アートの才能を伸ばす女子教育
私立中学の価値 2校め
既スレが調子悪いので、とりあえず立てておきました。
>少なくとも生活保護や路上生活や低所得を余儀なくされる方たちがこれ以上増えないようにするために、また少なくとも後進国にならないようにするために…学校教育の中で全体の底上げと、国を牽引していく人材を育てるのと、同時にはできないものなんでしょうか?
底上げには小学校、中学校で少人数クラス、軽い習熟度別で基礎学力をきっちり付けてもらって、優れた人材育成には表現力、応用力を育てるとか飛び級とか。
平等と能力主義の折衷が日本人にはいいのか、世界を見て能力主義に傾くべきなのか?
どうお考えでしょうか。
>学校教育の中で全体の底上げと、国を牽引していく人材を育てるのと、
>同時にはできないものなんでしょうか
もともとやってたんですよね…。
全体の底上げに関しては、ゆとり教育でこわれちゃった。
でもこれは、時間が解決してくれるのではと私は思っています。
長時間かかりそうだけど。国を牽引していく人材というのは、
昔のように露骨に養成していないのも確かですが、
求められる条件が時代よって変わってきていることも見逃せないかなと。
いま、国を牽引していく人材に求められるものって何なのか?
ということを考えるためには、日本という国のヴィジョンなしでは語れません。
日本は、戦後、ヴィジョンも信念も欠けたところで、
経済復興だけを唱えてそこそこの大国になった国。
そう考えると、国を牽引していく人材の条件なるテーマは、超~深いです(笑)
>学校教育の中で全体の底上げと、国を牽引していく人材を育てるのと、同時にはできないものなんでしょうか? 底上げには小学校、中学校で少人数クラス、軽い習熟度別で基礎学力をきっちり付けてもらって、優れた人材育成には表現力、応用力を育てるとか飛び級とか。 平等と能力主義の折衷が日本人にはいいのか、世界を見て能力主義に傾くべきなのか?
「国を牽引していく人材」のとらえ方によると思うのですが,その「人材」・・・すべての日本に該当する,と言ってしまうのは強引でしょうか。国を引っ張る役割は,肩書きを持つ国政に携わる者だけの仕事ではなく,一人ひとりにあると思うんですよ。町工場のおじちゃんも,ミュージシャン(今はこんな言い方しないのかな?)も,童話をかくひとも,なでしこJも,皆,それぞれの立場でそれぞれの役割があり,また,すべてがどこかで絡み合っている。内政を仕切ったり外交実務交渉を行う第一線の人たちは,もちろん,肩書きを背負う分責任も大きい。しかしだからといって他の国民にはその責任がないわけではない。
それぞれのプロ意識がどのように形成されるか?っていうことになりましょうか。どのプロに将来なろうが,互いを正しく知るために,現代文明に見合ったイロハの共有は必要で,それが初等教育なのではないでしょうか。ちょっと飛躍しますが,そんなこんなを考えると,教育をきちんと考ることがイコール国を考えることになると思うんです。議論が深まればいいですね。
基礎は大事さん
>底上げには小学校、中学校で少人数クラス、軽い習熟度別で基礎学力をきっちり付けてもらって
賛成です。しかし,運営法の議論の前に,何を教えるか,という教育内容の議論が必要かと。内容とその実践のあり方で,いろいろな見地での数が見えてくるでしょうから。
ここで,基礎とは何か?が,何を教えるか,にかかってくると思います。
例えば,1~2ページの短文を読んでその要旨を指摘できない6年生がいるとしたら,あるいは,その日の出来事を1~2行で表現することにかなりの苦労を要する6年生がいるとしたら,国語の基礎を学んだことになるのか?
例えば,やや複雑なテーマ(日常的な出来事という意味でのテーマです)を目の前にして考えること自体を放棄する6年生がいるとしたら,算数の基礎を学んだといえるのでしょうか?
例えば,食堂で残ったご飯を無造作に何のためらいもなく放り投げる6年生がいるとしたら,果たして彼/彼女は社会の基礎を学んだのでしょうか?
基礎とは何か?
重要な問いかけだと思います。
遺伝様
>もともとやってたんですよね…。
そうですよね。
学校の勉強中心に真面目にやっていれば底力がちゃんとつく時期もありました。
勉強は学校、しつけは家庭と比較的役割分担がされていたのが、いつからかその領域が曖昧になってしまいました。
家庭の子どもへの関心の大きさに関係なく、学校で受験まで対応できる教育を受けられた時期は良かったですが、
ゆとり導入以降は急速に学力格差が開いてしまったと感じています。
>日本は、戦後、ヴィジョンも信念も欠けたところで、
経済復興だけを唱えてそこそこの大国になった国。
経済復興、経済成長が明確な目標にならなくなったら何を目標にするのか。
日本は統一された宗教観もなく、アメリカナイズされた結果、日本本来の道徳観は薄れてしまってます。
頼れるものがない、浮遊した状態の上に教育もあるから、ゆとり教育のようにその場限りの政策になってしまうのかなと。
昔に戻ることはできず、かといって昔を手本にするのか、新たな道に向かうのか。
過渡期なんでしょうが、親としては何でも自分で考えねばならず不安ですね。
基礎は大事さま
>親としては何でも自分で考えねばならず不安ですね。
そうですね。でもきっといつの時代にも求められるもの、
身につけておきたいものというのは決まっているような気がします。
とりあえずうちは、日本人としての常識を身につける、
地球人としての常識を知り、倫理観を身につける、
そのうえで、混沌とした世の中になっても
生き延びられるだけの力…、
できれば余裕で生きていけるだけの力
(社会貢献につながるような)を身につける。
ということを目指し、日々試行錯誤しています~。
老眼様
>それぞれのプロ意識がどのように形成されるか?っていうことになりましょうか。どのプロに将来なろうが、互いを正しく知るために、現代文明に見合ったイロハの共有は必要で、それが初等教育なのではないでしょうか。
一人一人を人材として育てるというご意見、賛同します。
それぞれが成長する段階で適性を知り、将来それに見合った職業に付ける可能性が高いのであれば、勉強する意義、努力する意義を見出だせるでしょう。
その点、現在は、大学までの勉強と社会に出てできることが必ずしもつながっていないところが問題です。
適性を第一に考えるのか、就職を第一に考えるのか、今の若者はかなりシビアに考えざるを得なくなっています。
日本は長らく学歴が重視される社会で、人はそれを追い求めてきました。
しかし、社会の側が、一人一人の適性や能力を重視するように成熟していくことで、
勉強と職業を一致させていけないか、と考えています。
>基礎とは何か?
基礎学力の内容の基準はと考えると、難しいです。
遺伝様が説明されていた444制のように制度の側面からと、一人一人の将来の希望を叶えるには、いつまでにどのくらいの学力をつけるのかという質、量の側面からと双方向から見ていく必要があるのかなと思います。
それと同時に、どの進路を選んでもそこそこ満足できる(生活していける収入、社会での職業への認知、待遇など)という前提がないと、
適性と能力を発揮できる職業へとそれぞれに進むのではなく、皆が皆同じような進路を選ぶことになるのではと考えます。
社会の側に受け入れる器がないと、学校や教育行政の中で考えてもなかなか基準の設定は難しいかもしれません。
前記のように、社会の成熟が待たれますが、どうなるでしょう。
相変わらず、社会に合わせて家庭が個別に子どもの教育環境を作るのが主流のままなのでしょうか。































