アートの才能を伸ばす女子教育
私立中学の価値ーゼロ
内容は、私立中学の価値から続く話題です。教育全般です
条件は1つだけ・・「最初から、誰かを、無視する意図がある人を除く」です。
さらに つづき
私だって、警戒心があれば「なにをしてもいい」とは思っていません。
警戒心がありながらも、出来るだけ好意的に対応することだって、よくあることでしょう。
「なんらかの対応」が、明らかに、やり過ぎであるなら、問題でしょう。
しかし「なんらかの対応」が寛容でないからといって、否定されてはいけない。
「宗教の自由」の前では、過去にどんなことがあっても関係なく、いま問題が明確でないなら『好意的で寛容』であるべき。
というのは、あまりに「原理」主義的で、受け入れられません。
「宗教の自由」の前では、手を出すな!となります。
オウムの場合、解散か、反社会的思想がないことを、周囲に「納得」させない限り・・警戒されるでしょう。
「宗教の自由」でも「言論の自由」でも「●●の自由」でも、大切ですが・・
無条件ではないですよ。
相互承認を前提にしない(公共に反する)自由は、社会的に制限されることになります。
制限とは、それは、寛容とは反対です。
「宗教の自由」
「言論の自由」
は、何があっても不可侵だ!!寛容でなくてはならない!!非寛容許せない!!
となれば、「無条件」の自由となり、当然、使う側は、暴走する「可能性」があるわけです。
それは、やはり原理主義的じゃないですか。ちがいますか?(それが常に、最上位)
「宗教の自由」?いいですよ、自己完結してるなら・・●●なら・・
「言論の自由」?いいですよ、誹謗中傷とかでないないら・・××じゃないなら・・
と、「条件」があるハズですよ。
無条件だと、
「それ誹謗中傷だろ」というと、「言論の自由の侵害だ」!!といいだすでしょ。
黙らせたいときは、言うでしょ。
適性さん
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寛容の精神からは、許せないことかもしれませんが。
外国では、性犯罪者の、再犯率の高さから、社会に、顔や住所を公表しているところさえありますよね。プライバシー無視ですね。
警察、周囲の人は、警戒し、抑止力をはたらかせ、自分や、家族を守ることを優先しているわけです。「同じあやまちがおきない為」の効果は高いでしょうね。
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と「性犯罪者の再犯率の高さ」を理由にあげておきながら
>私は、本当は 犯罪の種類 内容 再犯率は、問題にしていません。
とおっしゃるのでは、適性さんのことばは信用できませんね。
■スループさん
>適性さんのことばは信用できませんね。
信用????
???
私は・・「性犯罪者の、再犯率の高さ」を性犯罪者、顔や住所を公表するようになった理由の一つとして、上げていますよ。事実の提示でしかありません。
私は、
「再犯率」が高いから・・・寛容でなくていい
「再犯率」が低いから・・寛容であるべきだ
なんて、主張はしてません。わかりますよね?
なんども書きますが、
その人が、相手「なんらかの危険性や問題を感じる」から、それなりの対応をする。
わけです。
大量無差別殺人の「再犯率が低い」から・・・寛容であるべき とでも思っているのですか??
■スループさん
社会や個人が、個人や団体に対して「なんらかの危険性や問題を感じる」から、「それなりの対応」とする。
そこが、押さえられればいいのですよ。
性犯罪者の話は・・
危険性が、非常に高いから、「それなりの対応」が、『非常に極端』な、元犯罪者にとって不利益となる、非寛容な対応をしているのです。
それはレベルに応じて「対応しているわけです」。
実は、非寛容な「それなりの対応」は、人は日々していますよね。そんな特別な例でなくても。
私は、ちゃんと説明してるつもりなんですが・・。
たしかに再犯率の高さを問題にした例をだしました。
そして、私の主張は、再犯率とは「直接」関係ないと、説明しました。とくに矛盾もありません。
先に書きましたが、「再犯率」が高いから、非寛容はしかたない。という主張ではありません。
しかし
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性犯罪者の再犯率の高さ」を理由にあげておきながら
>私は、本当は 犯罪の種類 内容 再犯率は、問題にしていません。
とおっしゃるのでは、適性さんのことばは信用できませんね。
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と、私の「ことば」が「信用できない」ときました。
さて、私は、別にウソをついたわけでもありませんし、丁寧に説明もしましたが、
「適性さんのことばは信用できませんね」ときました。
つまり、自分の「個人的感じ方」で
私の書く「ことば」「文章」を信用しないよ。と『非寛容な態度』になったわけです。
あなたは、
私の言葉に「なんらかの問題を感じる」から、非寛容な「それなりの対応」をしたのでしょ。
あなたは、それを、認めて欲しいのでしょ?
