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私立中学の価値 2校め

【2043250】
スレッド作成者: ようこそ!書き込み歓迎 (ID:4Xzxz71IPe2)
2011年 03月 02日 23:08

既スレが調子悪いので、とりあえず立てておきました。

【2247971】 投稿者: 老眼   (ID:paA8dV.blZA)
投稿日時:2011年 08月 26日 18:45

>大きな音があっても寝る子、少しの物音で起きてしまう子。 よく笑う子、まるで笑わない子。 物体を凝視する子、空を見ているような感じの子。 食べる事に関してもしかり、驚くほど生まれ持っての違いがありました。


そうですよね。不思議です。
同じような場面に遭遇すると、「生まれ持って/生まれ持ってではない」とするそれぞれの根拠を何に置けばいいのか見出せなくなります。


>しかし、面白い事に、それがある一時期、何かのきっかけで180度違ってきたりする子も多い。(物ごころがつく頃) 何か、スイッチが入るのでしょうかね。。。


そのスイッチが、単発の大きな刺激なのか、持続的な連続した小さな刺激の積によるのか、どっちなんでしょうね、それとも複合かな。
わからいことだらけで面白い。

【2247975】 投稿者: 何もしない人   (ID:FAsoRb4UxLI)
投稿日時:2011年 08月 26日 18:47

>まあ、自分で「俺は子育てしてるぞ」「家のことしてるぞ」っていう父親ほど・・
>嫁の評価が・・低いらしいよー。(笑)

本人はやってるつもりだけど、実は何もしてないのでは?
どうせ何もしないなら、最初から、嫁さん任せで、お金だけ出すというスタンスの方がいいや。

我が家は嫁さんが怒った時だけ手伝います。

【2247984】 投稿者: 根本的   (ID:feby7YDNQDI)
投稿日時:2011年 08月 26日 18:56

地域、時代さん


>「遺伝子とDNA」の違いを、教えて欲しいです。


 私がこのスレで使っている限りにおいては、だいたい同じ意味だと考えていただいて結構です。


 DNAというのは、細胞の核のなかにある遺伝情報が書かれた糸のような長い構造物(有機化合物)のことです。化学物質として言うときには「DNA(デオキシリボ核酸)」を使い、遺伝情報に重点を置いて言うときには「遺伝子」を使うというようなニュアンスの違いがあるような気がします。


 「利己的遺伝子」は、確か「selfish gene」ではなかったかと思います。この場合、遺伝子のほうがしっくりくる感じです。


 また、DNAの情報は生体内で蛋白質に翻訳されるわけですが、その蛋白質に翻訳されるDNA部分だけを遺伝子と呼ぶ場合もあるようです。「狭義の」とか。でも、おおざっぱに、だいたい同じものだなという理解でよろしいかと。

【2248276】 投稿者: 残念です   (ID:5WbVLIqezFI)
投稿日時:2011年 08月 26日 23:46

なんだか、地に足がついた意見交換になっていませんね

残念です。

話がかみあっていかないのは、みなさんの「言葉」の使い方が自己流だからかも。

【2248281】 投稿者: 老眼   (ID:hdcsNkxr2wM)
投稿日時:2011年 08月 26日 23:49

残念ですさん
老眼です
早速わたしの問題点を分析してください
お願いします

【2248321】 投稿者: 残念です   (ID:5WbVLIqezFI)
投稿日時:2011年 08月 27日 00:29

老眼さん

問題点・・というか、誰でも「問題」はあります。(当然、私も含めてです)
でも、話がきちんとかみ合っていない、自分の言いたい事だけ言っている・・そんな印象を受けます。

