女子美の中高大連携授業
私立中学の価値ーゼロ
内容は、私立中学の価値から続く話題です。教育全般です
条件は1つだけ・・「最初から、誰かを、無視する意図がある人を除く」です。
ゴメンナサイ間違えました。
>誤謬だと思うと申したのは、「A=BよってB=A」というお考えを基にされていると感じているからです。・・・でもそれも私が「思う」だけですから。
全然違うよ(笑)
AはBである
↓
BはCである
↓
よってAはCである
って感じたもので・・・(間違えました。)
いや私の文章力なのでしょうね。問題なのは。
色々申し上げるとボケるので一点だけ。私は、市場規範・外的基準は否応なしに我々の中に入ってきてしまうと感じており、それならばなんとかポジティブに捉えられないかと、もがいています。この点、信頼感様はどう感じておられますか?。それは避けて通りきれるというお考えですか?
高校生親様
>私は、市場規範・外的基準は否応なしに我々の中に入ってきてしまうと感じており、それならばなんとかポジティブに捉えられないかと、もがいています。
大変分かりやすいポイントでお話くださって感謝です。上記文面だと「市場規範を不本意ながら受け入れ共存できないのか?」というお考えなのでしょうか?
現段階で否応なしに入り込んでいますよね。私的には外側に振り回されているように思えてならないのです。そして外側に全て当てはめるように基準を統一したがっている風潮に思えます。感情の比較も同様に感じています。それだけは避けたいんですよ。そこをやり始めるとモラルハザードになっちゃう気がしませんか?
気持ちは、内面基準であり外側基準で比較されると否応なく市場価値を意識させられる(引っ張られる)と思っています。ポジティブに捉えるとすれば、サンデル先生の道徳性に通じるのでは・・・。トロッコ問題でも人命を合理的に比較出来る場面と出来ない場面があるじゃないですか・・・。それに近いように思えます。
市場規範を直ちに適用出来ない(比較できない)部分を明確に知る必要があると感じています。
>それは避けて通りきれるというお考えですか?
避けられると思っています。市場規範に頼り切る限界を悟りつつあるように感じています。
市場規範と自由意思は、水と油としか思えないんです。でもどちらも必要なものです。だから使う場面を道徳性で規制??分けるのかなって・・・。
思考錯誤中です。
「市場規範を不本意ながら受け入れ共存できないのか?」というお考えなのでしょうか?
以前は、かなり以前ですが、そのように考えていました。しかし、「不本意ながら受け入れ共存する」という状態に疲れてしまったのです。その後は、30代半ば以降でしょうか、むしろ市場規範の中に自分にとってポジティブな部分を作りに行けないかと考えるようになりました。市場規範全体を手なずけるのは無理でしょうが、自分に係る限り、というカッコ内であれば大丈夫です。
避けて通り切れるとお考えならば、やはりその部分が根本的に摺れ違っているんですね...。
高校生親様
本、半分位まで読みました。
前半の途中位から、文学の話が出てきているので、すごくわかりやすくなってきました。
信頼感様
高校生親様がお薦めして下さった「日本の無思想」(加藤典洋)、これを読めば、高校生様のおっしゃる事の根っこがわかるような気がします。
市場規範と自由意思は、水と油としか思えないんです。でもどちらも必要なものです。だから使う場面を道徳性で規制??分けるのかなって・・・。
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信頼感様
私も↑に関しては、同じように思います。
私自身は、かなり分けて(非常に意図的に)行動しているかな。
ですので、ある程度の年齢になったうちの子には、「お母さんはこういう考え方だけど(信頼感様的)~、一般的には(高校生親様)~。」の会話が多いですね。
そして私はそこをぼやかして子に伝えます。(子、自身が考えろ、という事)
「さあ?あなたは、自由意志を持って、市場原理の中で泳げる強さを身につけられるかな?」(持って欲しいという願い)みたいに。
なんといえばよいのか、「ゆるみ」「遊び」(緩みを持たせて、建物を壊さない的な)を必ず子に伝える、、と言えばよいのでしょうか?
最終的な部分では、’強烈な市場原理最優先’でガタガタになっているアメリカの現状を兄から聞いていても、おそらく、信頼感様の主張の方が核心をついている。と私は思います。
特に「子育て」においては、おそらく自由意志を無視する事、市場原理を「親が強く意識する事」は「どうなんだろう?」と考えてますので。
理由は、市場には流動性があるし(数年のスパンで新しかったものが古くなる)、親子ではキャラがまず違うと思うから相手を説得する場面においても、本人のキャラが違えば説得の手法も違ってくると思いますので。
そして、それは「子供」「本人」が、強く意識する部分であって(ここは高校生親様に同意です)、親は「自由意志」の部分を大切にしてやる方が良いのでは??と思うのですね。
信頼感様
私と信頼感様は似たような表現の分野であるが、以前、信頼感様もおっしゃったように、大きく違う。
私は「広告屋」の側面が大きいのですね。
私はある意味「受身の姿勢」でなければいけない部分が大きい。
また、受身でなければ、私の職業は成り立たない。
クライアントが「伝えて欲しい」という部分を無視するのならば、私なんかいらない。
私の職業で挫折する者の多くはそこです「内的部分を曲げない」者は、ダメ。
嫌な言葉でいえば「使えない」のです。
私と信頼感様の職業の違いは、私は「使われる側」なんですね。
音楽、演奏者の場合は、そこが全く逆のような気がするのです。(よくわからないのですが、漠然とそのように感じます)
もう、演奏者そのものが「あるじ」であるような気がするのですね。
私はどちらかというと「あるじに仕える側」のような気がします。




