では、オウム真理教の流れをくむ宗教団体を「信用せず」
非寛容な「それなりの対応」をとる人の気持ちもわかるでしょう。
あなたの主張だと・・
あなたの非寛容な態度によって、誰かが「追いやられ」犯罪者になる可能性があるかもしれないのでは?。
オウムはサリン事件以外にもボツリヌス菌や炭疽菌のばらまき青酸ガスの発生など大量殺人を何度も企てています。
さらに自動小銃の密造やロシアにおける射撃訓練など・・・・・・・平穏に暮らす市民への無差別大量殺りくを企てていました。
「教祖の指示は絶対」という組織の元でこれらが現実に行われたのです。失敗に次ぐ失敗でうまくできたのは土谷のサリンという結果にはなりましたが、それでも松本で7人、地下鉄で12人の・・・・・おそらくオウムを敵視したり迫害したりしたこともない・・・・・・・・普通の市民が殺されました。
教祖の狂気を今でも信奉している信者がいるのは怖ろしいことです。
思うところを幾つか書かせてください。
今、オウムについて調べること、知ろうとする事、大事なことと思いますが、同時に流される危険も感じます。報道機関関係者から聞いた話ですが、今回菊池が逮捕された際、高橋もおそらく、ということで、報道機関は各々報道ストーリーを決めた。その関係者の属する報道機関は、菊池は女性でもあり、直近は一般人と生活、高橋には途中で捨てられた(?)ということで、かわいそうな存在。一方高橋は極悪人。こういうストーリーの下で報道がなされている。だから菊池は回心・改心した、麻原をもう信じていないと言っている、一方高橋はいまだに麻原の著書を持ち、麻原を尊師と呼んでいる等の報道でストーリーを補強する。こういった事が起こっています。
私も経済関係の件で新聞・テレビにコメントした経験がありますが、取材に来るときには既にストーリーは出来あがっていて、私のコメントは材料に過ぎない。私の言葉ではあるがこういう文脈に置かれるとこうも違う意味になってしまうのか、という経験を何度もしています。地域、時代様がおっしゃられるように、ここに集まられる方は自分を強くお持ちだとは思いますが、それでもマスコミの力は侮らない方が良い。新興宗教絡みで言うとイエスの方舟のことを思い出します。あれは結局犯罪的要素はなかった訳ですが、マスコミは、毎日を除き壮大なネガキャンをやって、国会でも対策が論じられるところまで行ってしまったわけです。あの中で、真実の情報を拾う事がどれほど難しかったかを思うと、遺伝様の言われることと少し共通するのかと思っていますが、オウムをマスコミが格好の餌食としている現在、情報を取り、真実を知るのは却って難しい、敢えて少し時間を置きたいように思います。
信教の自由について、以前書いたことと少し矛盾しますが、私自身は信教の自由を絶対的に保証する必要はなく、そうすべきでもないと思います。裁判所も、内心の信仰は絶対的に保証されなければいけないが、宗教的行為と結社の自由は公序良俗的な制限に服すとしており妥当だと思います。だから、オウムが外的に行った行為が信教の自由の下に全て正当化されるというのは法律的にもない。しかし、難しいのはどういう場合にどの程度制限していいのか、すべきなのかという点。この点に関して今の状況で論ずることには躊躇、リスクを感じます。今のマスコミ論調は、麻原は俗物、上祐もインチキ、そんなものを信じるなんてあり得ない、だから全て否定、オウム後継団体に宗教的行為、結社の自由なんてあり得ないという流れ。この中で信教の自由を論じるべきと言う風には思えないのです。それは内心の信仰の自由の否定にまで繋がってしまうリスクを感じます。麻原の生い立ちから、俗物性を暴く、というのはそういう流れを感じます。どれほど物のわかった、意見のしっかりした人でも、流されるリスクがあると思います。
日本の場合、国家神道=軍国主義を否定するために信教の自由が過度に保護されている面があるとは思っています。それ故、宗教団体の脱税等分かっていながら手が出せない等々。この点は論点が拡散してしまうので立ち入りませんが。
>オウムをマスコミが格好の餌食としている現在、情報を取り、真実を知るのは却って難しい、敢えて少し時間を置きたいように思います。
あれれ・・・・・・? 今の菊地、高橋のことを知ろうとしているわけではありませんよ。彼らの裁判はこれからですし。
地下鉄サリンから17年目に造られたNHKの番組を契機に「オウム真理教とはなんだったのか?」と自分なりに総括しておきたいということで書き込みました。二人を除くすべての裁判が終わり判決も出ましたので後世のための資料となる本、公判記録、識者のコメントなどは出尽くしたと言っていいでしょう。(麻原主催のオウムに関しては)
ですから・・・・・読んでいる本もすべて1991年の江川さんのオウム追跡から1995年の地下鉄サリン直後から2004年ぐらいまでに書かれたものです。
「麻原彰晃の誕生」も2006年。マスコミに流される危険とは何を意味しているんですか?
動機様が言われるように、菊池・高橋逮捕という足元の事態に乗って出て来ているジャーナリスティックな報道に惑わされず、客観的事実、評価の定まった見解を調べて行くのであれば流されるリスクは少ないと思います。大変僭越ですが賢明だと思います。マスコミに流されるリスクと言うのは、まさに足元でテレビ・新聞等が流している、新事実かのようでありながら、実は既知の事実を、菊池・高橋逮捕を材料にいかに「受けるか」を狙った報道を念頭に言っています。
私自身はオウムを見直すのに今の時点は敢えて避けます。動機様が言われている通り、全貌が分かるにはまだしばらくかかると思いますので。動機様が↑のように言われることに敢えて異論を唱えるものでないことはご理解願います。