例えば、老眼さんの・・

>子供の視点のほうが、大人の視点よりも美しいので、
>「下げる」という感覚が自分にあるうちは真実を垣間見ることもないですね・・。

・・こういった発言があったときには、反論があってもいいと思うのですね。

たとえば・・

「子供って、そんな無条件に美しいものなのでしょうか? 」
「フィクション「子ども」を、無条件に至高の対象にしてよろしいでしょうか?」

・・・とかですね。

もちろん、気を使うことも大切なのですが、
そういった率直な意見から、実のある意見交換が始まるのではないでしょうか。

【2248450】 投稿者: ルソー・アリエス   (ID:VULFo7qSvEU)
投稿日時:2011年 08月 27日 07:54

「子供って、そんな無条件に美しいものなのでしょうか? 」
「フィクション「子ども」を、無条件に至高の対象にしてよろしいでしょうか?」

これって、ルソーの近代的「子供」観ですよね。

産業革命以降、資本主義経済が発展するとともに、
大人たちが、子供を労働で酷使することを回避する目的では一定の意味はあったと思います。
でも・・現代ではどうなのか?・・子供をあまりにも美化し過ぎではないか?(無理に美化していないか?)
無理に美化する結果、その反動として痛ましいことが起きないか?・・そういう危惧もありますね。
「子供」観は、もっと自然体のものでも良いのでは?・・そういう感じもします。


1960年代のアリエス「子供の誕生」による 子供の発見は・・

「自明なものとされていた子供の観念が古来ずっとあったものではなく、近代家族の形成・成立とともに
もたらされたものであり、それ以前の子供観はまるで違っていた・・」
「人々に『子供』という時期がなく・・人間ははじめから『小さい大人』とされた・・仕事も遊びも大人たちと
共にする・・そうすることをとおして、大人たちのすることを手伝いながら、生きていく上の必要な知識を学んでいった。」

・・ということだったらしいですね。

近代以前の「子供」観が、現代より決して劣っているということではない・・ということかと思います。

【2248718】 投稿者: 老眼   (ID:b5RjktWYQDA)
投稿日時:2011年 08月 27日 13:21

残念ですさん
ルソー・アリエスさん
こんにちは
スローリスポンスとなってしまいすみません


言葉(話しかけ)については「子供を大人と区別しない立場」をとり、それ以外については区別する混在型をもって子供に接しています。ソシュールさんが数日前に言葉の関与について書かれましたが、その影響の大きさを実感するところを自分も感じていると同時に、適正な言葉の使用であれば(何を持って適正とするのかというところはありましょうが)子供に問題となるような負荷をかけない(負荷がかかる≒理解できない と感じる場合は一歩戻って言葉を選ぶようにしています→それでも・・なら、同様にさらに一歩戻します)のではないかと感じていることが背景です。いわゆる赤ちゃん言葉やそれに準じた言葉で話かけ続けることへの功罪についての関心と換言できるかもしれません。
一方で、言葉による話しかけ以外について大人と区別する根拠や理由について、ご指摘を受けてからあれこれ考えましたが、正直申して答えを見いだせません。しいて言えば、子供たちに頻繁に接する仕事をしている中で、子供をボリューム的に大人を小さくしたものと捉えるととんでもない過ちを起こす場面が多々あることが影響していることがあるくらいです。しかしそれは詭弁であって、純粋に教育を考えるときに、区別する/しない、あるいは、子どを無条件に至高のものとする/しない、という議論とは無関係のことです。感情論を排し子供目線で思考する、とする流れにも合致しないところであろうかと思います。
さて、極端な場合(出生したばかりの赤ちゃん)で考えるときに、子供という存在を、美しい≒否定できるところがない≒正しい≒完全な存在 とすることは、自分の中では最も妥当な表現ですが、これも根拠のない感情的な規定です。わたしにとってこれが自然体の子供感です。その規定からスタートしますと、何も手をかけないことが、実は最も良いことになり、教育という作業は余計なこととなってしまいそれを行っている現状に矛盾します。しかし、人間としての義務(これも問題となる言葉の使い方かもしれませんが)を考え併せたときに、教育の意義が生まれるという解釈をしています。たいへん観念的な内容ですが、思うところです。

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