関東軍敗退により、
    日本人の悲惨な2年間が始まりました。

    新京から朝鮮へ疎開、また都会へと脱出のため三日三晩雨に打たれ
    玉音放送は雨に濡れた無蓋貨車で放心したように聞きました。
    満鮮国境線は線路がはずされていました。
    敗戦の苦しみは今、親になって知る苦しみです。
    北満の真冬すべて凍りついた山道、

    そのためには幼い子に少しばかりの食べ物を与え
    大人はその前から夢中で逃げました。
    父や母を呼ぶ声は今でも思い出します。

    今その子どもたちは元気なら60歳ぐらい
    どのような生き方をしてこられたか
    60年を過ぎた今、親探しの記事を見るたびに
    心の痛む方も多いと思います。

    あれから60年お互い年を取り手がかりは
    薄れていきます。
    憎しみ殺し合いも悲惨ですが、かわいいわが子を
    死のふちにおいて淘汰しながら生きてきた親たちも悲惨です
    もう二度とあの苦しみはしてはいけないと、いまさらながら考えています。

  7. 【2949523】 投稿者: アキド  (ID:VkOSBO5VJrE) 投稿日時:2013年 04月 30日 23:06

    両親とも朝鮮引揚者なので一言。
    私の母親はいまで言う北朝鮮、父親は韓国(南朝鮮)から引き上げました
    父によると米軍占領下の南から引き上げた人達は比較的平和裏に帰れたそうです。

    せいぜい金目のものを奪われたぐらいで
    命をとられることはなかったそうです。
    しかしロシア占領下におかれた北は悲惨で
    朝鮮人による日本人街の焼き討ちは当然として
    ロシア兵による婦女暴行や
    徒歩で引き上げる日本人へのロシア軍の襲撃等はあったそうです。

    私の母や祖母は、北朝鮮の禿山で機銃掃射された記憶が
    トラウマになっており、いい年をして「死体」の出てくる映画や
    ドラマを見る気にはならないそうです。

    但し「大量虐殺」はなかったようです。
    それであれば、祖母も母も生き残ってないので。
    ただかなりの人数(特に子供)はその道中で亡くなったと聞いてます。

    最初は驚いたり悲しんだりしていたのが、
    どんどん慣れて来て「何も感じなくなる」そうです。

    ちなみに祖父は学校の先生をしており、
    朝鮮人の教え子に助けられました。
    その際、子供は置いてゆけと諭されたそうです。
    また占領軍のロシア人将校からも子供は置いてゆくように言われたらしいです。

    結局母たちは命がけで何とか日本にたどり着いたのですが、
    数は少ないですが朝鮮人やロシア人に助けられた子供達もいるかも知れません。

    歴史の生き証人からは、教科書には載っていない話が出てくるものです。


    すみません。(誤)ロシア軍→(正)ソ連軍ですね。
    これはあくまで祖母の視点ですが、ソ連の一般兵は質が悪く、犯罪者の集団のようだったとのことです。

    また何故ソ連軍が民間人を襲撃したかは不明です。ただ珍しくはなかったとも聞いてます。戦争のと言う狂気の場では、あり得ないことはないのかも知れません。

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