アートの才能を伸ばす女子教育
私立中学の価値 2校め
既スレが調子悪いので、とりあえず立てておきました。
つい先日も、辻元清美議員が社民党から民主党に移りました。
小選挙区制は1人しか当選しないから、
候補者は政策の違いを訴えるよりも、
大政党の傘に入ることを優先してしまいます。
これにより、同じ政党内に
主義主張のかなり異なる議員が同居することになります。
また、大政党は小政党に対して、(敵対する大政党に勝つために)
その選挙区に候補者を立てないように働きかけます。
この「選挙協力」の見返りにポストを差し出すため、
連立内閣が恒常的なものになります。
意見が違うのにもかかわらず
党則や連立の枠組みで縛りが入りますから、
首相であろうが、方々との周到な調整を重ねなければ政策がまとめられない。
結果、多数派意見のようでいて実は国民の誰も望んでいない、
妥協のカタマリのような政策しか打ち出せなくなる(あるいは頓挫する)。
かくして…
大政党Aの勝利→国民の失望→大政党Bの揺り戻し勝利→国民の失望→繰り返し
こうしたループが起こり、かつ3年に1度の参議院選挙でこれが加速されていくので
「ねじれ国会が通例」となり、
ますます首相はリーダーシップを発揮しづらくなってしまいます。
そこで、できるだけ民意を反映しながら
ダイナミックな政治を行える制度として、こんな案はいかがでしょうか。
●首相:公選制
=国民の支持を背景に、強いリーダーシップでタクトをふるう
●衆議院:中選挙区制
=1票の格差を極力なくした2〜5名程度の議席数とし、
1位でなくても(大政党でなくても)得票数に応じて議員になれるようにする
●参議院:衆議院とは完全に分離した機関
=・直接政治(より少数意見を吸い上げられる)
・無所属議員のみ(政治のプロだが党利党則に縛られない国民の代弁者)
・47都道府県の首長による合議(地方の意見を国策に反映)etc.
●参議院を廃止する場合:
=チェック機関の代替として国民投票制を導入する
首相が様々なしがらみに縛られることなく思い切った政策を打ち出し、
アイデンティティの明瞭な(有権者にとって選びやすい)政党が
法案ごとに賛成・反対を決めていく。
こうした制度とすることで、
民意がクリアに反映された政策が、より強く推進されるのではないでしょうか。
(政策への関心が高まり、それがまた政治に反映される好循環も期待できます)
>おもしろいのは、8世紀にできた大宝律令もそうなんですよね、 明治になるまで改正されていない。だから、明治政府ができたときに、大宝律令で定める「太政官」布告が出るわけです。
なるほど。藤原不比等?の時代から今日まで、日本人の法意識は全く変わっていないということですね。デモクラシーにおける法とは、民が、支配者(官)から自分たちを守るために存在するものというのが原則だと思いますが、日本においては古代から、法とは支配者(官)が民を支配するための道具に過ぎなかった。もしかしたら、田中角栄も法を管理している支配者層(官?)によって葬られてしまったのでしょうか?なにしろ議員立法が得意でしたからねえ。小沢一郎も同じ運命をたどるのかもしれません。
ただ、未来さん、私が「小沢一郎が好き」というのは、「ホリエモンが好き」というのと同じレベルです。すべての政策を支持しているわけではありません。念のため。
>シナリオを書いているのは、日本大使館にいるアメリカ人だったりして。
これについては、よくわかりませんが、また今度。
根本的さん
>未来さん、私が「小沢一郎が好き」というのは、「ホリエモンが好き」というのと同じレベルです。すべての政策を支持しているわけではありません。念のため。
私は、小沢さん好きではなかったのですが、
まあ。。主人が支持しています。
多くは語らないので内容はわかりませんが。
根本的さん
>ところで、人間主義的なひとは、予定説的なひとをみると、高慢あるいは傲慢な「悪人」という感じを持つようです。そこが嫌だ、と。一方、予定説的なひとにとっては、人間主義的なひとは、「無自覚な善人」に見えてしまう。「あなただって、本当は傲慢ではないの?なぜ、それを自覚しないの?」そう追い詰めたくなるようですね。
ここでいう人間主義は、日本的「人間」主義でしょうね(外国にはいないでしょう)。
日本的「人間」主義を英訳するとしたら、多分、かなり苦労すると思います。
書いてのとおり、私は「無常」支持者なので、日本的「人間」主義、予定説、
どちらにも組みしません。
ただ、個人的には「人間」原理主義は嫌いです。(単なる「独善」ですから)
>自覚のある「傲慢値」10のひとと、無自覚な「傲慢値」1のひとではどちらが「善人」と言えるのでしょうか。
「自覚度」も必要になりますね・・パラメーターが多過ぎるのでやめておきます(笑)
>ただ、そもそも、閣議の前に、すべては事務次官会議ですでに決定されており、閣議とは、雑談をしてハンコを押すだけの形式的なものだという話も聞いたことがありまして、だとすれば、その方がより問題だと思いますが。いかがですか?
事務次官会議・・現政権でやめたはずですが復活するみたいですね、けしからん ですね。
>どの人間を犠牲にしてどの人間を救うのか、そういう究極の選択を迫られるときがある。
>人間を超えた価値を持ってこなくてはその選択は難しい。だって、人間が至上の価値ならば、どの人間も捨てられないじゃないですか。
そうですね、よく理解されていますね。
日本的「人間」主義の方は、
「人間とは思えない」「全くに非人間的な」「人間ってそんなものじゃない」
「人間性を無視している」
・・そういう風に批判をされることが、死ぬほど辛いわけですね。
だから「人間」と「人間」が衝突する事態に追い込まれたときには、思考停止
となります。
>ところで、人間主義的なひとは、予定説的なひとをみると、高慢あるいは傲慢な「悪人」という感じを持つようです。そこが嫌だ、と。一方、予定説的なひとにとっては、人間主義的なひとは、「無自覚な善人」に見えてしまう。「あなただって、本当は傲慢ではないの?なぜ、それを自覚しないの?」そう追い詰めたくなるようですね。
>自覚のある「傲慢値」10のひとと、無自覚な「傲慢値」1のひとではどちらが「善人」と言えるのでしょうか。
無常感さん
わたくしこと「老眼」は,客観的にみて,{「自覚ある/無知覚な」「傲慢値10/」「傲慢値1」「善人/悪人」「原理主義者」}を使うと,どういう人物像になるでしょう。率直なご意見をお聞かせください。































